2016.09.27  「人民が熱愛する総書記を攻撃するものは誰か」――毛沢東崇拝と習近平礼賛
   ――八ヶ岳山麓から(198)――

阿部治平(もと高校教師)

9月9日、毛沢東の40年目の命日に中国のメッセンジャーアプリ「微信」に「今日、我々はなぜ毛沢東を敬愛するか」と題する「詩」が現れた。
前半、毛沢東への敬慕の情を歌うが詩情はない。その後半で中国の軍備・技術・生産の成果を称え、さらには杭州G20 で会議の「ゲームのルール」を決めたのは中国だと誇る。
「必ずやアメリカの世界貿易の主導権とドル支配を終らせるぞ!」
「おお、かくも盛んな国力は毛主席の願いだった……。40年前毛沢東はお亡くなりになったが、毛沢東精神は生きている。中国人民がひとたび立上れば、もはやだれも屈服させることはできないのだ!」
「毛沢東精神永垂不朽、中国共産党万歳!」

南シナ海や東シナ海で国威を発揚し、G20 の議長を務めたのは習近平中国共産党総書記である。毛沢東礼賛の先には習近平が存在している。そういえば、スターリンはレーニンを礼賛することによってボリシェヴィキの主導権をにぎったのでした。
このやり方の上を行くのは毛沢東賛歌の「東方紅」の替歌で、もろに習近平を礼賛するものだ。それが恥ずかしげもなくテレビで堂々うたわれる。かつてプロコフィエフの「スターリン・カンタータ」というのもありました。
中国のメディアに頻繁に登場する習近平礼賛の文言は、「自分らを幸福にしてくれる人」とか、「人民は領袖を愛し、領袖は人民を愛する」という、文化大革命時代を思わせるものである。
だが礼賛者は毛沢東を天まで持上げるが、だれも毛沢東が敵視したはずの中国の特徴のある社会主義=市場経済体制を否定しない。

このような指導者礼賛にはまずは強い敵の存在がつきものだ。そこで「社会主義中国をめちゃめちゃにしようとする者はまず党・指導者と人民大衆の団結を破壊し内乱を起す」「その内なる敵と結んで中国をゆさぶるものは西側勢力である」とこれも文化大革命時代の文言が登場する。
大漢民族主義(=中華民族主義)も同居する。強国アメリカ、さらに仇敵「小日本」と対峙する指導者は「偉大」である。大漢民族主義は少数民族の漢民族への強制的同化となってあらわれる。あからさまな華夷思想の表明にも遠慮がなくなった。人民日報系の新聞「環球時報」の座談会では、将官が韓国の「THAAD」の設置をめぐって、韓国を懲罰し「中国なりの国際ルール」に従わせるべしと発言している。

中国の国家安全法には「ネット空間の国家主権擁護」が規定されているが、遺憾なことに習近平批判がときどき現れる。先日も習近平がG20関連の会議で原稿を読み間違えて、「寛農」と読むべきところ「寛衣」とやったものだから、ネット上に批判やからかいが殺到した。これを当局の手のものが必死になって削除した。
そこで「人民が熱愛する習近平総書記を包囲攻撃するものは誰か」というおっとり刀の人も出てくるわけで、「悪党どもが『微信』を制圧した状態をこれ以上放置しておくわけにはゆかない! 習総書記を熱愛し、党中央を熱愛し、党を熱愛し、祖国を熱愛するすべての友よ、今や大胆に立ち上がり、意気高く自己の立場と感情を主張せよ」と叫ぶ。あげくの果てに「政府の関係機関は義務をしっかり果たすべきである」と権力の出動を求める
(以上http://mp.weixin.qq.com/s? 2016・09・09)。

さらに指導者の礼賛に並行して異議申し立て派の排除がすすむ。
習近平の邪魔者とみなされた政・軍の高級幹部の粛清は、それが正当であるか否かはべつとして、いまも続けられている。ネット空間のオピニオン・リーダーや公民権運動の活動家らの逮捕も相次ぐ。これぞというものを中央テレビ(CCTV)に引っ張り出し、「私は悪事を働きました」とさらしものにして恐怖心をあおる。

