2016.09.07  クルド人、新たな歴史を切り開くか
    ―ISとの地上戦で善戦し、国際的信頼高める

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

シリア北東部の中規模都市ラッカを本拠地に、シリア、イラクで支配地を広げ、北アフリカ、欧州、アジアの一部にまで残虐なテロを繰り返すイスラム国(IS)。シリア、イラクでは米国を主力とする有志国連合がISへの空爆を続けているが、ISを地上で追いつめ、壊滅して住民を解放できるのは、両国の政府軍と様々な武装勢力のはずだ。
なかでも、シリアでの対IS作戦で最も戦果を挙げ、有志国連合に信頼されているのは、クルド人武装勢力YPG(人民防衛部隊)。8月にはラッカとトルコ国境を結ぶ幹線道路上の重要な小都市を相次いでIS支配から解放したが、ISと戦う主力の一翼であるはずのトルコ軍が、それらの小都市に入ったYPGを砲撃、住民まで犠牲にし、米国がトルコにYPG攻撃を止めるよう強く要請する事態が発生した。前回も、トルコのエルドアン大統領の姿勢が怪しいと書いたが、エルドアンは自国のメディアに「YPGもPKK(クルド労働者党、クルド人国家樹立を目指すトルコの武装組織)も同じだ。どれもISと同様、戦うべき敵だ」と、YPG攻撃を説明した。
クルド人はアラブ人、トルコ人とは人種的に異なるインド・アーリア系人種で、中東ではイラン人に近い。長い歴史にわたって、現在の地名でトルコ、シリア、イラク、イラン、アルメニア、アゼルバイジャンなど山地が連なる地域に生活してきた。ごく短い年月、一部地域で独立国家自立を宣言したことはあるが、長続きしなかった。クルド語を共通言語とするが、地域差が大きく、“住む谷が違えば、言葉が通じない民族”とまでいわれる。
現在、総人口は3千~3千5百万人、国家を持たない最大の民族といわれる。長年、別々の国家に分かれ、住み続けてきたために、クルド人としての自覚は根強くあっても、統一国家建設を目指すクルド人の国際的運動は発展しなかった。
宗教はイスラム教スンニ派が大半だが、東方キリスト教徒や、古代からの中東の宗派ゾロアスター教の流れを引くヤジディ教徒など他宗派もいる。しかし、復古的で偏狭な教義を強制するイスラム指導者が、国家やISのような組織を動かすことも少なくないアラブ世界とは異なり、クルド人たちは他の宗教、宗派の民族にたいしておおらかで、クルド社会内部でも宗教的強制が緩やかなように思う。もちろんそれは、国家を持たない民族として長い歴史を生き抜いてきたからだろう。その一方で、イスラム教徒としての自覚と行動は、アラブはじめ他民族のイスラム教徒と異なるわけではなく、例えば酒は飲まないし、イスタンブールやアンカラのような大都会以外の地方都市や農村では、女性の多くがヘジャブ(髪隠しのスカーフ)をかぶっている。
しかしいま中東で、ISに対する国際社会の戦いが続く中、クルド人の存在が改めてクローズアップされてきた。イラクでも、シリアでも、トルコでも、それぞれの国内での紛争が、クルド人の参加なしには解決できないこと、クルド人がそのために必要の力量を持っていることが明らかになったのだ。米国はじめISとの戦う諸国も、国連はじめ国際社会はそのことを認識し、クルド人の民族自決を支援すべきではないだろうか。各国ごとのその現状は、別稿で検討しよう。
▽クルド人との付き合い
古い話になるが、私がクルド人と最初に付き合ったのは、1973年から76年まで3年3か月、共同通信の中東特派員としてベイルート支局に駐在した時だ。その間、2年間ほど助手と務めたてくれたのがノザドというクルド人だった。彼は、実によく助手を務めてくれ、内戦状態になったレバノンで私と行動をともにした。彼がいなければ、私は無事に職務を終えることができなかったろう。
ノザドは自分のことをあまり話さなかったが、年齢は30歳前後。イラク人で、たぶんモスルの国立大学で学び、バース党独裁政権下のイラクから逃れて、国際都市ベイルートに来たのだろう。クルド語、アラビア語以外に、英語さらにトルコ語を話した。各国のラジオをよく聞いていて、レバノンだけでなく、中東で起こっていることを、よく知っていた。がっしりした体格。75年から始まったレバノン内戦の中、時には砲弾、銃弾が飛び交う街で、取材と本社への原稿送稿のため動く私と、ドライバー兼用心棒になって行動を共にしてくれた。ノザドは時間と約束をきちんと守るので、感心すると、いつも「アラブ人はレイジー(怠惰、のんびり)だが、クルド人はパンクチャル(時間厳守)ですよ」と答えた。
次に親しくなったのは、イスタンブールの絨毯屋の親父と息子たち、70年代に日本の援助と技術で作ったガラタ橋の取材で行ったときに、偶然入ってみたブルー・モスクのそばの絨毯屋の店主だった。トルコ・コーヒーをごちそうになりながら、小さな息子が助けてくれて、片言の英語とドイツ語で長話をした。ほぼ20年後、大学での研究テーマをもってイスタンブールに行ったとき、さっそくかの絨毯屋に行くと親父もそのままの姿ですわっており、二人の息子たちは、ハンサムな若者になって、日本語とIT達者の青年実業家に成長していた。早速。二人の交代でイスタンブールを隅々まで案内してもらい、クルド人の知り合いたちとも話をした。
その翌年には、息子たちのアレンジで、親父の生まれ故郷のトルコ東部国境地帯イードルを一人旅で訪ねた。イスタンブールから船で黒海岸の港町トラブゾンまで行き、そこから昔マルコポーロが通った陸路をエルズルムまで行き、さらに半日以上かけてイードルに行く。イードルは、トルコとアルメニアの国境にそびえる聖書伝説の山アララトの山麓の町だ。親父に代わって農業を継いだ妹さん家族と親戚に歓迎され、片言のドイツ語、トルコ語と身振り、手振りで長く会話した。案内役のいとこは長年ドイツに出稼ぎをしていたという。
イードルから南へ、イランへの幹線道路が通るワンまで5日かけてバスを乗り継いだ。トルコ東部はクルド人が多い地域で、どこでもクルド人の人たちに、親切にしてもらった。
日本語の達者なイスタンブールの絨毯屋の二人の息子はいま、日本に来て、青山に立派な店を開き、絨毯とくにキリムの販売に力を入れている。
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