2016.11.05  中印国境は緊張する
          ――八ヶ岳山麓から(202)――

阿部治平(もと高校教師)

今年になって中印国境の緊張を伝えるニュースが多くなった。いままでもほとんど毎年数件は双方が実効支配線をこえて侵入する事件があり、両国はそのつど部隊撤収交渉をしてきた。両国とも実効支配地域への侵入を「わが部隊は巡回活動中、実効支配線をきちんと守っている」と意図的な越境行為を否定している。
善意に理解すれば、両国の実効支配線についての認識は必ずしも一致していないことが悶着の原因である。ところが必ずしも善意では理解できない場合が多い。特に今年はそうだ。

1962年中印国境戦争は敗北したインドに深刻な教訓を与えた。いまやインドのチベット国境警備隊(ITBP)は、戦闘機などを持つ本格的軍隊である。山岳民族やチベット難民のよく訓練された山岳兵、グルカ兵の部隊もある。カシミールのラダクの町レーや、ヒマラヤ南麓のタワンは軍事基地化されている。もちろんその補給路も複数あり、年々整備されてきた。ブータン・中国国境にもインド軍が駐屯している。インドは8月にも、アルナチャルに従来型ミサイルの上に、超音速巡航ミサイル「ブラモス」(射程約290キロ)を配備するとした。
台北の軍事筋によると、中国は「インドは近年、中国を視野に国防力の増強を進めており将来、両国の軍事的な緊張が高まる恐れがある」と受止めており、「中印国境は広い紛争地帯を抱えており、将来の軍事作戦の重要な戦略ポイント」だと位置付けている。標高が約4000~5000メートルと自然条件が厳しい戦場では、砲兵部隊を軸とする機動的な作戦が鍵となる。インド側から侵攻があった場合は、砲兵部隊を主力に空軍、ロケット軍の支援を受けるとしている(共同2016.10.25 )。中国で砲兵というときは伝統的な砲兵部隊とミサイル部隊を意味する。

中学高校で使われている教科書用の地図には中印国境の未確定地域として二重に破線がひかれているところがある。主にはインド北方カシミール州のラダク地方のアクサイチンと、ブータンの東、ビルマ(ミャンマー)までのヒマラヤ南麓のアルナチャル・プラデシである。
しかし今日では、中国とインドの支配地域は一応きまっている。1962年中印国境戦争のあと、カラコルム山脈とクンルン山脈の間のアクサイチンは中国が実効支配し、ヒマラヤ南麓のアルナチャルはインドの支配下にある。
国境の画定は、まず地図上で境界がどこを通るかについて関係国間の合意がなければならない(机上画定)。その後必ず共同で実地画定が行われてしかるべきである。しかし中印国境は正式国境画定に至っていない。
もし海とか川とか山脈とか砂漠といった自然の障壁を国境と認めるならば、中印国境戦争は起らなかっただろう。事実、1960年周恩来首相はネルー首相に分水嶺を国境とするよう提案したという。

明治維新の20年くらい前、イギリス・インド政府は、ラダクを通過したイギリス将校の示すところによってチベットとカシミールの間に勝手に国境線を引いた。これはパンゴン湖からカラコルム峠に至る境界で、インドはこれを継承してアクサイチンは自国領だというのである。
アクサイチンはカラコルム山脈の東にある。分水嶺を国境とするならばアクサイチンは中国領である。ましてや住民が極めてまばらだといってもチベット人地域に違いはない。それに中国は1962年以前、戦略的な意味をもつ新疆・チベット道路を建設していたから、到底ここを譲るわけにはいかなかった。
同じように自然の障壁を国境とするならば、ブータン東方のヒマラヤ南麓のアルナチャル・プラデシを中国が自国領とすることはできない。
1914年イギリス・インド政府の外交官マクマホンはチベット政府に国境協定を押付けた。このときの境界線はアッサム・ヒマラヤの山頂をたどるもので、これがマクマホン・ラインである。
だが、ヒマラヤ南麓はアクサイチンと比べれば人口密度は遥かに高い。しかもそこに住むチベット系のモンパ(人)はダライ・ラマの権威を認めラサに納税していた。ダライ・ラマの支配地域を自国領だとする中国の論理からすれば、間違いなくヒマラヤ南麓は中国領である。

