2016.10.05 毛沢東は暴君で、習近平はまね坊主
――八ヶ岳山麓から(200)――

阿部治平(もと高校教師)

中国人研究者・馮崇義は、論評「毛沢東思想の劇毒」でレーニンや毛沢東の事業を批判し、中国の現体制をぼろくそに糾弾した(2016年9月12日)。著者は歴史学博士。中山大学・南開大学で教鞭をとったことがあり、現在オーストラリア・シドニー科学技術大学中国学教授である。私は必ずしも彼の見解に賛成するわけではないが、大変面白かったのでここに概略を紹介したい。以下はその要点と考えられる箇所の要約。( )の中は簡単な注、< >は阿部の私見。
原載は中国語ウェブサイト「博訊」
http://www.peacehall.com/news/gb/pubvp/2016/09/201609122319.shtml#.V9i2II9OIfkである。

ロシア革命について
1917年「十月革命」はロシアの憲政への道を遮断したものである。「二月革命」は、各勢力がツアー専制制度をくつがえし、憲政を目標とする臨時政府を樹立し、19世紀の「デカブリストの決起」から始まる憲政民主の歴史の正道を歩もうとするものであった。にもかかわらず、「十月革命」においてはレーニンなどペテン師とゴロツキどもは「プロレタリアート」の名を借りて、第一次世界大戦の失敗と旧政権崩壊がもたらした混乱を利用して権力を奪い、ロシアを一党独裁の全体主義体制(原語は「党国極権体制」)の深淵に陥れた。
しかもレーニンとその一党は、独裁政治を「いかなる法律の制約も受けない」ものと定義し、独裁を「民主主義」と言いくるめた。
<ボリシェヴィキ―による「十月革命」は、憲法制定会議の選挙運動中のクーデタからはじまった。詳しくは稲子和夫『ロシアの20世紀』東洋書店2007。1917年・18年部分参照>

1949年の革命について
毛沢東とその一党がやったことは、中国数千年来の暴民とルンペンが山賊になり、山を占領して王様になり、悪事をやったことのくりかえしであって、それにマルクス主義と共産主義のユートピアのレッテルを貼り付けたものに過ぎない。
<高島俊男は中国の盗賊を「官以外の、武装した、実力で要求を通そうとする、集団」と定義した上で、毛沢東は盗賊皇帝、毛の中国は漢、明につづく強力な最後の盗賊王朝だとしている(『中国の大盗賊・完全版』講談社現代新書2004)。
1980年王希哲は、『毛沢東と文化大革命』)の中で、マルクス主義の観点から「毛沢東が成功裏に指導したこの革命は、農民革命に過ぎなかった。……彼(毛沢東)がのちに中国の帝王になったのはまったく農民首領の階級的必然性がしからしめたのであって、少しも驚くにはあたらない」と書いた(前掲書から孫引)。彼はこのため懲役15年の刑を受けた。だが私は、毛沢東が中国伝統の大教養人であったことも忘れてはならないと思う>

毛沢東は「農村が都市を包囲する」による「土地革命」に失敗して、2万の人馬とともに陝西北部の不毛の地に逃亡した。日本が全面的に中国を侵略し、国民党の政・軍をうちやぶったおかげで中共はようやく立ち直り、ソ連の助けを得て再起し1949年に中華民国政府を転覆できたのである。
<毛沢東も自民党や社会党の訪中団に幾度か「我々が勝てたのは皇軍が応援に来たからだ」と冗談交じりに語っている>

国民党支配について
第一に「毛沢東・共産党が中国を独立させ統一した」のではない。抗日戦争後、中華民国は失地を回復し、欧米各国との間の不平等条約を廃止し、民族独立と国家の領土の統一を獲得していた。まさに中共の1949年の転覆行為こそが台湾の分裂を招いたのだ。
第二にレーニン同様、毛沢東らの「革命」勝利は数十年の歴史を持つ中国憲政への転換過程を遮断した。中華民国初期には市場経済の原型・憲政の枠組み・公民社会・近代法律体系・近代教育体系があった。さらに中国伝統文化の担い手たる郷紳階層、中洋合作の近代的企業家層、全面的に開放した中洋交流体系があったが、これらは毛沢東によって滅ぼされた。
<中共の独裁は皇帝支配の否定の否定にほかならない。専制政治が新しいなりをして現れたのである。だが、馮崇義は民国期を美化しすぎている。初期にはたしかに代議制の萌芽があったが、蒋介石が極めてファッショ的であった事実、アメリカの支援を受けながら内戦に敗北した理由については触れていない>

