2017.01.13 文化大革命とはなんだったか――歴史修正主義とたたかう側の論理
――八ヶ岳山麓から(209)――

阿部治平(もと高校教師)

日本では学問研究の成果を無視して都合のよい事象だけをとりあげ、侵略戦争などの都合の悪い過去を抹消しようとする歴史修正主義が勃興して久しい。だが歴史の「修正」は日本だけの現象ではない。
私の知っているのは中国しかないが、中国現代史をめぐっては隠蔽と歪曲がはなはだしい。こう考えるのは、私がそこで長年教えた日本語科学生たちの、自国の現代史に関する知識が貧しく間違いだらけだったからである。

もちろん中国にも真実の革命史、民衆の生活史を語らねばならぬと考えた人々がいて、貴重な証言や資料を収集し、中国共産党によって抹消された真実を復元しようとしている。
ここに紹介する楊継縄もその一人である。元新華社高級記者である彼は、このほど香港で、『天地翻覆――中国文化大革命史』を出版した。前著の『墓碑』同様、中国国内で出版するのは困難だったからである。『墓碑』は1960年前後に中国本土において3600万の餓死者があったことを実証した名著である(邦訳は『毛沢東秘録』文藝春秋2012・3)。
彼は新華社を退職してから、月刊誌「炎黄春秋」の編集に当たった。この雑誌は体制に批判的なメディアが次々つぶされるなか、民主人権派の最後の砦だった。だが楊継縄も悪戦苦闘の末、2015年編集者の地位を去らざるをえなかった。雑誌「炎黄春秋」はいまもあるが、元の姿とは似ても似つかぬものとなった。

以下に掲げるのは、上掲書『天地翻覆――中国文化大革命史』の中の「序言」の私なりの要約である。序言とはいえここに、他に類を見ない文化大革命についての見解を見ることができる(多維新聞ネット2016-12-26 )。

文化大革命について
楊継縄


文化大革命の真相探求と再認識という行為は、後世の人にこの痛ましい歴史を知らせるだけでなく、鄧小平および鄧以後の時代にあらわれた社会的不公平・政治的腐敗の原因を明らかにするためのものである。なぜなら鄧小平以降の時代の官僚制度は、文化大革命以前の官僚制度の延長だからである。
1981年6月、中共第11期6回中央委員会は「建国以来のいくつかの歴史問題に関する決議(「歴史決議」)」を通過させた。「歴史決議」は1981年当時の政治的必要にもとづいて建国以来の歴史を叙述し評価したものだが、それは折衷と妥協の産物であった。当時は改革開放を達成するために、この種の妥協が必要であった。

だが、歴史研究者が文革の真相を復原しようとするときには、政治家のように、折衷したり妥協したりするわけにはいかない。
「歴史決議」は、「毛沢東同志が発動した『文化大革命』における『左』の誤った論点は、マルクス・レーニン主義の普遍原理と中国の具体的実践を結合した毛沢東思想の路線から明らかに逸脱したものであって、それは毛沢東思想とは完全に区別しなければならないものである」としている。
だが1956年以後の毛沢東の思想を「毛沢東思想」から切り離したのは、「毛沢東思想」を保全するためであり、「信仰の危機」から党を救い出すためであった。こうすることによってのみ、専制制度の霊魂を保全し、官僚集団の利益を保全することができたからである。
この官製文革史はまた、文革は「指導者によってあやまって発動され、反革命集団がこれを利用し、党と国家、各族人民に重大な災害をもたらした内乱である」という。
ここでもまた「林彪・江青の二つの反革命集団」を中共から切離しているが、この切り離しも、「毛沢東思想」の保全同様、文化大革命の責任を「林彪・江青両反革命集団」に押し付け、中共とそれへの「信任の危機」を救おうとしたものである。
かりに文革がこの二つの集団のやったことだとしても、彼らもまた中共の一部分である以上党内から生まれ党内で消え去ったものであって、彼らを中共から切離すことなどできるはずもない。
かくして官製文革史は毛沢東思想を保全し、中共を保全し、官僚集団全体を保全したのであり、さらには官僚集団が引きつづき執政することの合法性と、彼らすべての利益を保全したのである。
官許の文革書のなかには、劉少奇を毛沢東に手なづけられた羊、腰巾着と決めつけ、最後は毛沢東によって袋小路に追い詰められた者、と書いたものがある。
だが実際には劉少奇は老革命家として、また戦争と多年の党内闘争の試練を経た者として、文革の初期から毛沢東を制止しようとしたのであって、(文革を学術問題に限定しようとする)「二月提綱」をもって姚文元の(呉含の歴史劇「海瑞官をやめる」批判の)文章に対抗したのである。
そして(中共北京市委員会を打倒した)「5・16通知」が出てからは、工作組を派遣して対抗した。劉少奇が打倒されてのちの(譚震林・陳毅・葉剣英ら老革命家も加わった文革反対の)「二月逆流」は、鄧小平を代表とする人々の抵抗だったのだ。そしてその間には、軍事官僚集団のもっと強硬な反抗があったのである。

