2016.07.01 強まる中華民族主義――中国のハト派外交官・呉健民逝く
――八ヶ岳山麓から(189)――

阿部治平(もと高校教師)

6月9日、かつてインドと中国が領有権を争い、いまインドの実効支配下にあるアルナチャルプラデシュ州(NEFA、ブータン東方のヒマラヤ南麓地域)に中国兵約250人が侵入したことが分かった。9日は、中国海軍が艦船を尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺の接続水域で航行させた時期と重なる。中国はインドが日米両国と安全保障で連携を強めていることに反発し、軍事的圧力をかけた可能性がある(産経2016・6・15)。
日本政府は中国艦船航行に中国側に抗議した際、領海に侵入した場合は「必要な行動をとる」と伝達した。海上警備行動である。これは限定的ながら武器が使用できる(信濃毎日2016・6・20)。
6月14日、中国と東南アジア諸国連合(ASEAN)の特別外相会合が雲南省玉渓市で開かれ、南シナ海問題をめぐり議論が交わされた。ASEAN側は中国が人工島造成などを進める南シナ海情勢について「深刻な懸念」を表明。予定されていた共同記者会見も中止になるなど、双方の意見の違いが浮き彫りになった。同時に(中国の外交攻勢によって)ASEAN側の足並みがそろわないことも明かになった。中国は「(ASEANではなく)2国間で平和的に解決すべきだ」としている(赤旗2016・6・16)。
南シナ海問題をめぐり、フィリピンが提起した国際仲裁裁判所の判断が今月末にも出される見通しだが、王毅外相はもちろん、中国南海研究院の呉士存院長も「仲裁裁判所は管轄権を有していない」との認識を示し、いかなる判断が出ても「中国を束縛するものではない」と主張した。呉氏は、問題の本質は領有権の帰属を決め境界線を画定させることであり、条約の枠内にないと語った(共同2016・6・22)。
以上、6月に入ってからだけでも中国と周辺国家との間は、緊張が高まり続けている。

6月18日、中国外交界の重鎮呉健民が亡くなった。湖北省武漢大学の講義に向かう途中、乗っていた車が事故を起したという。事故の詳細はわからない。
呉健民は1939年生まれ、59年北京外語学院フランス語科卒業。中国外交部(外務省)に勤務し、のちにフランス大使などを務めた。2003年から08年まで外交部直属の外交官養成機関である外交学院院長であり、中国外交界では有名なハト派であった。
訃報をつたえた信濃毎日新聞は、「江沢民・胡錦濤両指導部時代に中国の『平和的発展』を宣伝するスポークスマン役を担った。国際フォーラムやメディアで日中関係などについて積極的に発言、偏狭なナショナリズムを戒めた」と記している(共同2016・6・19)。
4月22日付赤旗新聞の北京特派員小林拓也記者のインタービュー記事は、呉健民の外交観をよく伝えている。
インタービューは「既存の大国と台頭する大国との衝突は避けられない」――古代ギリシャの歴史家トゥキディデスが唱えた、いわゆる「トゥキディデスのわな」に、現代の米中が陥りつつあるのではないか、という小林記者の質問からか始まった。呉健民の答えは以下のとおり。

1、米中関係は「トゥキディデスのわな」には陥らないだろう。たとえば2013年の習近平・オバマ会談では両国は「衝突せず、対抗せず、協力とウィンウィンの米中新型関係」構築を目指すことで一致した。
2、米中間には矛盾・摩擦があるから、「トゥキディデスのわな」に陥る危険がまったくないとはいえないが、気候変動・北朝鮮・イランの核など共通利益をはかれる問題もある。米中関係がうまく進んだのは、両国の軍事交流、北朝鮮の核武装阻止などの合意、温室効果ガスHFCの製造・使用の削減合意などがあったためだ。CO2排出量で世界1位の中国と世界2位の米国のフロン類についての合意は大量の削減になるので、地球温暖化阻止への効果は大きい。
2、米中間の意見の相違は当然だが、意見の違いが(交渉次第で)協力に変化する例もある。習近平・オバマ会談では米中間のサイバー攻撃問題は最終的解決に協力推進することで一致した(解放軍サイバー部隊がアメリカ企業・政府機関へ侵入して盗み去った知的財産は数兆円単位だという)。
3、現在解決できる問題と時間がかかる問題を分けるべきだ。いずれを今日解決するか、いずれを明日にするか、いや明後日にするかということだ。明後日になれば解決する問題を、むりやり今日明日にも解決しようとしてはならない。
4、意見が違っても、対抗するのではなく、共通利益の部分では協力する。南シナ海問題は中国がアメリカの覇権に挑戦することが警戒されている。だがこれをめぐるどの国も領土問題の平和解決を主張しているから、時間がかかっても希望はある。中国と東南アジア諸国連合(ASEAN)との間には、領土紛争の平和解決を目指すとした「南シナ海行動宣言」があり、法的拘束力を持つ「南シナ海行動規範」制定の協議が進んでいる。
5、近年中国は世界の舞台の中心に躍り出た。中国の台頭に周辺国は脅威を感じている。これをどう取り除くかは中国が考えるべき問題だ。中国で偏狭なナショナリズムが強くなっていることは警戒を要する。また中国の一部メディアは極端な主張をしている。国家が台頭するときにはナショナリズムが高まる。だから私は中国人に冷静な思考をよびかけているのだ。