21世紀の今日、中国では指導者礼賛がこのように盛大にやれるのは、皇帝崇拝の社会的土壌があるからではなかろうか。歴代王朝は皇帝とその官僚群、儒教思想というトライアングルによって、民衆を「臣民」として支配してきた。旧時代は中央官僚の威力は県レベルまでだが、その下の郷村は官僚の意を体した地主らに支配された。
中国史の上で、唯一の例外は辛亥革命(1911年)後の一時期である。このときは専制支配の廃絶と、「臣民」をブルジョア社会の「国民」の地位にまで高めようとする「三民主義」の努力があった。陳独秀や魯迅の言論が存在でき、曲がりなりにも代議制の萌芽があった。しかし最終的に日本の侵略と蒋介石の支配がこれを破壊した。
1949年に国民党に勝利した中共は、辛亥革命を継承するとしながらも、代議政治も普通選挙も実施しようとはしなかった。毛沢東が事実上の皇帝となり、党組織はたちまち官僚組織に変り、郷村に至るまで直接支配したのは必然である。毛沢東なき今日では中共中央常務委員会の集団帝政がこれを継承している。
国是の哲学はマルクス・レーニン主義と毛沢東思想だが、実体はスターリン主義が接木された専制主義と大漢民族主義である。これにいまや新型の儒教道徳も加わった。皇帝崇拝も「官尊民卑」の伝統も維持された。「官」の位階制による権威づけが広く行われ、「副省長級」の市長とか、「局級」の研究員とか、「県長級」の課長とか、習近平夫人のような「将軍級」の歌手とかとなる。

では、中国の無権の民、すなわち老百姓レベルの人々が、国民の権利と責任を自明の理として政治に参与しようとする意志を持てるだろうか。
……持てない。第一その制度がないのだから、動機がはじめから奪われている。かりに勇気あるものが異議申し立てをすれば、支配者にとって「危険人物」たらざるをえない。現に政権の不条理を訴えた民主人権派人士、農村指導者のおかれた境遇がこれをものがたる。
無権の民衆は情報を制限されているからウワサを信じるしかない。たいてい権力者の宣伝もしくは指示命令に容易に従わざるをえない。文化大革命の始まりと終りを見ればこれは明らかである。我々に身近なところでは、2005年・2010年に激しい反日デモがあった。いずれも自発的なものではない。暴力と破壊を伴っているのに警察による制止がなかったところからすれば、民衆を動員した官製デモである。

習近平礼賛も同じことである。民衆はいま「習近平万歳」を叫ぶ。ところが中共中央に別な指導者が現れて習近平の治政を否定すれば、人々は「打倒習近平」を叫ぶだろう。私の中国生活の経験からすれば、民衆が自らの要求をあからさまにしたのは、天安門事件を頂点とする学生・市民の運動だけである。
このような政治体制の下で生活が追いつめられたとき、無権の民衆に自らを救済する方法はあるだろうか、……ある。三つある。
第一は自殺による抗議である。もうひとつは自分を窮地におとしめたはずの政府機関に「清官(清潔な官僚)」の正しいお裁きを求めて陳情(上訪)することである。さらにもう一つは先の見通しがないまま郷村や地域全体をあげて一揆的行動、暴動を起こすことである。
焼身自殺はチベット人だけではない。北京への「上訪人」はひきもきらず、暴動とみなされるものは年間10数万から20万という。

鄧小平は後継者らに個人崇拝を戒め、毛沢東の轍を踏まないよう忠告した。だから江沢民も胡錦濤もそれはやらなかった。習近平はあえてやる。彼は江沢民や胡錦濤のように、無冠の帝王鄧小平の一声で選ばれたものではない。中共総書記に予定されるまでは中共中央政治局のメンバーの一人に過ぎなかった。彼の背後には上海閥も共青団派もおらず、ただ派閥の力関係によって選ばれた、現代史上初めての、きわめて弱い基盤しかない総書記である。脆弱であるがゆえに、批判には過敏に反応し、民衆を抑圧し、対外政策は強硬となる。
さらに中共常務委員会メンバーの権限を強引にけずりとってわが身に集中し、毛沢東を擬してむりやり高い梯子かけた。だがあの崇拝の高みには登れまい。墜落の危険は常に存在している。                          (2016・09・15)
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