2008.05.15 黒澤明全作品30作の放映(9) 『虎の尾を踏む男達』
『虎の尾を踏む男達』(1945年)
   ―8月15日を挟んで作られた作品の運命―


半澤健市 (元金融機関勤務)


《敗戦の日の黒澤》
 黒澤明は『蝦蟇の油―自伝のようなもの』という著作のなかで45年8月15日の記憶を次のように書いている。当日、黒澤は玉音放送を聞くために撮影所へ呼び出されていた。

▼往路、祖師谷から砧の撮影所へ行く商店街の様子は、まさに一億玉砕を覚悟した、あわただしい気配で、日本刀を持ち出し、その鞘を払って、抜身の刃をじっと眺めている商家の主人もいた。詔書が終戦の宣言である、と予想していた私は、この有様を見て、日本はどうなる事かと思った。しかし撮影所で終戦の詔勅を聞いて、家へ帰るその道は、まるで空気が一変し、商店街の人々は祭りの前日のように、浮々とした表情で立ち働いていた。これは、日本人の性格の柔軟性なのか、それとも虚弱性なのか。私は、少なくとも、日本人の性格には、この両面がある、と考えざるを得なかった。この両面は、私自身の中にもある。もし、終戦の詔勅がなく、いや、あれが一億玉砕を呼びかけるものだったら、あの祖師谷の道にいた人達は、それに従って死んだろう。そして、おそらく、私もそうしたであろう。

黒澤はこのとき歌舞伎「勧進帳」の映像化である『虎の尾を踏む男達』という映画を撮っていた。5月に矢口陽子(黒澤作品『一番美しく』に出演)と結婚した直後である。『虎の尾・・』は8月15日をはさんで撮影された。これより先、桶狭間の戦いを描く「どっこい!この槍」を作る予定が戦局急変で肝心の馬が手当できず、企画は「勧進帳」の映画化へと変わったのである。

《少しだけミュージカルの「勧進帳」》
 厳しい撮影条件だった。撮影場所は、セットが一つと撮影所近くの「御料林」(皇室所有の森林)だけである。歌舞伎では能舞台を模した松羽目物は簡素で色彩も単純な舞台を使う。この映画の舞台も、野外と「安宅の関」だけで構成され、関所は幔幕と床几で表現している。
山伏姿で陸奥に下ろうとする源義経(岩井半四郎)一行が弁慶(大河内伝次郎)の苦計で難を逃れる。事情を知って通過を許す関守の富樫(藤田進)の人間味。日本人によく知られた歌舞伎十八番の展開は映画でも基本的に同じであった。しかし黒澤は新たに榎本健一演ずる強力(ごうりき)役を創造した。エノケンは、コメディリリーフとして劇の立体化に大きく寄与した。白紙の勧進帳を後から覗いて驚くエノケンの役割を、映画評論家のおすぎは、「観客の眼を実現」しているといっている。的確な観察である。
セリフはやや現代語風になっている。開巻とラスト直前に台詞がコーラスに変わる。違和感はない。黒澤は、師匠の山本嘉次郎が監督したミュージカル『エノケンのちゃっきり金太』(37年)や『エノケンの孫悟空』(40年)の助監督についた。それでミュージカルやエノケンの使い方を学んだ。音楽は服部正である。黒澤はさらに本格的なミュージカルを作る構想ももっていたがその夢は破れた。黒澤はつぎのようにいう。

▼あの写真では榎本(健一)さんが評判よかった。(略)僕はこれで、その榎本さんのいいところを取捨選択しただけのことなんです。マイケル・パウエルさん(英国人映画監督、代表作に『赤い靴』)が遊びに来た時に何ももてなすものがないのでこれを見て貰ったんだが、ひどく喜んでくれたな。こういう形式の写真はも少し贅沢ななやり方でもう一度作って見たい。早坂(文雄)とも相談してたんだが・・・(早坂の死で)もう駄目だね。これで、プツンと切れてしまった。(荻昌弘対談)

