2015.10.22 イスラム過激派を顕在化したアルカイダとタリバン
イスラム断章(4)

伊藤力司 (ジャーナリスト)

アルカイダのアルはアラビア語の定冠詞、カイダは基地、基盤、座、雲といった意味の名詞である。タリバンもアラビア語で、学生を意味するタリブの複数形である。もちろん世界中で知られているアルカイダとは、アフガニスタンで反ソ・ゲリラの闘士として名を売ったウサマ・ビンラディンが率いた国際テロ組織のことだ。タリバンはソ連撤退後のアフガニスタンの混乱の中で1998年までにほぼ全土を制圧、2001年までイスラム原理主義の政権を維持した武装集団である。

タリバン政権は2001年の「9・11事件」で、アメリカの「お尋ね者」になったウサマ・ビンラディンらアルカイダをかくまったことで、米国の敵となった。ブッシュ米政権は、2001年10月から首都カブールなどアフガンスタン国内のタリバン政権の拠点への空爆を開始。さらにCIA(中央情報局)を通じて、同国内反タリバン勢力の北部同盟への軍事支援を本格化した。北部同盟は米軍機の援護下、カブールに進撃して11月これを陥落させ、12月にはタリバンの根拠地カンダハルを占領、タリバン政権は消滅した。

これより先1989年にソ連軍が撤退した後もアフガニスタンでは、人民民主党(共産党)のナジブラ書記長が大統領を務めていたが、ソ連軍に抵抗したイスラム武装勢力各派が統一戦線を組んで波状的なゲリラ攻撃を続けた結果、ナジブラ政権は1992年4月に崩壊した。この後主要ゲリラ10派は暫定評議会を設置し、学者として名望のあったヌルハッディン・ラバニ氏を議長に全権を委ねた。ラバニ議長は同年12月暫定評議会で大統領に選ばれたが、ゲリラ各派の主導権争いでラバニ政権は四分五裂、アフガニスタンは再び内戦に陥った。

首都カブールが混乱している中、パキスタン北西部にイスラム原理主義派が設立したマドラサ(イスラム神学校)で学んだアフガン人同窓生が結成した武装集団タリバンが、1994年10月南部の主要都市カンダハルを制圧した。ナジブラ政権を倒した各派のゲリラ兵が、各地で住民に追いはぎ、強盗、婦女暴行などを働いて評判を落とす中で、タリバン兵は志操堅固で悪さをしないとして評判を上げた。タリバンはカンダハルから西に向かってイラン国境のヘラートを落とし、さらに東進して1996年9月首都カブールを制圧、1998年9月までに国土の90%を制圧した。

人口約3130万人(2014年推定値)のアフガニスタンは多人種国家で、パシュトゥン人42%、タジク人27%、ハザラ人9%、ウズベク人9%その他トルクメン人などという複雑な構成だ。パシュトゥン人はアフガニスタン南部から東部にかけて住む多数派である。さらに国境を越えたパキスタン北西部にもパシュトゥン人多数が住んでいる。人口比で第2のタジク人は北東部に住み、北隣のタジキスタンの主要民族である。パシュトゥン人はパシュトゥ語を、タジク人はペルシャ語系のダリー語を話す。タリバンはパシュトゥン人が主体で、タリバンに敵対する北部同盟はタジク人やウズベク人で構成される。

政権を奪取したタリバンは、歌舞音曲の禁止、男子家族の付き添いなしの婦女子の外出禁止、女子生徒の通学禁止など、7世紀以来のイスラム社会の慣行に沿った厳格な規制を人々に押し付け、宗教警察が違反者を取り締まるといった、いわゆるイスラム原理主義の政策を実行した。タリバンはシューラーと呼ばれる最高評議会で、対ソ戦で片目を失った戦士ムハンマド・ウマル師を「アミール・アルムミニーン」(信仰者の代表)という名の首長に選出、国名をアフガニスタン首長国に変えた(ウマル師は2013年4月亡命先のパキスタン国内で死亡した)。

アフガニスタンからのソ連軍撤退に力を貸したムジャヒディーン(聖戦士)はそれぞれアラブ諸国に帰国したが、母国では英雄視されたのはほんの短期間で間もなく厄介視されるようになる。参戦中にアルカイダのリーダーになったウサマ・ビンラディンも1990年にサウジアラビア王国に帰国、英雄として若者たちに歓迎されたが、1991年の湾岸戦争をめぐり米軍のサウジ駐留に反対して王国政府にうとまれて、1992年密出国してスーダンに逃れた。彼の滞在を許したスーダン政府にアメリカからの圧力がかかり、ビンラディンは1996年一族郎党を連れて空路アフガニスタンに逃れた。

ビンラディンは当初、アフガニスタン東部のジャジャラバードに対ソ・ジハード時代の戦友にかくまわれたが、やがてタリバンが全土を掌握するに及んで本拠地カンダハルに一族郎党と住むビルを与えられた。タリバンの指導者ウマル師とも昵懇の間柄となった。このころ、対ソ・ジハードで知り合ったエジプト人アイマン・ザワヒリ医師が、カンダハルにやって来てビンラディンの率いるアルカイダに合流した。ザワヒリは、1982年のサダト・エジプト大統領殺害を実行したエジプトの過激派組織ジハード団の有力メンバーだった。

ビンラディンとザワヒリは1998年2月、連名で「ユダヤと十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線」の名前で、全世界のイスラム教徒に向かってアメリカとイスラエルに対するジハードを呼びかけるファトワをインターネットで発表した。ファトワとは、学識の深いイスラム法学者だけが発表できるイスラム法学上の「裁決」に当たる用語で、全世界のイスラム教徒はこれに従うべきものとされている。1998年8月、在タンザニアと在ケニアのアメリカ大使館が相次いで爆破され多数の死傷者がでたテロ事件は、このファトワに従ったアルカイダ・メンバーが実行したとされる。

当時のクリントン米政権はこの後、ビンラディン、ザワヒリらアルカイダ首脳部がアフガニスタン東部ホスト州の地下基地に潜んでいるとのCIA情報を受けて、ホスト州地下基地めがけて巡航ミサイルを発射したがもぬけの殻だった。2001年9月11日、ニューヨークのツインタワー爆破など米国を襲った同時多発テロ事件は、アルカイダの犯行だと米当局は断定して、ビンラディンらの引き渡しをタリバン政権に要求した。タリバン側はこれを拒否したため、ブッシュ米政権は2001年9月アフガン戦争を開戦、以来15年にわたって足が抜けないでいる。

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