2016.05.28   文革論争は中国社会に混乱をもたらすか――もたらさない
     ――八ヶ岳山麓から(184)――

阿部治平(もと高校教師)


いままで中国文化大革命について、私は自分の思い出にまつわるあれこれを書いてきた。だがなお気にかかるのは、現在中国の老百姓(庶民)や知識人らが文革をどう考えているかということである。これについて中共中央の発言が文革をめぐる状況を明確に語っているので、まずそれを紹介したい。

5月16日は、50年前文革開始の大号令つまり中国共産党中央政治局拡大会議のいわゆる「五一六通知」がでた「記念日」である。中国では国家的事件の記念日には必ず公式行事が行われている。たとえば対日関係では「九一八(柳条湖事件)」「七七(盧溝橋事件)」などである。
だがこの5月16日には行事も声明もなかった。欧米や日本のメディアが検証記事や特集を相次いで掲載するなか、人民日報など中国のメディアは完全にこれを無視しているかのようにみえた。ところがその前夜に、突然ネット上に左右両派が現れて激しくやりあった。これを見た人は勝負はつかないが、右にも左にもその背後に参謀や助っ人がいるようにみえたという。ここで左というのは文革的手法を支持する保守派である。右は文革現象が復活しつつあるのを警戒する改革派である。
5月16日昼は静かだったが、その深夜零時突然人民日報SNS「微博」に任平名義の「歴史を鑑としてさらに前進しよう」という論文が現れた。同時に環球時報にも同趣旨の単仁平の評論員論文が掲載された。日本の各ディアは17日一斉に任平論文の要旨を伝えた。
それはだいたい文化大革命を完全な錯誤だったとし、あらためて党の公式見解を確認し、歴史の教訓をくみ取り、前進するよう訴えた。また「文革のような過ちを繰り返してはいけない」と指摘し、「現在、われわれは歴史上のどの時代よりも中華民族の偉大な復興の目標に近づいている」として、社会の発展を目指すよう呼び掛けた、というものであった(北京時事2016・5・17など)。

だが私は任平・単仁平論文の狙いはこの要旨では伝わらないと思う。任平論文には次のようなくだりがある。
――11期第6回中央委員会総会は、「建国以来の党のいくつかの歴史問題に関する決議」を通過させ、新中国成立以来の一連の重大な歴史問題に関して正確な結論を出した(いわゆる「歴史決議」)。それは「文化大革命」と「プロレタリア独裁下の継続革命の理論」を徹底的に否定し、事実にもとづいて真実を求める態度で毛沢東同志の歴史的地位を評価し、毛沢東思想を党の指導思想とする偉大な意義を十分に論述するものであった。この決議は文革の政治的性格と原因の分析に関しては、実践の検証と人民の検証と歴史上の検証を受けたものであって、動かすべからざる科学性と権威性をもったものである――
公式見解「歴史決議」が「動かすべからざる科学性、権威性もったもの」と強調している。任平論文は5月16日前夜の論争などを踏まえて、毛沢東の評価も文革の評価もすでに定まっている、これ以上の議論はやめろ、みんな黙れということではないか。
もちろん「歴史決議」が「文化大革命」と「プロレタリア独裁下の継続革命の理論」を否定しながら「毛沢東思想を党の指導思想とする」というのは、はなはだしい自己撞着である。「歴史決議」のなかにそもそも論争の火種があるといわねばならない。

産経矢板明夫記者は以下のような事実をあげて、習政権は左右両派の対立が政治的混乱に至るのを警戒しているという。
ある中国の雑誌編集者は矢板記者に「文革に一切触れるなという党宣伝部からの通達があった」と明らかにした。
4月から5月にかけて、文革で被害を受けた複数の改革派老幹部の誕生日パーティーが治安当局のレストランなどにたいする圧力によって中止された。
広東省汕頭(スワトウ)市にある文革博物館も4月下旬から閉鎖された。インターネット上では、「文革の清算は終わっていない」「政府は被害者に公式謝罪すべきだ」などと投稿された文革批判の書き込みが次々と削除された。
ところが、その一方で習政権は暗に左を支持していると矢板記者はいう。
5月2日北京の人民大会堂で、中国の女性アイドルグループが制服姿で、文革時代を想起させる毛沢東の巨大な肖像画や習近平国家主席の映像を前に共産党を礼賛する公演を行った。
遼寧省大連市では14日、保守系政治団体が主導するデモ行進が行われ、少なくとも数千人が参加した。毛沢東の写真や語録を掲げ、文革期の毛沢東や共産党を称賛する「紅歌」が次々と歌われた。たしかに、いずれも中共当局のOKなしにできるものじゃない。
以上が文革記念日をめぐる現状である。