この作品の見どころは弁慶を演じた大河内伝次郎の演技と存在感である。
白紙の勧進帳を読み上げる場面、富樫と対峙する場面、義経に手を取られる場面、富樫からの酒宴を受ける場面。悲劇を迎え撃つ英雄を大河内は見事に演じた。彼のクローズアップは、日本映画が表現できた限りの、もっとも立派な日本人の顔の一つであったと思う。映画が加えた人物に梶原景時の使者(久松保夫)がいる。この悪役は、当時の欧米映画にある「典型的な東洋人」風の顔をしている。黒澤は見学米兵を意識してわざとステレオタイプのメークアップをさせたのかと思うくらいである。

《敗戦の屈辱のなかで》
8月下旬以降、米軍進駐が本格化した。『虎の尾を踏む男達』の撮影所に米軍の将兵が見学に来るようになる。黒澤はこう書いている。

▼在る時なぞは、大挙してやって来て、私の作品の風俗が面白いのか、キャメラをパチパチやるし、八ミリは廻すし、中には、自分が日本刀で斬られるところを撮ってくれ、という奴まで出て来て、収拾がつかなくなって、撮影を中止したことがある。そんな在る日、私がステージのデッキに上がって、俯瞰撮影をしていると、アメリカの将官や高級将校の一団がステージに入って来た。さすがに、その一団は、静かに撮影を見物して引き上げて行ったが、実は、その中にジョン・フォード(米映画監督)がいたのである。(『蝦蟇の油』)

黒澤が敬愛していたジョン・フォードは米軍の一員として来日したのである。しかし黒澤はフォードがスタジオにきたのを知らなかった。因みにフォードも戦中は戦意昂揚映画「真珠湾攻撃」や記録映画「ミッドウェイ」を作っている。前者は凡作、後者は力作であった。
『虎の尾を踏む男達』の出演者と米兵が一緒に写っている記念写真が何枚も残っている。昨日まで戦意昂揚映画―『雷撃隊出動』(山本嘉次郎、44年12月)や『加藤隼戦闘隊』(同、44年3月)―の主役であった藤田進が、米軍ジープの前で富樫の衣裳におさまった姿は複雑な感情を呼び起こす。

《敗者の美学を表現》
 米兵がスタジオに騒音を生み俳優に記念撮影を迫るなかで黒澤が作った作品は日本古典の新しい表現であった。
義経一行はのちに陸奥の国に滅びるのである。富樫は責任を取って死ぬことになるだろう。8月15日をはさんで敗戦の屈辱のなかに作られた作品は、主役の見事な演技によって「敗者の美学」を表現した。この点に黒澤がどこまで自覚的であったかはわからない。しかし『虎の尾を踏む男達』は、敗戦直後に始まるヒューマニズム謳歌の作品系列ではなく、人間の儚さや悲しみを観照する作品系列に分類されることになるだろう。と同時に、国が存亡の危機にあると感じた映画作家が日本人の自己確認を求めた作品でもあった。

映画のラストシーンで義経たちに取り残されたことに気がついた強力が飛六法を踏んで画面の左側へ消えてゆく。彼は義経主従を追っていったのであろうか。脚本はこうなっている。

▼強力、大の字になって眠っている。
やがて、クシャミを一つすると目を覚ます。義経の小袖がかけられている。
キョトンと見廻す。
誰も居ない。
吃驚りして起き上がると、小手をかざして山道を見降ろす。
遠く去って行く弁慶たちの姿。
強力、キッとして走り出す。
出来損いの飛六法よろしく・・・

さらにこの作品は検閲政治によって公開時期が遅れるという不幸な運命をたどった。戦後しばらく生き延びていた内務省の検閲で、日本古典を愚弄するものと査定された。黒澤らの反論にも拘わらず、内務省は米軍へ提出する「撮影中日本映画リスト」に載せなかった。リストされた作品のみがGHQの検閲対象になるのである。このため占領下では検閲対象にもならなかった。『虎の尾を踏む男達』は、対日平和条約発効と同時の52年4月に日本で公開されたのである。
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