2016.10.24 ミャンマー東北辺境の軍閥政権の性格について
――八ヶ岳山麓から(202)――

阿部治平(もと高校教師)

はじめに
さきにミャンマー東北辺境の内戦と、それがかかえる問題について述べたが(「八ヶ岳山麓から(196)」)、その後新たな資料を得たので、この地方の軍閥とは何かについてもう一度書くことにした。
ミャンマー東北部のシャン州・ワ州は、かつてタキン・タントンなどを指導者とするビルマ赤旗共産党(以下緬共という)の革命根拠地であった。南下すればほどなく麻薬取引で知られたゴールデン・トライアングルである。
緬共人民軍にはかつて東北・中部・八一五・カチンの4軍区があった。現在の自治権をもつ「特区」はこの4軍区に由来し、次のような構成になっている。
1、シャン州第一特区。ほとんどコーカン人すなわち漢人地域。
2、ワ州第二特区。最多人口はワ人。領域は南北に別れている。
3、シャン州第三特区もしくはカチン州第一特区。カチン人は中国の景頗(ジンポ)人と同じ。
4、シャン州第四特区。民族は多種。
いずれの特区も人口はたかだか数十万、中・ミャンマー国境両側に同じ民族がいるうえに、その指導者は漢人で、共通語文は漢語・漢字という地域である(顔伯鈞著『暗黒・中国からの脱出』文春新書2016)。

軍事指導者の出発
以下、シャン州第一特区コーカン人地域の支配者となった彭家声の浮沈を例に、ミャンマー東北辺境軍閥記を語りたい。
第一特区コーカン人地域を300年近く統治してきたのは楊氏土司である。土司とは元朝以後、中国歴代王朝が周辺民族の支配者に自治を認め、地方官とした制度である。
彭家声は1931年この地に生れ、自分では18歳で1949年国民党の雲南軍事訓練校(一説に土司の軍事学校)に学んだという。教官は国共内戦に敗れた国民党の将校であった。
1959年ミャンマー中央政府は楊氏土司に下野を迫った。土司は抵抗を試みたが敗れてタイに逃れた。土司に代って支配者となったのは中央政府軍である。だが政府軍はきわめて粗暴で、当然コーカン人の激しい反感を買い、コーカンは一時無政府状態となった。
このとき彭家声は30数人の仲間とともに、貧弱な武器で初めて中央政府に抵抗し、初めての敗戦を味わった。

文化大革命の直撃
1967年、中国の文化大革命がミャンマーに波及し、現地華僑は共鳴して文革運動を起した。これに反発したものがヤンゴンなどで大規模な反中国暴動を起した。対する中国はミャンマー政権をゆさぶるために、緬共人民軍に武器を援助するとともに、解放軍をミャンマー領に侵攻させ要地を占領した。中国は当時も覇権を求めないといいながら、ずいぶん前から周辺弱小国家には覇権国家として臨んでいたのである。
さらに多数の紅衛兵が国境を越え緬共に加わった。彼らのなかにはゲリラ戦で亡くなったものもいるし、緬共の地方指導者になったものもいる。1976年文革が終わると中国の援助が止み、解放軍は撤退した。緬共は衰弱した。中国国内で行き場を失った文革青年のなかには、ミャンマー亡命を試みたものもいる。有名なのは劉少奇の娘劉濤で、彼女は国境で捕まった。
彭家声にとって、大きかったのは1967年中国雲南へ逃げたとき、彭の部隊がそこで訓練を受け、彭もまた緬共に入党し、緬共東北軍区副指令として人民軍を率いたことである。これ以後20年間くらいは、戦闘に勝ったり負けたりして、そのたびコーカンの実権を握ったり失ったり中国へ逃げたり帰ったりした。

