2016.03.24  原節子の戦争と平和(5)
    ―伊丹万作版『新しき土』の物語―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 『新しい土』はファンク版と伊丹版の二本が作られた。
映画史家貴田庄(きだ・しょう、1947~)が近著『原節子物語―若き日々』(朝日文庫、朝日新聞出版・2016年3月刊)でその事情を述べているので、それに従い経緯を簡単に紹介しておく。というのは拙稿「原節子の戦争と平和(2)」で、伊丹版の内容について私は殆ど触れていない。それが気になっていたからである。

《共同監督伊丹万作はなにをしたのか》
 伊丹万作は「共同監督」としてスタッフの一人であった。
その背景には、日独スタッフ仲介の適任者として川喜多長政が推した可能性、ナチスドイツ側が日本人を共同監督とすることを当初から考えていた可能性、のいずれもが考えられると貴田はいう。長政夫人川喜多かしこは戦後の回想で、日独共同の国策映画の監督を伊丹は受ける気はなかったが、最後はファンクの強い要請に応じたのだと書いている。
モダニスト伊丹は、ナチス的なるものには、反対の考え方の持ち主であった。その理由を逐一述べる余裕はないが、心ある読者には筑摩書房『伊丹万作全集』の一読をお勧めする。しかしその映画作家は、少しは自分の考えを反映させうる『新しい土』の脚本執筆にすら参加できなかった。

結局、彼の役割は日本を知らないファンクの画面に対する編集上のアドバイスをしたり、日独スタッフ間の調整役のようなものであった。最悪である。その過程で二人の関係は険悪となり、遂に、ファンク版と別に伊丹版が作られることになった。しかも伊丹版も脚本はファンクによるものである。伊丹万作の心身両面の苦労は大きかった。このときの過労が元々病弱だった伊丹の敗戦直後の死につながった。この認識は親しい関係者に共通するものだという。

《日独両国における『新しい土』》
 私は念のために、『新しい土』をネットで見たが画質は悪いが何とか筋は辿れた。かつて大スクリーンで私が見たのはこのファンク版である。

伊丹版はどう違うのか。
貴田の叙述から読みとれるのは次のことである。脚本が同じだから筋に大きな違いはないが、主人公の留学先がイギリスである。外国語会話は、ファンク版がドイツ語会話、伊丹版は当然ながら英語で進むのである。場面の違いはラストシーンにある。ファンク版では満州を守る日本兵の歩哨のクローズアップで終わるが、伊丹版は満州を警戒する歩哨のロングショットである。

『新しい土』の日独両国における上映は、興行界の話題以上のもの、「国民的事件」となった。日独共に史上希に見る大ヒットとなった。ドイツにおいてはゲッベルス宣伝相の主導と原節子の全国宣伝ツアーによるものである。日本国内では大衆だけでなく知識人の多くが観客となった。日本では伊丹版を最初に、次いでファンク版を―いわば「真打ち登場」として―公開した。見事な興行戦略であった。映画批評家は両者の詳しい比較を書いた。総じてファンク版が優れると評価されている。志賀直哉、齋藤茂吉らの文学者も感想を書いている。
売り込みに努力する川喜多夫妻、日独合作映画の監督を夢見て原節子をアテンドした義兄の熊谷久虎、彼らはドイツのあと、フランスではパリとその周辺、米国ではブロードウェイ、ハリウッドを巡ってから、帰国する。その間の有名監督やスターとの交流、企業化の進んだ興行界、進んだテクノロジーに目を見張る多くのエピソードが面白い。貴田庄の記録は、マニアックになりがちな映画専門書にあって、社会的な文脈をしっかりと抑えて書かれている。

《『新しい土』の物語はファシズムの物語である》
 『新しい土』の物語は、限りなく「愚作」に近い映画に関する物語である。そして日独の映画人が、ファシズムの怒濤に翻弄された物語である。「原節子の戦争と平和」は、その只中にあった、一人の美少女の物語である。(2016/03/20)
Comment
■■前回までの原節子論です。

「原節子の戦争と平和」
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-3394.html
「原節子の戦争と平和(2)」
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「原節子の戦争と平和(3)」
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「原節子の戦争と平和(4)」
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-3412.html
半澤健市 (URL) 2016/03/24 Thu 08:29 [ Edit ]
原節子の出演作として誰しもが想起するのは小津安二郎の諸作品であろう。たしかに原が主役を演ずる小津作品は日本映画の頂点に位置し、日本映画の魅力を世界に浸透させたものと言うことができる。しかし、原にとってはいずれも晩年の作というべきであって、古き良き時代の日本女性を美しく演じてはいても芸域としては狭く物足りなさが残る。これは、何故かいずれも似たり寄ったりの題名しか思いつかない小津監督のなせる業でもあったに違いない。
『新潮』2月号に掲載された四方田犬彦氏の「原節子と戦後」はようやく戦後に映画を見始めたわれわれのような世代のこのような認識を正してくれる。同氏は、原節子の人生にあって最も強い影響力をおよぼした映画監督を「小津とみるか、成瀬とみるか、あるいは山本嘉次郎から黒澤明へと通じるラインとみるかで、女優としての原節子の評価は大きく違ってくるだろう」と指摘する。そしてその上で「わたしは、あえてここで熊谷久虎の名前を記しておきたい誘惑に駆られている」として原の義兄である熊谷が及ぼした少なからぬ影響を論じている。
熊谷は超国家主義団体「スメル塾」の中心人物であり、ナチスドイツに心酔していた。そのため原の尽力にもかかわらず戦後は映画監督として立ち直ることができなかった。四方田氏は、原は熊谷が映画界から完全に姿を消す頃から映画への情熱を喪失していったとし、その引退(1962年)を小津の死に結びつけるものを俗説とした上で、熊谷の挫折が大きく影を落としていたと考えている。
当時のドイツが日本の思想界に及ぼした影響がどのようなものであったか。多くのドイツ文学者は口を閉ざしているが私家版として書き起こされた関楠生著『ドイツ文学者の蹉跌』がそれを鮮明に記録している。このような時代相が独り立ちした年端の行かない美少女の生涯に影のようについて回ったとすれば、映画はただの映画としてだけ見るべきでなくなるかもしれない。
shoji oshima (URL) 2016/03/24 Thu 13:18 [ Edit ]
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