しかし毛沢東に対する一連の抵抗は、正義と不正義の闘争だったのではない。利益にからんだ抵抗であった。この闘争のなかで一般大衆は大きな犠牲を払わされた。
劉少奇を飼いならされた羊としたのは、官僚集団が文革の責任を負わないようにするためであり、軍・政の官僚たちが文革中に大衆を踏みにじった悪事を隠すためだった。また周恩来を美化して、周恩来が毛沢東の尻にくっついて文革をやった事実を覆い隠すという目的もあった。
官製文革史は、文革の弊害は「反革命集団によって利用されて」生まれたものだという。これは毛沢東保全のための言い逃れであり、歴史の歪曲である。
事実は、1973年8月(中共第10期全国大会で江青らが最高指導部に入って)初めて「四人組」が生まれたのであって、それ以前には「四人組」は存在しなかった。
もし、「林彪集団」があったとするなら、この集団も1969年4月に(林彪が中共第9期全国大会で政治報告をした後に)形成されたことになるが、1971年9月に彼は、(ソ連に亡命しようとしてモンゴルで墜死して)消滅している。
この前後、かりに林彪・江青二つの集団があったとしても、そもそも彼らは毛沢東の文革を支持し推進した勢力なのである。江青と林彪は毛沢東に利用されたのであって、彼らが毛沢東を利用したのではない。いわゆる二つの「反革命集団」の「反革命行為」のほとんどは、毛沢東の指導のもとで文革を推進した行為そのものだったのである。

1976年10月(四人組逮捕)の政変以来、文革を否定することが「政治的に正確だ」ということになった。したがって官許の出版物では、高級幹部はみな自分がいかに文革に抵抗したか、いかに堅忍不抜であったかを標榜し、毛沢東に追随して文革をやった事実、民衆を抑えつけ幹部の迫害に加わった事実を隠した。官僚のなかには迫害された官僚を見て喜び、その災難に付け込んでなお打撃を加えたものがいたのだが、みなその事実を隠蔽した。
官許の文革史は幹部が迫害された状況をたくさん書いている。だが実際には、文革で迫害されたのは一般大衆である。幹部に比べれば数百倍も多い。紅衛兵が実力行使に出た(1966年の)恐怖の「赤い8月」の一連の事件、地方の集団虐殺、血なまぐさい鎮圧などを、官許の文革史は当たり障りのないように書いた、というよりは事実を極力歪曲した。

文革はきわめて複雑な歴史の過程である。多様な勢力と配役が10年の長きにわたり広大な空間で争い何回もその立場を変えた。いろんな思想集団や利益集団の間で、くりかえし闘争があった。あるときの勝利者は別な時には敗者であり、あるとき人をやっつけたものはのちにはやっつけられた。
従来歴史は勝利者が書くものであった。文革最後の勝利者は官僚集団であるから、官製の歴史が民衆の苦境を無視するのは至極当然のことであった。
だがこれを乗越えようとしても、肯定か否定かという単純な思考では、この複雑な歴史過程を記述し評論することは不可能である。どんな歴史事件を書いても、必ず批判が待っている。文革の当事者のほとんどが健在で、その人々が文革中に演じた役割は多様で、異なった境遇にあり、異なった観点を持ち、異なった体験をしているからである。
当事者からの批判は尊いものだし、研究者をして絶えず歴史の真実に迫らせるものである。だが貴重な資料を得ることができるとはいえ、現代史を現代人が書くのは難しかった。
文革研究の先行者に比べれば私は後学である。後学は先行する優れた仕事を出発点にできる。本書を書くにあたり私は大量の先行研究と回想録を読んだ。そこには重要なテーマがあり、また地域文革史や文化大革命理論の深い探索があった。学者によっては、他の研究者の踏み石となることに甘んじ、黙々と資料の収集と整理の仕事をする人もいた。
私はこれら先行者に対する深甚の敬意を抱いて『天地翻覆――中国文化大革命史』を書いたのである。(終)

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