2016.04.18 おんばしら(山出し編)
――八ヶ岳山麓から(180)――

阿部治平(もと高校教師)

長い間準備をした諏訪神社(長野県諏訪地方)の御柱(おんばしら)祭の前半「山出し」が終わった。後半の「里引き」は5月初めにある。
いま諏訪神社は諏訪湖の南に上社、北に下社があって、上社には前宮と本宮、下社には春宮と秋宮がある。いずれも御柱祭をやる。この4つの神社の四周に満6年ごと直径1メートル内外、10トン程度の丸太の柱を立てる。合計16本となる。これが御柱といわれるものである。長野県諏訪地方の町村合併前の行政村が組み合わさって、16の連合を作り、一つの連合が御柱1本を引く。
明治維新までは諏訪(高島)藩が主催したが、それ以後は諏訪地方の人々の寄付と労力提供のボランティアである(氏子は諏訪大社の宮司が主催していると思っているが、神社はカネも力も出してはいない)。
私は上社の「氏子」ということになっているから主に上社について述べる。「山出し」は八ヶ岳中腹の御小屋山から樅の木を切り出して、12キロの道を3日かけて茅野市の「御柱屋敷」まで引っ張って行く。「里引き」は「御柱屋敷」から数キロのところにある諏訪神社上社まで運ぶ。下社にもこの二つの祭事があるから、私の話は祭の4分の一である。

上社の祭神は古事記の記述にもとづいて、出雲から逃げてきたタケミナカタというが、本来の祭神はミシャグチ・ソソウ・チカト・モレヤなど諏訪地方の土着の人物ないしは集団である。いわゆるご神体は守屋山である。江戸時代までは菩薩信仰を中心に神仏混交の神社だった。今でも地元民は「明神さま」という。
明治政府は神仏分離、廃仏毀釈を諏訪神社でも強行して、神宮寺やその五重塔などの文化財を破壊し、国家神道に組み入れた。国家指導者の方針が神のことばとして語られた恐ろしい時代の始まりである。1945年の敗戦までは「戦争の神さま」といわれ、戦後になると「農業、平和の神さま」になった。神道というのは様式化された自然崇拝だから、国家の都合で変身自在である。
室町時代の記録「神長官守矢家文書」によると、御柱のほかこの神社にはさまざまな神事がある。かつては、孤児を育て8歳になると神官にみたて、次の年の神官が決まるとこの子を裸馬に縛り付けて棒でたたいて殺すなどした。今でも前宮の池から冬眠中の蛙を掘り出してこれを三宝に乗せて弓で射殺すという神事がある。ミシャグチ信仰の先住民を、タケミナカタなどの新来の集団が征服したことを象徴するものというが、諸説あって確かなことはわからない。私の小さいとき、父は「みねのたたえ」と呼ばれるホコラを私に示して「これがミシャグチさまを信仰したあとだ」といったことがある。
この中世諏訪神社の態様を明らかにした「守矢家文書」を世に知らしめたのは坂本太郎元東大教授だが、坂本氏以前にこれを解読して、坂本氏にその方法を教えたのは中金子の農民伊藤富雄氏(敗戦直後の長野県副知事)である。

御柱はまず太い材木の根元に穴をあけて、フジの根をより合わせた数十メートルのもと綱2本をつなぐ(地元民にはフジの根の供出が課せられる)。これにロープをつけさらに「引き子」が引っ張る細い縄を結びつける。御柱の頭と尻の部分に二本ずつメドデコと称する材木をV字状に差し込む。これに若い衆が乗る足場の縄を数本ループ状に垂らし、先端に御柱を揺らす縄を張る。かくして上社の御柱は飛行機とよく似た形になる。
御柱にはランクがある。上から「本宮一・前宮一、本宮二・前宮二……」となって、「前宮四」がペケ。これは2月の諏訪神社本宮で氏子総代らのくじ引きで決まる(くじ引きには裏金が動くというウワサが絶えない)。「本宮一」を引き当てるとその連合はお祭り騒ぎになる。昔は「前宮四」を引き当てた氏子総代は冷たい目で見られた。

「山出し」は八ヶ岳山麓標高1400メートルの「綱置き場」から出発する。御柱1本に「梃子方」「斧方」などの「技術」関係、多数の「引き子」とその世話係や何とか総代、かんとか頭など合わせて2,3千人つく。見物人がその数倍ある。今回は3日間の人出は52万、「山出し」最終日の4月4日だけで12万人ということだった(信濃毎日新聞2016・4・5)。
氏子総出で引っ張るといっても、裏声高音の「木遣り」歌がないと動かない。「山の神様、おねがいだァ~♬」といった至極簡単な歌だから、叫び声ともいえる。どの「歌詞」も後半は「おねがいだァ~♬」である。上手に歌うと「よいさ、よいさ」の掛声が自然に上がって御柱が動く。
私は御柱出発地点の地元民ではあるが、確かなのは高校卒業までの御柱祭の記憶である。今回は冥土のみやげと思って、数十年ぶりにまともに参加するつもりで部落の「旗持ち」を志願した。1日目は、哀れにも引き綱に足をとられて転倒、さらに土手からもろに転落したりした。38度の高熱があったのにそうと気づかなかったからである(年は取りたくないものです)。そのため2日目は休み。3日目には「山出し」のクライマックス「木落し」と「川越し」に参加した。