毛沢東の支配について
毛氏中国では党権が至上であり、恐怖政治・生活統制など各方面で全体主義が頂点に達した。(勝利直後の)「土地改革運動」と「反革命鎮圧運動」では、殺人の割合を決め、それにあわせて数百万の地主富農と中華民国政府の下層の兵と官僚をあの世に送った。
「思想改造運動」と「反右派運動」など一連の運動、戸籍制度・単位(職場)制度・人民公社などの全体主義のメカニズムを通して中国人に帝政時代をはるかに越える奴役と統制をおこなった。
大躍進期には4000万の人々を餓死させた。文化大革命は、さらに大衆と大衆を闘争させ、永遠に取消すことができないほどの殺しあいに陥れた。
<中共勝利直後の大量殺人については、毛沢東も「行き過ぎがあった、だが革命には行き過ぎがつきものだ」と語っている。
大躍進3年間の死者4000万は有力な説である。文革10年間の犠牲者についてはこれぞという説がないが、私は大躍進期と同じ程度ではないかと思う>

現代中共政権の評価――「紅二代」の欺瞞性について
紅二代(革命第二世代)統治集団は、毛沢東の罪過についてよくわかっている。彼らの父母親友の多くが毛沢東の迫害を受けたからである。だが、彼らが手中にした統治権力と特権は毛沢東を来源とするものである。彼らは権力を手放したくないから「大義親を滅し」本心に逆らって毛沢東を礼賛するのだ。
だから、毛沢東の絶対的平均主義の分配制度を復活させたり、「党内の資本主義の道を歩む実権派」に反対するようなことはしない。ましてや毛沢東流の大衆の造反を煽るようなことは絶対にやらない。
そのくせ、習近平は就任してから「紅色聖地」を参拝し、「我々の紅色国土を永遠に変色させない」と誓った。彼は即席の講演のときも「毛主席語録」と「毛沢東詩詞」を感情をこめて口にする。
彼は毛沢東の提唱した「大衆路線」・整党(思想面から党組織・活動を点検すること)・古田会議・(延安)文藝座談会などをまねて、毛沢東流の権謀術数をもって政敵を追落し、政治を動かしている。
外交においては強硬路線を貫き、そのために関係国との関係を悪くするのを恐れない。内政では「理論・路線・制度の自信」を強調する。しかも毛沢東の罪過を探求することを「歴史ニヒリズム」として厳重に禁止している。

毛沢東追随者の無知について
多くの毛沢東ファン(原語は「毛粉」)は、現今の深刻な腐敗に不満をもち、毛沢東時代を清廉な時代としてあこがれるが、毛沢東時代にもいま同様、腐敗はどこにでもあったことを知らない。当時は社会全体が貧困だったから、現在のように巨万のカネのやりとりはなかったが、官僚が職権を利用して物質的利益をはかり、女色をむさぼるのは普通だった。
<1980年代になっても、誰かが役人に陳情に行くと、「研究・研究(検討してみる)」と遠回しに賄賂を要求するという話があった。「研究」は「烟酒(たばこと酒)」と似た発音(イェンジュー)である。
内モンゴルに下放され開墾に従った女性の話では、現地幹部はみな都市からの女子青年を情人にしていたという>

毛沢東時代、権力の腐敗は今日よりはもっと恐るべきものであった。権力によって政治的迫害をやり、公権によって私怨を晴らし、濡れ衣を着せて人を陥れた。これによって生み出された悪果は冤罪を生み、世は鮮血淋漓たるものになった。
毛沢東本人は、公私にわたって堕落していた。彼は特別の待遇を受け、ほとんど無制限の贅沢をやり、権力に任せて多額の原稿料を受け取った。数十カ所の行宮、多くの女性を持ち、金銭・色情の腐敗はほかの貪官汚吏に比べていささかの遜色もなかった。
<彭徳懐将軍は、毛沢東が「女子文工隊」を私物化していると批判したことがある。侍医李志綏による『毛沢東の私生活』〈上・下〉文春文庫1996参照 。この反論は 『「毛沢東の私生活」の真相―元秘書、医師、看護婦の証言』蒼蒼社1997>

現代中国の課題について
中国大衆は、毛沢東とその思想の魔術から、60年余の暴力が愚民を洗脳した、その厳重な束縛から抜け出さなくてはならない。自らを反省し啓蒙し判断して徹底的に権力崇拝と暴君崇拝の伝統に決別し、ことの成功と失敗からのみ英雄を論じる不道徳の歴史観とジャングルの法律を放棄すべきである。
中国人は中国文化の主流に立ちかえり、憲政への転換を実現することが唯一の活路である。
<中国人は「日が出りゃ働き、暮れればねむる/井戸ほりゃ水湧き、田を鋤きゃみのる/天子のお蔭が何あろう」という、天性の自由の民だ。ところが現代ほど自由のない時代はない。馮崇義の論評は我々から見れば常識的で、それほど程度の高いものではないかもしれない。だがこれは中国人が生活上・政治上・思想上のしめつけのない場におかれれば、断然力を発揮し、のびのびとものをいうという一例だとおもう>      (2016・09・22)

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