2016.03.21  ビキニ被災事件の証人・見崎吉男さん逝く
    反核と憲法擁護を訴え続ける

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 20世紀に起きた世界的大事件の一つ、ビキニ被災事件の証人である見崎吉男(みさき・よしお)さん=静岡県焼津市=が肺炎で3月17日に亡くなった。90歳だった。米国の水爆実験に巻き込まれるという波瀾万丈の一生だったが、それでも現実から逃避せずに、反核平和を訴え続けた生涯だった。

 ビキニ被災事件とは、1954年3月1日未明、米国政府が太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で行った水爆実験「ブラボー」で、実験地から東北東150キロ、航行禁止区域から35キロの洋上で操業中だった静岡県焼津港所属のマグロ漁船・第五福竜丸(140トン)の乗組員23人と周辺の島々の住民239人が、「死の灰」(放射性降下物)を浴びた事件。水爆の爆発力は広島型原爆の1000倍以上とされ、それまでで最大規模の核実験だった。
 福竜丸の乗組員23人は、おう吐、倦怠感、頭痛、食欲不振、下痢、頭髪がぬけるなどの症状に襲われ、帰国後、急性放射能症と診断された。6カ月後、無線長の久保山愛吉さんが死亡、水爆による世界最初の犠牲となった。他の乗組員も1年2カ月の入院を余儀なくされた。米国政府が日本の漁業関係者に200万ドル(7億2000万ドル)の慰謝料を払うことで決着をみたが、事件は内外に衝撃を与え、日本では、国民的な原水爆禁止運動が起こるきっかけとなった。

 見崎さんはこの時、28歳、福竜丸の漁労長だった。漁労長とは遠洋漁業の総責任者として乗組員を統括し、知識と経験をもとに船を漁場に誘導し、航海と漁獲に責任を負う者のことで、遠洋漁船では船長以上の権限をもつ。いわば、漁船のトップである。それだけに、帰港後は、漁協、市役所、海上保安部等への報告や、乗組員を治療・入院させるための病院との折衝に追われ、見崎さんにとっては想像を絶する心労の日々ではなかったかと思われる。

 私は全国紙の記者をしていた時に、2度、見崎さんにインタビューしたことがある。最初は1979年2月のことだ。この年がビキニ被災事件から25年にあたり、その特集記事を書くためだった。当時、見崎さんは焼津市小川新町で惣菜店を営んでいたので、その店へうかがった。前掛けをして現れた見崎さんは私を店の奥の居間に通し、インタビューに応じた。
 私はたくさんの質問をぶつけたが、見崎さんは終始口が重かった。それに、口を開く時は、しばらく考えた上で、一語一語言葉を選ぶように話した。だから、「この人は、なぜこんなに慎重な語り口なんだろう」と不審に思ったものだ。
 見崎さんへの2度目のインタビューは1994年の2月。この年がビキニ被災事件から40年にあたったため、それにちなんだ連載記事を書こうと、再び見崎さんを訪ねたのだった。この時も、見崎さんの口は重かった。15年前ほどではなかったが。

 なぜ、見崎さんは寡黙なのだろうか。1回目のインタビューの後、何度も焼津を訪れる機会があり、取材を進めるにつれて、その理由に行き着いた。
 一つは、マスメディアに対する不信だ。被災した福竜丸が焼津に帰港すると、報道機関が殺到、スクープ合戦を繰り広げた。中には、漁師を「不作法、礼儀知らずの集団、野蛮人、酒と女を追いかけて傍若無人」などと描くものもあっようなのだ。そうしたことから、見崎さんは報道に「あまりにお粗末な内容で無責任」との印象を抱くようになり、マスメディアには慎重な態度で臨む、ということになったのではないか、と私には思われた。
 
 もう一つは、地元の市民感情。私が取材したところによれば、焼津では長い間「事件について語ることはタブー」といった空気が町を覆っていた。なぜなら、焼津市民にとっては「福竜丸は焼津に災いをもたらした疫病神」だったからである。町の人たちによれば、福竜丸がもたらしたものといえば、大混乱、漁業への壊滅的被害、町を舞台に繰り広げられた原水爆禁止運動の激しい対立抗争などだった。だから、市民の、福竜丸乗組員への視線も冷たかった。乗組員に米国から慰謝料が支払われたことも、市民の間に反発を呼び起こした。乗組員にとっては肩身の狭い日々が続き、耐え切れずに焼津を去った人も出た。こうした状況下では、見崎さんも無口にならざるをえなかったのではないか、と私は思うようになった。見崎さんとしては「平凡な一市民として生きたい」という気持ちが強かったものと思われる。
 そうであっても、何もしなかったわけではない。元乗組員に呼びかけて「福竜会」をつくり、元乗組員とその家族の結束に力を注いだし、福竜丸の保存にも協力した。

 その見崎さんが2002年ころから、頼まれれば積極的に事件に関する体験を語るようになった。中学、大学、漁業関係団体等々で。これには、1985年から市主催の「第五福竜丸事件・6・30市民集会」が毎年開かれるようになったことも影響しているとみていいのではないか。市総務課によれば、これは、市民が事件に思いをはせ、核兵器廃絶と平和のための努力を誓う集会だそうだ。もはや、事件のことを語ることがタブーでなくなったのだ。
 それに、事件以来、世界と日本の動きを凝視し続けてきた見崎さんの中で「事件と航海のほんとの話を残したい」との思いが高まってきたためのようだ。
 そんな思いが募って、2006年には市民グループの協力を得て、『千の波 万の波――元第五福竜丸漁労長 見崎吉男のことば――』を自費出版する。講演会での発言や手記を収めたものだ。B5判変形で100ページ。

 そこには、2003年5月12日に見崎さんが焼津市立焼津中学校で行った生徒との対話集会の記録も収録されている。生徒の「水爆について訴えたいことは」との質問に対し、見崎さんはこう述べている。
「福竜丸事件は、世間知らずのあわれな漁士の物語ではありません。日本の、世界の問題です。地球上の生物たちと大自然が共存して生きていくための実に大きな意味をもっています。祈りと願いの時代は終わりました。具体的に何をすべきか、何をしなければならないかの時代です。海洋平和国家日本。言葉だけ、心の中を往来している想いだけに終わらせてはいけない。ただの念仏になってしまう」
 「軍備する金があれば、平和な世界をつくるために使うことです。そのためには果敢なる行動とど根性がいる。平和の問題は生半可なことでできるものではないんです。戦争よりもはるかに大仕事です。軍備より大変です。戦争に備える方が現実的で説得力があるように思うが大間違いです。この道はいつか通った道だ、この道を選んではいけない。20世紀の涙を流した道へ引きかえしてはいけないのです。日本人こそ戦争のない世界、核兵器のない世界に立ち向かう勇敢さをもっているのです」

 憲法に関する一文も収められている。そこには、こうある。
 「軍備の増強はどこの国でも常に国民の生活の禍根です。日本の自衛隊の凍結、縮小はごく当たり前のこと。もっと当たり前のことは解体です。日本国憲法には軍事力をもってよいとは書いてない。軍隊はもってはいけないことになっています。だから自衛隊をなくすことは当たり前です。その時の都合でつくってしまったのだから。解体すれば、随分と世の中のためになる。駄目なら半分でも1/3でもよい。その費用を環境と福祉に回す。世界がびっくりするくらい変わる憲法を世界に輸出する。こういう形こそ日本の果たす役割です」

 今こそ、見崎さんの警告に耳を傾けたい。
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