2017.04.20 蛮族勇士著「特権階級の権力変化と権貴経済」を読む(上)
――八ヶ岳山麓から(218)――

阿部治平(もと高校教師)

中国のインターネット上に「蛮族勇士」を名乗り、習近平政権を鋭く批判する論評が現れて久しい。とりわけ2016年9月指導部の経済運営を痛烈に批判する投稿は反響を呼んだ。景気減速の深刻な実態を暴露し、中国は「不況の道」を歩んでいると主張する内容だった(産経2016・10・06西見記者)。
このほど私もネット上で、3月27日付の新しい論文、「特権階級の権力変化と権貴経済」」を見ることができた。おおまかには、鄧小平以後の歴代政権の特徴描写と、反腐敗に名を借りた権力闘争の原因と、それにたいする批判である。
中国共産党の綱領や決議の内容を中国現代史の「正史」とするならば、これは「野史」である。
論文には、歴代統治者への遠慮のない評価、議会制民主主義への一定の共鳴、にもかかわらず国民を文字通りバカ扱いする支配者としての視点があり、しかも国有資本の民営化、社会格差、農村と農業などに言及しない等々の特徴がある。これからして「蛮族勇士」は中国政府のシンクタンクあるいは政策立案の中枢にいる人物、いわば支配階級のなかの獅子身中の虫であろうと思う。
以下は、その私なりの要約である。
<文中の「権貴」とは「権力を持った高級官僚」、それに対する「老百姓」は「無権の庶民」のこと。( )内は補注、中見出しとともに阿部>

本文
はじめに

中国の経済は近年速やかに下降して、15%の成長率から10%を大きく割ってしまった。経済学博士(李克強)が総理になったが、鉄道貨物運搬量や電力消費量は見るに忍びない数値となり、国民にマクロ経済の深刻な実情を告げざるを得ないありさまだ。今や中国の経済は通貨を印刷して投資に回すほかなくなった。
この国家に希望はあるか。習近平は「中国の夢」を提唱するが、実現の見込みはあるのか。

革命領導第二世代
改革開放が1979年から始まったとき、その政治体制は多くの人が思っているのとは異なり一種の民主体制だった。当時どの勢力も国家権力の核心を掌握してはいなかった。鄧小平は(毛沢東、劉少奇らを革命第一世代とし)みずからを革命領導第二世代の「核心」と称した。だが、彼だって政策決定に参与できるだけで、執行権をまるごと持っていたわけではない。
当時は「八老治国」といわれたが、この「八」という数字はいいかげんで、国策制定の権力のある者は、実際には13人いた。あの当時、彼らははげしい論争をやったが、結局のところ、ある程度の放任政策をとるほか方法がなかった。白猫黒猫(という鄧小平のことばどおり)で、なにごともとことんまでは問わず、(評価は)猫すなわち市場に任せようということになったのだ。
当時、有象無象と国営副食品公司が公開競争をやった結果は、みごとに計画経済の秩序維持派に衝撃を与え、大騒ぎになった。調査処分とか、秩序維持とかが互いに牽制しあい、ことのけりはつかなかった。
改革開放初期は上層の多方面の力が互いに牽制しあった。それゆえ上層では、民主的投票によって政策を決める体制がとられた。まさにこうした高層の人々の相互牽制の基礎の上に、中国の民営経済は驚くべき活力を発揮し出した。圧倒的な勢力がないなか、それまでの統制を解放するのは非常に容易だった。(保守派にも)国有企業による計画経済をやるだけの力はなく、ただ老百姓がやりたい放題やることを見ているほかなかった。