我家に「山出し」を初めて見た外国の客がいたので感想を聞いた。
○千年の伝統がある祭だというが、そんなに長くつづいてきたとは信じられない。
○こんな山のなかで(確かに前半は山林と耕地だが)、こんなに大勢の人が秩序だった行動をするのをはじめてみた。
○だれにでもお酒を飲ませるのが喜びのようだが不思議な習慣だ。
○狭い曲がり角では、木の棒と掛け声だけで太い長い材木を操作したが、その技術に驚いた。
○甲高い美しい歌と掛声が祭を動かしている。
○材木の上にあんなにたくさんの人が乗っているのに、どうして材木を引く人は不満をいわないのだろう。
○「木落し」は危険なのにどうしてみんな材木に乗りたがるのだろう。
○「木落し」「川越し」のところでパーフォーマンスがあったが、意味が分からなかった。残念だった。

私は50年前の御柱祭とは違ったことが多くとまどった。太い樅の木はここ数回は伊那の国有林からトレーラーで持ってくる。今回も同じ。八ヶ岳御小屋山に太い樅の木がなくなったからだ。一般には伊勢湾台風で倒れたからというが、これは事実に反する。第二次大戦敗戦後、諏訪神社の宮司連中が木を製紙会社に売ったから「デンキンバシラ」くらいのものしかなくなったというのが一世代前の人々の見方だった。
今回は、事前にやたらと「安全で楽しく」が強調され、「曳行」予定表が配られ、時間割に従って木を引いた。そのために氏子総代や「曳行」係が「引き子」に「あと15分頑張ってくりょー」などと声をかけた。桟敷に座る観光客のために時間割り通りに引くのだとか、国の無形文化財に指定してもらいたいからだという。
「引き子」は氏子のしるしの祭りのはっぴを着てほしい、はっぴの背中に諏訪神社の紋章の「梶の葉」のあるのは遠慮してほしいという話にはあきれた。商標登録でもやったのか。以前は、こんにちのようにそろいのシャツとはっぴ、腹掛け、ニッカーズボン、地下足袋などというものもなかった。地下足袋はともかく着るものは、みな思い思いの「胴着」と称するはんてんで、その上から派手な腰帯を締めた。

以前は「木遣り」は1人で歌ったものだが、今回は斉唱。それも子供と女性の声が響き渡った。また以前は「木遣り」があっても、歌が下手だと「引き子」が引かなかったが、今回は「木遣り」の声があがると「引き子」はそれに十分に応えた。
またラッパ隊の役割が大きくなっていた。ラッパにチューバとドラムが加わっていたのには驚いた。彼らは「木遣り」に続いて旧陸軍の進軍ラッパや突撃ラッパ、アメリカ軍の曲を吹いて「引き子」を励ました。以前は「旧軍隊の曲を吹くのはどうかと思う」という声があったが、今回はまったく聞かれなかった。私はラッパを聞くたびに「ハラヘッタ ヘイタイサンガ ペコペコトンデクー」と敗戦直前の悪童時代に覚えた替え歌?を思い出しておかしかった。
以前はみんなが一升瓶をかついでいて、酒をふるまい合ったが、今回は部落ごとにリヤカーに酒を用意してあった。酔っぱらって雪解けの泥のなかに転び込んで「あんころ餅」のようになったり、その「あんころ餅」が若い女性に抱きついたり、飲みすぎた「引き子」が何人も田んぼの土手で寝こんだり、「おとっさまがどっかへ行っちまった」と息子が飲みすぎた親父を捜しまわったり、さらには駐在警官が酔って御柱の「メドデコ」に乗ったりしたこともあった。今回は諏訪地方の方言でいう、こうした「ゴタをやる」のを何一つ見なかった。
臨時の公衆便所がところどころにあって、「立小便」は見られなくなった。御柱を引き終わった道は清掃係がいてきれいに掃除した。

祭が始まる前の日、私が「綱置き場」にいると、自分の村の御柱がどこにあるかと尋ねた婦人がいた。「嫁に来て30年経つが、一度も自分の村で引く御柱を見たことがないので、御柱が出発する前に見に来た」といった。以前は御柱街道沿いの家ではだれかれとなく酒肴をふるまったが、今はまれになった。それでも客を接待する嫁の苦労はずっと続いていたのである。
私の感想は「これが御柱祭か、こんなに管理された御柱なんか御柱じゃない」というものである。

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