2016.03.09   東京大空襲・戦災資料センターを見学しよう
  3月10日は大空襲から71年

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 3月10日は、「東京大空襲」があった日である。アジア・太平洋戦争下の1945年(昭和20年)3月10日未明に、東京の東部地区が米軍機による大規模な空襲で壊滅的な被害を受け、約10万人が死亡したとされる惨事だが、以前からずっと不思議に思っていたことがある。それは、広島・長崎の原爆被害に匹敵する犠牲者数にもかかわらず、国民の間でこの惨事に対する関心が薄いことだ。私たちは、「東京大空襲」にもっと注目すべきではないか。その実相を広く伝えようと、市民の運動によってつくられ、運営されている「東京大空襲・戦災資料センター」の見学をお勧めしたい。

 「東京大空襲」とは、『アジア・太平洋戦争事典』(吉川弘文館、2015年)よると「一九四五年三月十日、(東京の)下町を主な目標地域とし、推定約一〇万人の犠牲者を出したとされる空襲を東京大空襲と呼ぶ。この空襲は、サイパン・テニアン・グアム島のマリアナ基地を飛び立った第二十一爆撃機集団のB29約三百機によって行われた。米軍の記録によれば、空襲は四五年三月十日零時七分から開始され、三時まで継続した。……投下された焼夷弾は全部で一六六五トン、その中心となったM69焼夷弾は約三二万発に及んだ」「三月十日の東京大空襲の死者数については、関係機関によって集計された数字のうち、東京都による空襲日別の遺体処理数および改葬時に集計された死没者数などをもとに算定された数字が最大であり、少なくとも約九万五〇〇〇人はあったと考えられる。このことから、当時行方不明や川から海に流されるなど処理されなかった多くの遺体の分を合わせて、一般に東京大空襲では推定約一〇万人の犠牲者があったとされる」というものである。

 東京大空襲の後、この年の8月6日には広島に、同9日には長崎に米軍機により原子爆弾が投下され、多数の市民が亡くなった。広島では「13万前後の人びとが11月はじめまでに死亡したと推定される」とされ、長崎では「死亡欠損は6万~7万人と推定される」と言われている(広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編『広島・長崎の原爆災害』、岩波書店、1979年)。

 東京大空襲における犠牲者数は、ヒロシマ・ナガサキの犠牲者数に匹敵するものであったのだ。広島・長崎への原爆投下は非武装の市民を対象にした無差別爆撃であったが、東京大空襲もまた、非武装の市民を対象とした無差別爆撃であったと言っていいだろう。人道上、決して許されるものではない。
 軍事ジャーナリストの前田哲男氏は、ナチス・ドイツ空軍によるスペインのゲルニカへの爆撃(1937年)に始まり、日本軍による中国・重慶への爆撃(1938年)、米英軍によるドイツ・ドレスデンへの爆撃(1945年)、そして、東京、広島・長崎と続く無差別爆撃を「殺す相手を視認せず垂直包囲して都市の破壊を企図する空からのテロル」と呼び、その非人間性を告発している(『戦略爆撃の思想』、凱風社、2006年)。

 にもかかわらず、東京大空襲が国民の間で話題になってこなかったのは、行政側の対応に一因があったのでは、と思えてならない。
 よく知られているように、「広島原爆の日」の8月6日と、「長崎原爆の日」の8月9日には、それぞれ、広島市主催の原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式、長崎市主催の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が、被爆直後から毎年行われてきた。平和団体も1955年以来、この時期に毎年、両市で核兵器廃絶を目指す大会を開いてきた。そればかりでない。被爆の実相を広く伝えるための市立の原爆資料館が、広島と長崎にある。国立の原爆死没者追悼平和祈念館も、広島と長崎に設置されている。これらの催しや施設が、ヒロシマ・ナガサキへの関心を高め、持続させるうえで大きな役割を果たしてきたのは言うまでもない。

 しかるに、東京大空襲の方は、被害の実態を伝えるための公立の資料館なり博物館は存在しない。そうした施設として「平和祈念館」を東京都につくらせようという運動があったが、いまだに実現していない。その間のいきさつについて、自由国民社刊の『現代用語の基礎知識 2001』には次のような記述がある。
 「▼東京都平和祈念館 二〇〇一(平成一三)年の開館を目標に墨田区の都立横網町公園に建設される予定だった祈念館。七九(昭和五四)年の都知事選で「東京空襲を記録する会」が候補者に建設要請を行ったのが発端であり、目的は犠牲者追悼にあった。しかし九七年以後、展示内容をめぐって都議会などで議論が起こり、九九年には「展示内容については都議会の合意を得たうえで建設すること」で合意、同年七月には「施設の新設は原則禁止」の方針が決まり、計画は事実上ストップした(日本経済新聞二〇〇〇年二月一六日付)」

 こうした経緯から、東京空襲を記録する会と財団法人政治経済研究所が民間募金を呼びかけ、4000人を超える人びとの協力を得て2002年3月9日に、空襲被害の最も大きかった江東区の一角に完成させたのが、東京大空襲・戦災資料センター(早乙女勝元・館長)である。
 センターは3階建てで、投下された焼夷弾や、被災品、焼け跡の写真、空襲体験者が描いた絵や手記など約1万点が所蔵、資料されている。

 これらの展示物を見てゆくにつれて、東京大空襲が東京都民にもたらした惨害に胸をつかれた。とりわけ空襲直後の焼け野原に累々と横たわる遺体の写真の前では、しばし足が止まった。と同時に、いい知れぬ憤りが心にわき上がってくるのを感じた。というのは、東京大空襲を指揮した米軍のカーチス・ルメイ少将(後に大将)に、佐藤栄作内閣が1964年に勲一等旭日大綬章を授与したことを思いだしたからだった。日本の航空自衛隊の育成に功績があったというのが、その理由だった。
 大空襲で生命を奪われた人たちは日本政府に侮辱されている。私はそう思わずにはいられなかった。

 東京大空襲・戦災資料センターの所在地は東京都江東区北砂1丁目5-4
 電話:03-5857-5631 FAX:03-5683-3326
 開館日時:水曜日~日曜日 12時~午後4時
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