2015.10.17 島津斉彬
明治日本の産業遺産と薩摩の名君

松野町夫 (翻訳家)

明治日本の産業遺産が2015年7月に世界遺産に登録された。登録名称は「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」。英語の名称はSites of Japan’s Meiji Industrial Revolution: Iron and Steel, Shipbuilding and Coal Mining. 産業遺産は福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、山口、静岡、岩手の8県に点在し、合計23施設で構成されている。

鹿児島では3施設が登録された。「集成館」(反射炉跡・機械工場・紡績所技師館)、「寺山炭窯跡」、「関吉の疎水溝」。いずれも鹿児島市内にあり、そのほとんどは島津斉彬(しまづ なりあきら)が建設したもの。ただし、紡績所技師館(=異人館)は、斉彬の後継者・島津忠義(ただよし)が1867年にイギリス人技術者の宿舎として建設した。

島津斉彬(1809-1858)

島津斉彬は幕末の薩摩藩の第11 代藩主。島津氏第28代当主。第10代藩主・島津斉興(なりおき)の長男として、1809年3月14日、江戸薩摩藩邸で生まれる。早くから英明をうたわれ、和漢洋の学問に秀でていた。洋学に興味を抱くようになったのは、薩摩藩の第8代藩主で、曽祖父の島津重豪(しげひで, 1745-1833)の影響が大きい。重豪は、曾孫である斉彬の利発さを愛し、幼少から暫くの間一緒に暮らし、入浴も一緒にしたほど斉彬を可愛がった。重豪は斉彬と共にシーボルトと会見し、当時の西洋の情況を聞いたりしている。

ちなみに、シーボルト(1796-1866)はドイツの医師。1823年6月に来日。本来ドイツ人だが、オランダ人と偽って長崎の出島のオランダ商館医となった。医学ばかりでなく、動物、植物、地理にも造詣が深かった。出島で開業した後、1824年には長崎郊外に私塾「鳴滝塾」を開設し、日本各地から集まってきた多くの医者や学者に西洋医学(蘭学)を講義した。塾生には、高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいる。1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、国外追放処分となる(シーボルト事件)。当初の予定では帰国3年後に再来日する予定だったという。

1848年には斉彬は40歳の壮齢であったが、斉興は藩主の座を譲らなかった。斉興は側室のお由羅(ゆら)の方との間に生まれた久光を後継者にしようと考えていた。こうして薩摩藩は、嫡子・斉彬を擁立する派と久光を擁立する派が対立し、お家騒動(お由羅騒動)に発展した。1849年、斉彬派側近は久光とお由羅を暗殺しようと計画したが、情報が事前に漏れて首謀者13名は切腹、連座した約50名が遠島・謹慎に処せられたが、この騒動が幕府の耳に入り、斉興は隠居を命じられ、斉彬が家督を継いだ。

1851年2月、斉彬は藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。1851年7月には、土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し藩士に造船法などを学ばせたほか、1854年、洋式帆船「いろは丸」を完成させ、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興した。西洋式軍艦「昇平丸」を建造し幕府に献上している。黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船「雲行丸」として結実させた。斉彬は徳川斉昭、松平慶永や老中・阿部正弘らと親交があり、その見識は高く評価されていた。ペリー来航(1853)による国内不安に際しては、幕府に開国と海防の要を説いた。斉彬はまた、西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)ら下級武士を藩政に登用し、その後の薩摩藩の勤王運動の原点となった。

鹿児島市照国町には、照国神社(てるくにじんじゃ)がある。この神社は鹿児島の夏の風物詩「六月灯(ろくがつどう)」で県民に親しまれているが、祭神は照国大明神(島津斉彬)。

ちなみに六月灯とは、旧暦の6月(現在は7月)に和紙に絵や文字を書いた灯籠を県内の神社や寺院に飾り、歌や踊りを奉納する祭りのこと。なかでも照国神社の六月灯が最大規模である。

Comment
 幕末の薩摩藩については負の側面も頭に入れておきたいものです。
 角川文庫の「日本史探訪」の20冊目の「幕末に散った火花」。
 その中に「幕末琉球伝」として、こんなことが書かれています。
 「島津家が、財政困難に陥りまして、当時の金で藩の藩債が五百万両あった。それで、藩の財政の立て直しをやった時に、徹底的に奄美大島から沖縄に至るまでの土地から搾取しました。
 十数年で財政を立て直して、おまけに少なからぬ貯金ができております。
 だから幕末維新の薩摩の費用というのはですね、大体において南島地方、つまり奄美大島から沖縄地方を搾取してこしらえた金が大部分であるという事実は、われわれは忘れてはならないと思います。」
 この部分は、鹿児島生まれの作家、海音寺潮五郎氏が述べたものです。
 幕末において、薩摩藩が大きな影響力を持てたのは、島民の苦しみの上に成り立っていたということができると思います。
(URL) 2015/10/18 Sun 13:49 [ Edit ]
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