上昇と転落
1989年、転機がおとづれた。緬共中央は内紛のため崩壊、幹部は中国に逃亡した。残った緬共部隊は各地で独立した。3月彭家声もクーデタを決行した。緬共との絶縁を宣言し、コーカンの緬共部隊を吸収して「ミャンマー民族民主同盟軍(以下彭部隊という)」を結成した。彼は中央政府から自治権を得て政府主席となった。軍閥の誕生である。
当時彭家声の戦力は6000人近かったというが誇張されている。大目に見ても荷物運びなども入れた数字に違いない。彼の兵はおそらくは食い詰めた流民、土地を持たない農民で傭兵であろう。軍費はアヘン取引・密貿易、そして農民からの収奪でまかなったのではなかろうか。
彼は権力欲も強かったが、カネもうけにもこだわった。コーカン政府主席時代、彭はアヘンを禁止する一方でその売買をやり、賭博場をひらいたほか、地下兵器工場で小火器を製造し、これを辺境各地や中国内地に密売した。当然中国当局はミャンマー政府に抗議し、雲南省は係官をコーカンに派遣して取締を要求した。だが部下の白所成らの忠告にもかかわらず、彭はそれを無視した。これが失敗だった。
しかも彼は緬共時代から部下を掌握しきれなかった。政策をころころ変えることもあったらしい。要するに必要な人望がなかったのである。
2009年8月8日、中央政府警察と彭部隊は兵器工場をめぐって衝突し、政府側警察官17名と女性通訳が彭部隊に殺された。これは88事件として記憶される。
8月27日中央政府軍は彭部隊を包囲し、大砲やロケット砲を用い戦闘機による爆撃を敢行した。彭部隊は壊滅状態になり、彭は警備員2人とともに第四特区に避難した。第四特区主席林明賢は彭の娘婿で、海南島出身の元紅衛兵である。これから5年間彼はタイ・マレーシア・シンガポールを転々とした。
彭に代ってコーカンの政権を握ったのは、彭部隊将校の白所成である。中央政府軍がコーカンを制圧すると白所成は国境防衛警察部隊の隊長に任命され、やがてコーカン政府主席におさまった。ネットで見るかぎり、現在彼は中央政府軍との関係もよく、中国とも友好関係を保っている。内政もいまのところ比較的順調といえる。

戦火は続く
だがいまもって彭の権力への執着はすさまじい。2014年末と2015年2月に白所成が支配するコーカン政府所在地ラオカイに進撃した。2015年の戦役は激戦をとなり、中央政府軍は88事件並みの大攻勢に出た。コーカンは戦火の巷と化し、万を数える難民が中国雲南に逃れた。今日も、なお36カ所の村落の住民が帰れないという。
2016年9月中秋節、彭部隊はまたロケット弾で主席白所成の私邸を攻撃した。だが、私は彭の政権奪還は絶望的だと思う。彭が85歳という高齢のうえに、白所成政権が比較的安定しているからである。
内戦は中央政府軍を相手にするだけではないし、またコーカン地区だけではない。理由ははっきりしないが、第二特区ワ人連合軍はこの9月、装甲車・トラック数輌、兵員600で、第四特区の政府所在地モンラを急襲し、兵士150人余りを捕虜にした。
また「北部カチン州(すなわち第三特区)では少数民族武装組織カチン独立機構(KIO)の拠点ライザ北郊のKIO駐屯地への中央政府軍の攻撃が続いている」という報道もある(朝日2016・10・14)。

軍閥政権にひそむ危険
アウンサン・スーチー政権は、軍部独裁時代とは異なり欧米により大きな窓口を開いて経済開発をすすめようとしている。このため、いままでミャンマー経済に深くかかわってきた中国とは微妙な関係となり、国境の軍閥政権との停戦和平は喫緊の課題となった。
だが最近開かれた国連事務総長や中国の大使が出席した和平会議では、第二特区ワ人代表が途中退席するなど、実質的な停戦協定に至らず、和平のめどが立っていない。軍閥政権を武力をもって制圧するのには、中国が反対するだろうし、たとえ制圧できたとしても、その後の統治には困難がつきまとう。
彭家声はといえば、権力奪還のために、白所成政権非難の宣伝をさかんに行なっているが、そのなかに「コーカンは中国領だ」という注目すべき文言がある。これによって中国の熱血青年を彼の組織に加入させているともいわれている。
軍閥政権には紅衛兵上がりの漢人指導者が多い。彼らの出自は雲南など中国南部である。彼らが大漢民族主義をふりまわし、こぞってミャンマー東北部の「中国帰属」を叫びだしたとしたら、これはスーチー政権の命運にかかわる。
中国・ミャンマー両国ともそれぞれの事情を抱えているから、ことは慎重に運ぶだろうが、中国がアメリカに代る覇権国家を目指している以上、遅かれ早かれここも南シナ海・東シナ海なみの緊張を強いられるようになるだろうと私は思う。
(以上の記述はミャンマー国内の漢語サイト、中国の検索サイト「百度」などによる。2016・10・18)

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