次に2年前ネットに登場したかなり変わった文革支持論、簫羽の「私の眼中の文革、それは失敗した反腐敗運動だ」を紹介したい(2014・9・25、原載は人民日報だが日付不明。この論文はほうぼうに引用されている)。
簫羽は父母や祖父母の話から、長年文革を恐怖の十年間だと思っていた。ところが大学の最終学期のとき、さる教授の講義を聞いてこの見方を完全に変えたという。
先生は、毛沢東の反右派闘争と文革初期の考え方は、意外にも延安での黄炎培との対話によって生まれたものだと語った。黄炎培(1899~1965)は民国時代からの教育者で民主同盟の指導者、革命後政府委員など新政府高官となった人だ。毛沢東と会見したのは1945年革命前夜のことである。
黄炎培は、歴代王朝の初期には支配階級は賢くもあり規律もあったが、のちには必ず腐敗して敗れ去った。共産党は革命に成功したのちこの悪循環をどう打ち破るか、と毛沢東に問題を投げかけた。(毛沢東はこれをよく憶えていて)国家権力を握ると、党外の知識人に党が腐敗するのを監視させようとして、「百家争鳴、百花斉放」運動を始めた。中共の統治について意見・不満があったら遠慮なくいいなさい、聞きましょうという趣旨だ。
ところが知識人の中共批判は、毛沢東の思惑を越える激しいものになった。このため毛沢東は知識人に対する信頼を完全に失い、たちまち知識人弾圧の反右派闘争に反転したというのである。
さらに1964、65年頃毛沢東は党内の官僚主義がだんだんひどくなるのを感じて、自分の警護員をひそかに労改農場(=監獄)へ派遣した。現場を見た警護員は毛沢東に労改の隊長が囚人を奴隷化している状況を報告した。この報告に毛沢東は激しく動揺した。そしてすでに官僚の腐敗が始まっている、現状では自分が打ち立てた中国ではなくなった、革命を発動するほか手はないと考えた。そこで、毛沢東は彼個人の威信を利用して労農大衆を動員し、党官僚打倒のため歴史上前例のない運動すなわち文革を発動するに至ったのだ。先生はこう説いたという。

彼は先生のこの講義によって、祖父母や両親が文革で苦労したのは文革の初期に限られる、文革にゆきすぎが一部あったが、(ブルジョア・知識人・地主など)出身の悪い人も含めて無権の老百姓を攻撃したのではない。そのうえ 文革期にも生産力の発展があり、簡単に大災難だとかばかりはいえないと考えるようになった。文革は、全体としては反官僚主義・反腐敗の運動が失敗したものであると判断せざるを得ない。そこで簫羽はそれぞれの角度からもっと文革研究をやらせるべきだ、こうしてはじめてこれを教訓とすることができると主張する。

この論文には「危ない」ところがいくつもある。
たとえば彼の父母は、(文革を始めた当時)毛沢東はすでにボケていた、そのうえ封建思想を持ち、皇帝の地位に登ろうとして功臣を叩き落したと「とんでもないこと」を語っている。彼自身も、文革は労農人民に政治をさせたが、いま政治は政治家の仕事、経済は経済学者、金もうけは商人。労農人民の声はどこにあるか、と現状に対する不満をあからさまにしている。
さらに、かの教授は「現在までのところ毛沢東の(選集はあるが)全集は出版できていない、なぜか。中共中央は何を恐れているか私にはよくわからないが、おそらくは毛沢東の言論の多くが現在の(資本主義路線の)指導方向と相反するものだからであろう」と語ったという。
簫羽論文が公表されたのは2014年9月、習近平の文革傾斜がそろそろあきらかになりつつあるときだった。問題はあっても文革肯定論だから人民日報に掲載されたのかもしれない。

文革は10億中国人のほとんどが10年間ひどい目にあい、大量の死傷者を出した時代である。にもかかわらず、いまもってなぜ文革を肯定する人々が多いか。それは党官僚の腐敗・不正・不作為によって「反官僚主義・反腐敗運動」を望む老百姓がいるからだ。だから左派は底辺の民衆の声を代弁しているともいえる。
一方習政権の権力集中、個人崇拝の意図的醸成、言論弾圧の激化をみて文革的状況の再来を警戒し、もう一度文革を総括して社会改革をすすめようという人々もまた無視できないほどいる。
そこで両派の文革論争が政治的混乱をもたらすと習近平政権が考えているのなら、それは自らの統治力の過小評価である。全国に網を張った治安機関の実力を見れば、文革論争くらいで混乱は生まれない。ましてや中央から郷村に至るまで君臨する党の支配が揺らぐことなど考えられない。
だが、習政権の姿勢からすればしばらくは公然たる文革論争はできないと思う。実に残念だ。

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