2015.12.18  党議拘束をやめたら?  民主、維新の先生がたへ
暴論珍説メモ(139)

田畑光永 (ジャーナリスト)

 民主党と、橋下大阪市長一派が抜けた維新の党が、来年の通常国会から統一会派を結成することになった由。今の「一強多弱」の国会で野党がばらばらではどうにもならないから、すこしでもまとまった数を増やして、巨大与党に対抗しようということらしい。会派の名前は「民主・維新・無所属の会」とか。寄合世帯であることを素直に表現した名前だが、聞いただけで多くを期待できない気分になる。
 統一会派結成について、民主党の岡田代表は「1足す1が3にも4にもなるように頑張って、安倍政権の暴走を抑えたい」と語ったそうだが、残念ながら国会というところは、1足す1はどうあがいても2にしかならないところだ。岡田代表とてそんなことは百も承知で、しかしそうとでも言わなければ、統一会派結成の説明がつかなかったのであろう。
 で、その数はどうなるか。衆議院では民主の71人に維新の21人で92人、参議院では民主の59人に維新の5人で64人。衆議院では自民292人、公明の35人の合計327人の3分の1にも足りず、参議院でも自民115人、公明20人の合計135人の半分にもならない。これでは今の国会のありかたでは、安倍政権の暴走を抑えるといっても手がかりさえない。
 ただそれはあくまで今の国会のありかたを前提にしての話だ。本来、民主主義は少数意見のためのものである。「民主主義は多数ではない(Democracy is not majority)」という言葉がある(と聞いたが、誰の言葉か知らない)ように、多数の意見がいつもそのまま通るようでは民主主義とは言えない。
 ではなぜ日本の国会は「民主主義とは多数」なのか。それは政党政治、しかもしばりのきつい政党中心の政治だからである。なぜ政党政治なのか。政治を戦いととらえるからである。戦いなら徒党を組んだほうが、ばらばらで戦うより強い。それには統制がとれていなければならない。
 討論とはそれによって互いの意見を調整して、よりよい結論を出すためのものである。あらかじめ結論が決まっているなら討論はいらない。しかし、考え方を統制し、議論を統制するものどうしがぶつかり合っては、討論は討論にならない。だからわが国会では審議がつくされたかどうかは、どこまで問題の本質が理解され、結論が見えたか、によってではなく、何時間審議したかで決められる。一定時間審議が行われれば、結論が出ようと出まいと採決となる。
そこで統制がものをいう。反対意見の野党側は議場を占拠したり、出入りを妨げたり、議長席を取り囲んだりの「物理的抵抗」に訴え、与党側も野党の物理的抵抗を物理的に排除して「審議を正常化」する。
 この構造は民主と維新が統一会派を作ったところで、変りようがない。1足す1は2でしかない。そこで民主と維新の先生がたに1つ提案がある。今度の統一会派では無理に政策をまとめようとしないで、国会では各自が信念に基づいて賛否を決めることにしたらどうだろうか。
 この難しい時代に国民生活から安全保障まで一定の理念で何十人もがまとまるというのはどだい無理な話である。民主党はもともとばらばらだったのに、そこから出て行った人たちがまた戻ってくるのだから、政策理念を統一するなどとは不可能だろう。
 伝えられる新統一会派の「基本政策合意」なるものでは、憲法についても「護憲」どころではなく、「時代に合わなくなった条文の改正は認める」そうである。さすがに9条をどうこうとは言っていないらしいが、自民党の「憲法改正」路線への防波堤の役割は最初から放棄しているようである。
 だとすれば、無理して「党の政策」をまとめたところで、ほとんど意味はない。それよりも「ばらばら」への批判は覚悟の上で、各自がそれぞれの所信にもとづいて国会活動する集団として統一会派を位置づけたらどうだろうか。投票行動を縛る党議拘束を原則廃止するのだ。
 それでもなにか中心理念がなければというなら、安倍政権へのアンチテーゼとして、「民主・非戦」だけを高く掲げればよい。安倍政権の非民主的体質と戦争への傾斜を食い止めるのを最大公約数とするのだ。これならまとまれるのではないか。
 そんなことをして何の意味がある、と言われそうだが、じつは深い意味がある。今、自民党には衆参合わせて407人もの国会議員がいる。さぞかし多様な考えがあろうと思われるのだが、それがさっぱり聞こえてこない。安倍首相の独裁的政権運営、戦争へ前のめりの姿勢などには、党内にもさまざまな異論があっておかしくないのに、党内、寂として声なし、である。今度の軽減税率騒ぎにしてもそうだった。
 それは大勢の国会議員を擁していればいるほど、政権は野党に対して強いばかりでなく、党内にも強いからだ。与党議員はヘタなことを言ってにらまれたら、政権が続く間、干されるだけだから、大勢いればいるほどものが言えなくなる。これは民主主義の原理とは正反対の状況だ。
 そこで野党が言論の自由のすばらしさを国会で見せつける。統一会派の議員が自由にものを言い、自由に投票する姿を見せれば、大勢いる自民党議員が薪の束のように一括りにされて行動することがばかばかしくなるはずだ。政権にしても、野党がまとまってかかってこないのに、1人で力んでいるのは難しいだろう。
 そうして国会を言論の府に引き戻すのだ。現に米国では、今、問題のTPPでは大筋合意した内容に、与党の民主党は概して反対、野党の共和党が概して賛成というねじれが起こっている。そうなれば大統領は議院1人1人の考えに耳を傾けざるを得なくなる。日本でも党議拘束なしが一般化すれば、各党議員が薪の束のごとく、きつく縛られたまま自由がない時代の気楽な政局運営は、却ってできなくなるはずだ。
 来年夏に衆参同時選挙が取りざたされている今こそ、新しい政治の血路を切り開く覚悟で、党議拘束なしの自由闊達な政治集団という新しい衣装で、来年の通常国会に臨むことを、「民主・維新・無所属の会」の先生がたに提案したい、ご一考を。(151215)
Comment
1国主義的代議制度と政党政治という20世紀(前期)の到達点に幻想をもったままで党議拘束の否定のような自家撞着的弥縫策や枝葉末節を提唱されても微温的ですね。
もっとラジカルにご再考を!
バッジ@ネオ・トロツキスト (URL) 2015/12/20 Sun 11:58 [ Edit ]
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