人類社会には「治乱循環」という歴史法則がある。王朝の初期はだいたいにおいて各派閥の勢力は均衡し牽制しあい悪いことをやる力はない。この時期老百姓の生存空間は大きい。だから短い時間ではあるが泰平の時期がおとずれ、経済と文化が発展するのである。
だが時間の推移とともに権貴らは絶えず社会資源を略奪して勢力を強化し、しまいに邪悪な能力を獲得して老百姓を死地に追い込む。王朝の末期には社会は退歩し流民はあちこちに起り、王朝はくつがえされる。
中国でも世界でも歴史はみな「治乱循環」の法則を記述している。だが、西洋人は最終的に民主制度を発明した。権貴を籠の中に閉じ込めてすでに300年、この期間は問題が多く、また戦争も多かった。世界大戦を2回やり、60年近く経って、やっとのことでいま方向を探り当てた。権力牽制・政策決定制・財税制・貨幣発行制度、みなこの60年間に完全なものとなったのである。
いまも民主制度はあれこれ問題を抱えており、実際効率は低いし危機への対応はたいてい役立たずだ。だがさすがに天下大乱、死屍累々の王朝滅亡の惨状は絶対的に存在しなくなった。
中国はどうかといえば、我々はこの政権ができる前の30年間(すなわち文化大革命の終了まで)は、実にばかなことをやった。あの30年のことは多くを語る気持にはなれない。人間を人間扱いせず畜生として扱った。畜生がいくら死んだところでたいしたことはないとしていた。
30年後、8人の元老が政変をやって政権の座にのぼり、王朝をあらため「治乱循環」の道を開いた。この新王朝のはじめ、元老らは互いに相手方の肉体を(文革当時のように)めちゃめちゃに踏み潰して消滅させるわけにはゆかないので、バランスを取りあうほか、道はなかったのである。
当時の二大巨頭は鄧小平と陳雲だった。
鄧小平は強力な政治上の知恵を発揮した。計画経済の担い手である(保守派の)陳雲もこれに楯突くことはできなかった。彼らの間には、幾多の摩擦矛盾が生じたが、鄧小平は政治をやり、陳雲は経済をやるという暗黙の了解がうまれた。
改革開放の初期、二人とも何も経験がないものだから、社会資源は小権貴どもに恥ずべき手段で奪い去られた。いわゆる(公定価格と市場価格の)「価格双軌制」と「官倒爺」である(「倒爺」は悪質ブローカーのこと。ここでは官僚が公共の物資を公定価格で買い市場価格で売って利ザヤを稼いだことを指す)。
これが民衆の激しい怒りを呼んで1980年代末期には全国的動乱(いわゆる天安門事件)となった。傷口からはいまも血が流れている。
(これから左右両派の論争が起きたが)鄧小平は、二回も南方を巡って大衆を発動して世論の支持をかちとり、最終的に保守派勢力を制圧した。
鄧陳のご両所は、結局のところ90年代中期の平和をもたらした。同時に総書記が政治を決め、総理が経済を執行するという両者の相互牽制原理を確立した。
この原理の問題点は、一旦均衡が破られれば一勢力の絶対優勢がうまれ、社会資源の絶対的分配権をもつことである。これら資源を絶対的に支配する連中が十分な善意を持つことはありえないから、彼らが悪を選択したときは、必ず人民を食いものにするのである。

第三世代の指導者
(天安門事件後)江沢民と朱鎔基のコンビが登場した。この二人は完全に鄧陳政権の意志を継承した。江沢民は(はじめから貫禄がなかったので鄧小平によってわざわざ「核心」と呼ばれたが)ほとんど経済運営に関しては発言せず、「三つの代表」をやることに専念した(中国共産党という党は先進的生産力・先進的文化・人民の根本的利益の三つを 代表する、としたことを指す)。
「三つの代表」の核心は何か?それは階級闘争はもうやらない、先進生産力を代表する私企業主は入党でき、国家の指導者にもなれる、ということだ。これは今日見ても、破天荒な政治的観点であった。
朱総理は税制と国有企業の改革に大ナタをふるった。この時期の決断はむろん多くの問題を残したが、中国経済発展の黄金の10年間でもあった。朱総理は全力を尽くしてあの動乱(いわゆる天安門事件)後の苦境をくぐり抜けた。当時中国は国際的制裁を受けて対外貿易はほとんど断絶し、にっちもさっちもいかない状況だった。
その中で「分税制」をやって国税と地方税を分離し、税収の70%を中央に集中し、有限な資源を厳格に中央政府の手で統制するようにした。同時に金融を厳格にコントロールし、大量の国有企業を売却した。こうして金融事業と国有企業を食いものにして、利益をかすめ取る手段を小権貴らから奪ったのである。中国はかくしてみずからの力で経済の軟着陸を実現したと誇り高く宣言し、危機を脱出して21世紀に入ったのであった。
(続く)
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