2016.05.24   私もひとこと
    ――八ヶ岳山麓から(183)――

阿部治平(もと高校教師)

このたび米オバマ大統領がサミットに参加するついでに広島を訪問するという。日本政府は日米関係強化の機会として大歓迎である。私はオバマが広島を訪問するなら、原爆投下について直接言及し謝罪するべきだという意見だが、ひとこと言いたい。

中学生のとき、理科の木船清先生は、「ドイツがもう少し長く戦争をやっていたらアメリカは原爆を落しただろうか。落せない。日本人が黄色人種だからわりに気楽に原爆を落す決意をしたのではないか」といった。高校3年生のとき、幼稚な手段ではあるが原爆について調査し、木船先生のいうとおり原爆投下は、アメリカが日本のポツダム宣言受諾がまぢかいことを十分に承知したうえで実行したことを知った。これによって私は偏狭な反米主義者になった。私の場合、かたくなな反米意識を卒業するまでにはずいぶん時間がかかった。この点は中国人やほかのアジア人が反日感情を根強く維持するのと同じ経過である。
敗戦40周年の1985年に中村平治・桐山昇編『アジア1945年―「大東亜共栄圏」壊滅のとき』(青木書店)の出版に参加したとき、原爆投下がアジアの人々にどんなふうに受け止められたかを調査し執筆したことがある。以下はその一部の焼直しである。

原爆投下によって日本が甚大な被害をこうむり戦闘力が低下したことは、日本に侵略されていたアジア各地の人々にとっては歓迎すべきことであった。原爆投下とポツダム宣言受諾はほとんど一緒にアジア各地に届いたから、多くの場合このふたつを区別することは難しい。
遠くチベットにも「アトム・ボンボ」という爆弾で日本は全滅したというニュースが入った。ラサにいた漢人は、ヒトラーとムソリーニ、東条の上に蒋介石がまたがった山車を担いでこれを祝った(西川一三『秘境西域八年の潜行』)。そのとき漢人に反感を持つチベット人が石を投げたという話もあった。
マレーシアの作家、イスマイル・フセインはこう語っている。
「広島に原爆がおとされたとき、私自身は12歳でした。その時に、原爆に対して私の家族がどんな反応を示したかをよく憶えています。大変な興奮状態でした。原爆の投下をラジオで聞いて、家族は、大変な技術の進歩だ、三日間で長い間の戦争に終止符をうってくれた、と話していました。長い間のマレーシアの苦しみがこれで終わって、戦争から解放されたという興奮がマレーシアの村々を駆け巡ったのです。しかし原子爆弾の持つ意味については、誰も気がつきませんでした」(岩波ブックレット『反核と第三世界』)。彼の家族は広島だけでなく長崎の原爆投下も知っていたのだ。
同じころ、広島・長崎の原爆投下について、南インドの有力紙「ザ・ヒンドゥ」も、「膨大な破壊兵器のリストにアメリカは今や原爆を付加えた。……日本支配者の愚行のゆえに一般人が粉々に吹き飛ばされてしまったとすれば、恐ろしいことだ」と書いた。
同紙への投書で、マドラス・クリスチャン・カレッジの教授プラッテンは、日本の都市への原爆投下に対し嫌悪の情を表明した。「原爆の恐怖についてのレポートがヨーロッパやアメリカから送られてくるが、今までのところその中に、連合国側がかくの如き兵器を現実に使用したことを恥だとする意見は見いだせない」と書いて、原爆投下の非道義性を指摘した(A Hundred Years of The Hindu )。
国民党政府の臨時首都重慶には、国共合作によって中国共産党の代表葉剣英が滞在していた。その指導下にあった「新華日報」8月9日付時評は、「原子爆弾に想う」と題して冒頭次のように書いている。

原子爆弾の発明とそのはじめての使用は全世界を揺るがした。科学革命と戦争革命が同日に発生したのである。原子爆弾の真の性能については、われわれはいまだこれを検討するに十分な具体的資料を持っていないが、今までに得た新聞報道によれば、その破壊力の猛烈なことと殺傷性の巨大なることはすでに疑う余地のない事実である。
日本侵略者が最初にこの人類史上空前の強烈な兵器の打撃を受けたことはファシスト侵略者の当然受くべき応報であり、8年このかた日本ファシストの野蛮な殺戮を受けてきた我々中国人民からすれば、だまされている罪なき日本人は別として、日本軍閥に対してはなんら憐憫の情を持ちえない。しかしながら、本来人間生活の幸福に役立つべき科学が、かくの如き残酷な破壊力と殺傷性を持つ武器に応用されたことは、全人類――とくに全世界の科学に献身している学者たちにさぞかし深刻な感慨をもたらしたことであろう(高橋磌一『歴史教育と歴史意識』)。

ちなみにこのときの「新華日報」の編集主任は、廖沫沙(1907~1991)であった。彼はのちの文化大革命期に呉晗・鄧拓とともに毛沢東を批判したとして苛酷な迫害を受けた三家村の1人である。呉晗・鄧拓は殺された。
「新華日報」に原爆投下の時評が載った翌10日には、重慶に日本降服のニュースが入った。作家馮雪峰(1903~1976)はこう書いている。彼も文革初期から投獄されたうちの1人である。

その晩9時過ぎに私が町へ出ると民族路と五四路の交叉するところで、3,4人の米兵が手をふりながら走ってくるのが見えた。多勢の市民が彼らのあとから押しよせてくる。私も立ち止まって労働者の身なりをした青年を呼び止めて訊ねた。あとである機械工場の労働者とわかったが、彼は私にむしゃぶりついて言った。日本が無条件降伏をしたのだと。これにつづいたのは全重慶の熱狂だった。爆竹が鳴る音は数時間やまず、人々は街中歓呼の声をあげて走りまわり、自然に水の流れのようなデモ隊となった。私も当然すぐにこの空前の歓喜の中に埋没していったのである(雪峰文集第三巻)。

原爆で殺されたのは日本人だけではない。当時の広島と長崎には多数の朝鮮人と中国人がおり、連合国軍の捕虜もいた。岩垂弘さんは、本ブログで「なかでも圧倒的に多かったのが朝鮮人で、広島では、当時5万人近い朝鮮人がいて被爆、うち2万人が死亡したと推定されている。長崎では、被災地内にいた1万2000~1万4000人の朝鮮人のうち1500~2000人が死亡したと推定されている」という(2013・08・23)。

日本の1930年代からの中国侵略、それに引き続くアジア侵略と、アメリカの原爆投下による殺人とは違いがあるかもしれない。しかし原爆投下が日本敗北が決定的となった時に行われたことを考えると、やはり無辜の人民の大量殺傷事件に変りがない。

かりにオバマが広島で原爆の悲惨な結果を見て考えを変えたとしても、米大統領としては核廃絶をいいつつ、核不拡散条約と核兵器独占の擁護を唱えるだけだろう。そして安倍政権はオバマ広島訪問を日米同盟強化と参院選挙に利用するだろう。これではアメリカの対日戦争勝利記念行事に限りなく近い。
それでも我国人民の多くはオバマの広島訪問を歓迎するだろう。可哀そうな日本人。

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