さらに呉健民は別のところでも、「思い上がりは避けるべきだ。わが民族は自然災害に遭いつづけてきたから災害を恐れない。恐るべきは頭脳の混迷である」と語ったことがある。
また彼は2015年,「習近平主席のアメリカ訪問成功が示すもの」という文章で「アメリカはいま唯一の超大国で軍事力は最強である。中国は世界第二の経済を擁している。経済の勃興とともに軍事力も絶えず増強してきた。米中がもし衝突したら、眼もあてられない悲惨な結果をもたらす」と語っている。

もちろんこのような平和交渉を優先する外交戦略に対しては、強烈な反対・反感がある。中国の軍事外交に強い影響力のあるタカ派の主張と呉健民とはどう異なるか。
2014年8月、鳳凰衛視(TV)での呉健民とタカ派将官の羅援との討論から主なところをみると、原則問題で羅援は「現在最大の問題は、西側国家が中国が盛んになるのを抑えつけようとしていることだ」と語っている。
これに対して呉健民は「西側に中国を抑えつけようとする人はいる。だがこれはイデオロギー上の問題であって、西側の一致した(外交)政策だとすることには私は賛成しない」と主張し、その被害者意識をたしなめた。
また呉健民は、平和的発展は時代のテーマである。だから国家間の争いは平和的交渉で解決すべきだ。誰が戦争の旗幟を高く掲げるのか、誰が戦争になってさんざんな目に合うのかと主張した。
これに対して羅援は、我々は1988年南シナ海の(スプラトリー(南沙)諸島の)島礁6つを奪還したが、どの島が単なる交渉で帰って来たのか。(外交交渉によっていては)いまごろはベトナムの腹の中におさまっているのではないか。君はそれを交渉で吐き出させることができると思うのかと反論した
この討論を紹介した羅援の支持者は、外交戦略が呉健民のいうように「すべての争いは平和的に解決できる」わけではあるまい。50年代の抗米援朝戦争でも武力でアメリカと戦ってアメリカを交渉の席に着かせた。「外交と軍事は一致したものだ」と呉健民を非難している。
呉健民が羅援を時代錯誤の戦争観を持っていると批判したのに対して、羅援は「我々は侵略戦争と不正義の戦争には反対するが、侵略に抵抗する戦争正義の戦争は支持する」とし、「マルクスレーニン主義の戦争観はすでに過去のものとなったというのか」と問い、鄧小平は1978年、84年二回国境で反撃作戦を指揮した。では「鄧小平も時代錯誤なのか」と呉健民を追及した。
これに対し呉健民は沈黙したという。
1978年の戦争とは、ベトナム軍がカンボジアを長期占領したのに対し、鄧小平が「懲罰」として「対越自衛反撃戦」を展開したものである。84年は中越間の国境紛争である。当時の外交官として呉健民がこの戦争にどういう考えを持ったかはわからない。
しかし、彼の現在の考えかたからすれば、78年、84年はもちろん、88年のスプラトリー諸島の軍事占領を含めて、長期交渉を予期した外交交渉を展開すべきものである。だがそれを口にすれば鄧小平批判になるから、呉健民は沈黙を余儀なくされたのである。

呉健民は先の赤旗新聞のインタービューで「中国の台頭に周辺国は脅威を感じている。これをどう取り除くかは中国が考えるべき問題だ」といった。だがこのような外交官は、現在中国では主流たりえない。
王毅外相はカナダでの記者会見で横柄な態度を見せて人々に眉をひそめさせた。ことほどさように中国は、既成の大国アテネに立ち向かった新興スパルタのように意気盛んである。呉健民が憂慮したナショナリズム=中華民族主義は大陸に渦巻いている。そしてナショナリズムはひとを昏迷に陥れる。
尖閣諸島近海も、南シナ海並みに緊張が高まる日が近づいている。中国との平和共存を望むものは、これが現実になったときどう対処すべきか準備する必要に迫られている。

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