2015.10.28 戦後70年の哀しさ(2)
―吉田満のエッセイを読み返して―

半澤健市 (元金融機関勤務)

《吉田満の「遺書」を繰り返し読む》
 戦艦「大和」の沖縄特攻に生き残った吉田満(よしだ・みつる、1923~1979年)は、雑誌に載せるエッセイをベッドで夫人に口述していた。1979年秋のことである。それは彼の絶筆となった。次に掲げるのはその文章の末尾である。(■から■)

■「故人老いず生者老いゆく恨かな」菊池寛のよく知られた名句である。「恨かな」というところに、邪気のない味があるのであろうが、私なら「生者老いゆく痛みかな」とでも結んでみたい。戦死者はいつまでも若い。いや、生き残りが日を追って老いゆくにつれ、ますます若返る。慰霊祭の祭場や同期会の会場で、われわれの脳裏に立ち現れる彼らの童顔は痛ましいほど幼く、澄んだ眼が眩い。その前でわれわれは初老の身のかくしようがない。
彼らは自らの死の意味を納得したいと念じながら、ほとんど何事も知らずして散った。その中の一人は遺書に将来新生日本が世界史の中で正しい役割を果たす日の来ることのみ願うと書いた。その行末を見とどけることもなく、青春の無限の可能性が失われた空白の大きさが悲しい。悲しいというよりも、憤りを抑えることができない。

戦後日本の社会は、どのような実りを結んだか。新日本のかかげた民主主義、平和論、経済優先思想は、広く世界の、特にアジアを中心とする発展途上国の受け入れるところとなりえたか。政治は戦前とどう変わったか。われわれは一体、何をやってきたのか。
沈黙は許されない。戦中派世代のあとを引き継ぐべきジェネレーションにある息子たちに向って、自らのよりどころとする信条、確かな罪責の自覚とを、ぶつけるべきではないか。

ベッドから顔を上げると、窓いっぱいに秋の雲が、沸き立つように、天の涯を流れるのが眺められる。

 おうい雲よ
 ゆうゆうと
 馬鹿にのんきそうじゃないか
 どこまてゆくんだ
 ずっと磐城平の方までゆくんか

と明治の詩人はうたった。雲に対して戦中派はこんなふうに呼びかけることはできない。ただ圧倒されて、しかし来たるべきものにひそかな期待を寄せながら、高い雲の頂きを仰ぎ見るのみである。(「戦中派の死生観」、『文藝春秋』1979年11月号)■

《痛ましいほど幼い童顔と澄んだ眼の死者は》
 1945年4月の「大和」沈没から70年が過ぎ、キリスト者吉田が神に召されてから36年が経った。彼が「ひそかな期待」を寄せた「来たるべきもの」はどのような現実となったか。

2015年10月18日、「われわれの」首相安倍晋三は何をしていたか。
『産経新聞』(10月19日)によれば、安倍は相模湾上にいた。海上自衛隊による艦艇42隻、航空機37機による観艦式で観閲を行い、海自隊員には「国民の命守り抜く」との訓示を述べた。韓国・米国・オーストラリア・フランス・インドの諸国艦艇も祝賀航行を行った。ついで首相は、最近横須賀基地に配備された米原子力空母「ロナルド・レーガン」に乗艦し、艦内を視察した。艦載機の操縦席にも入った。現職首相が米空母に乗艦するのは初めてのことである。

テレビ画面は、安倍が嬉々として米機の操縦席に着席したり、米艦隊司令官に対して新空母の配備を「『トモダチ作戦』に従事した日米の絆のシンボルだ」と発言するのを報じた。この映像は、「日米同盟」の名のもとに米国に隷従する日本の姿を直截に表現している。近い将来に自衛隊が米軍の傭兵となって世界に展開することを予感させる。日本の最高指導者の屈辱的で異様な姿を世界に晒している。

「痛ましいほど幼い童顔で澄んだ眼が眩い」死んだ兵士たちは無言である。掩護戦闘機なしで出撃し、350機の米艦載機によって撃沈された、「大和」の死者たちも無言である。(2015/10/26)

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