1959年チベットのダライ・ラマ十四世がインドに亡命した。従来からもめごとが絶えなかった中印国境は緊張が一挙に高まり、ついに1962年戦争になった。この年キューバ危機が起こり、米ソの対立が核戦争寸前になった。しかも1950年代後半から「アメリカ帝国主義」の評価をめぐって中ソ共産党間で対立が激化し、中国は米ソを敵に回さなくてはならなかった。
このため中国はインド以外の隣国との境界画定を急いだ。1960年1月ビルマ(ミャンマー)と、3月ネパールと、63年モンゴル・パキスタン・アフガニスタンと国境協定を結んだ。これによるビルマとネパールの国境を見ると、おおむねマクマホン・ラインを認めるもので、かつて中国が主張していた国境線からは大きく後退していた。
つまり先の周恩来のネルーへの提案は「東ではマクマホン・ラインを認めるから西ではアクサイチンを譲れ」という取引だった。

1962年前半、インドはヒマラヤ南麓のマクマホン・ライン近くに哨所を24カ所も設けた。中国との間で戦闘が始まったきっかけは、インドがヒマラヤの峠を越えた北側に哨所を設けたことによる。そこはラインについて双方に異論がある地域だった。中国軍は10月、マクマホン・ラインを尊重するというそれまでの主張を棚上げし突如インド軍を攻撃した。衣類食料補給が十分でなく貧弱な武器しか持たず高地順化ができていないインド軍に対して、中国軍は十分に準備をし高地順化していた。中国兵はヒマラヤ南麓を駆け下った。だが、彼らは1ヶ月後突然前進を停止し、マクマホン・ラインよりも20キロ手前まで撤退した。
アルナチャルよりはましだったが、アクサイチンでもインド軍はそれに似た状況に追い込まれた。ここでも中国軍は自発的に停戦し、実際支配線よりも兵を20キロ後退させた。

なぜ中国軍が一方的に「撃ち方やめ」をしたか。いまだはっきりわからない。憶測をすれば、中国は大躍進政策の失敗からうまれた飢餓状態から十分に回復していなかった。チベット叛乱が散発的に続いていたにもかかわらず、現地チベット人を徴用せざるを得ず、国境への補給にかなり苦しんだ。しかも中ソ国境の緊張もあって、インドとの戦争を長らく継続するわけにはいかなかったということになろうか。
だが、少なくとも中国は南ではヒマラヤ南麓を譲り、西北ではアクサイチンを確保するという目標を達して今日に至っている。
先回りしていうと60年代に中ソ両国は、新疆(東トルキスタン)、パミール高原、黒竜江、ウスリー江の国境地帯で衝突した。ソ連の機械化部隊に中国軍は蹂躙された。

中印を取り巻く環境は、今日では1960年代とは比較にならない。当時は両国とも経済は貧弱で武器も時代遅れのものであった。今日中印両国はともに核兵器を持っている。中国は世界第2位の経済力を誇り最新鋭の武器を開発装備し、一方のインドも急成長中で、軍事的実力を蓄えつつある。
当時中ソ対立のために、フルシチョフのソ連はインド寄りだった。ネルーは中立政策を捨てて救いをアメリカに求めた。中国はアメリカとソ連を敵に回し孤立していた。
現在では中国はロシアに接近し、インドをゆさぶるのにパキスタンを使うことも可能である。これに対抗するためにインドは日米に接近している。
中国は内政の矛盾をそらすために、国境に緊張を作り出すのを躊躇しない国家である。たとえば中国が1979年の中越戦争を始めた理由のうち最も説得力のあるものは、当時の指導者鄧小平が中国解放軍の主導権を握るためだったという。
また習近平の「中国の夢」はまずアジアの覇権国家になることである。
かりに南シナ海のフィリピンなど周辺諸国との関係を穏やかなものにするのに成功し緊張が緩和したとき、中国の矛先が内陸で国境を接するミャンマーやインドに向かう可能性は否定できない。我々は南シナ海・東シナ海ばかりでなく、大陸の国境地帯から目をはなすことはできない。

Comment
印パのカシミール紛争も再燃中でインドは強気でパキスタンを責めているので窮鼠猫を噛む『印パ核戦争』の恐れもある。
ローレライ (URL) 2016/11/05 Sat 17:02 [ Edit ]
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