2017.06.26  今年も「六四天安門事件」記念日がやってきた
          ――八ヶ岳山麓から(225)――

阿部治平 (もと高校教師)

このほど産経新聞は、1989年6月4日の中国天安門事件の記念日社説で、かの国の学生市民運動が苛烈な弾圧を受けた歴史をふりかえりつつ、彼らが要求した「民主」がいまだ実現せず、むしろ状況は悪化しているとして、つぎのような文言を掲げた。
「習近平政権は『反腐敗』を掲げた党幹部の粛清と並行し、『反テロ法』『国家安全法』『反スパイ法』などの治安法令を相次いで制定してきた。(6月)1日に施行されたサイバーセキュリティー法は、『国家政権の転覆や社会主義制度の打倒』につながる情報の排除などを企図している。
すでに国内では、天安門事件に関するデータ検索すら規制されている。新法の広義の解釈により、規制や摘発の対象は中国国民のみならず、外国籍企業やビジネスマンに及ぶ恐れもある(2017・06・04)」

たしかに中国における言論と情報に対する統制はすさまじい。たとえば2015年7月から2カ月の間に「政権転覆を謀り扇動した」という理由で、北京鋒鋭律師事務所の王宇女史ら民主・人権派の弁護士を中心に300人が逮捕拘束されるといったありさまだ。
しかし日本でも、昨年特定秘密保護法が制定され、いま共謀罪が反テロの口実で成立した。国連機関がこれに敏感に反応し、共謀罪法案については5月18日国連のケナタッチ特別報告者が、「表現の自由を不当に制約する恐れがある」と懸念を示した。
同30日にはデービッド・ケイ特別報告者が、特定秘密保護法について「ジャーナリストを萎縮させないよう法改正すべきだ」などと勧告する報告書を発表した。これらに対して政府はすぐさま「不正確な内容」と、これを一蹴した。だが、皮肉なことに国連機関の日本への勧告は、安倍政権機関紙とも思える産経新聞の上記中国批判の社説と同じ趣旨である。
「共謀罪」法の条文を読んだとき、私は「あれ、前にも同じようなことがあった」と、いわゆる既視感にとらわれた。しばらくして中国での生活体験に思いあたった。それで私なりの体験をここに書こうと思う。

1989年の学生市民による民主化運動を中国では「六四学運(学生運動の略)」といい、日本では「天安門事件」という。6月4日北京の天安門広場とメインストリートの長安街で、人民解放軍による学生市民の大量虐殺があった。私はこれを思い出して、「六四(リュゥスゥ)」という響きを聞くといつも悲しくなる。
1986年に学生の民主化運動があり、これを支持して失脚した胡耀邦が89年に亡くなると、学生の間に胡耀邦は高級官僚の汚職腐敗を会議で糾弾しているうちに憤死した、といううわさが広がった。
北京でデモが起きた。天津の大学生はみな北京のデモに参加した。あのとき私は天津で中学高校生に日本語を教えていた。当時、激しいインフレで、毎週のようにモノの値段が上がっていた。学生の「汚職官僚打倒」を支持する町の人のなかには、物価騰貴の原因を官僚の汚職にあると思い込んでいる人もいた。
そのうち天津の中高生もデモをやるという。教師たちは校長のほかは、知らんぷりしていたが、私は生徒たちを守らなくてはならないという思いで、彼らのあとについて行った。デモの後、私には公安の尾行がつくようになった。
10年後、私はまた中国へ行って日本語教師をやったが、教室で「チベット人地域へ遊びに行った」と話してからは、ふたたび公安機関の監視がつきまとうようになった。今度は「チベット」がいけなかったらしい。

学生らは「民主」を叫んだ。彼らは「『民主』は『君主』に対するものだ」といった。日本の大新聞のさる北京特派員は、「学生らはものごとがよくわかっている」と感心した。ところが学生は「民主とは人民が主人公の意味だ」としつつも、「人民を代表するものは中国共産党だ」と言っていたのである。
学生らがデモクラシーの初歩を知っていれば、「なぜ中共は人民を代表できるのか」「幹部の権力を制約する制度は何か」といった問題意識が生れたはずである。
北京での学生運動指導者である北京師範大学のウルケシや柴玲、北京大学の王丹らからは、憲法擁護、汚職反対、報道の自由を要求することばは聞いたが、議会制民主主義とか三権分立といったことばを聞くことはなかった。彼らは民主化運動を中共に清潔な政治を求めるレベルにとどめ、体制変革をめざしたりはしなかったのである。
だからといって、私は「六四学運」の意義を否定するものではない。学生らは「民主」を要求しながら民主主義とは何かを知らなかったというだけである。
権力の側はといえば、学生の論理を分析すれば対応の仕方も変わったであろうに、ただただ民主化運動を「暴乱」と断定して、しゃにむに弾圧したのである。

日本には、89年の民主化運動が「五四運動」以来の精神を継承したものと解釈する人が多いが、これにもすこしの違和感がある。文革時代の1974年には「李一哲の大字報」、文革後の78年からは「民主の壁」、79年には魏京生の「人権・平等・民主主義」があった。しかし、民主化運動に参加した学生たちは、私が接したかぎりのことだが、「李一哲」も魏京生も知らなかった。
もちろん識者は学生とは違った。
1919年べルサイユ条約の結果に反対する抗日・反帝の五四運動から1920年代にかけては、軍閥支配を打倒し共和制=議会制民主主義に進む可能性を生んだ時期があった。1924年の国民会議運動はその有力な運動であった。
1989年民主化運動昂揚のなか、哲学者李沢厚は近代史上でのこの時期の政治運動を論じて、自由と民主主義を強調する「啓蒙」思想と日本の侵略に抵抗する「救亡」思想とをあげ、最終的に「救亡」を口実にした独裁が「啓蒙」を圧倒したと発言した。日本の侵略が東アジア史上初の共和制の芽を摘んだのである。
抗日戦に勝った国民党は1945年以後も独裁体制を維持した。中共が主導した国共内戦末の人民政治協商会議の「共同綱領」は、自由と民主主義・人権の尊重をうたった。にもかかわらず、中共勝利後の中国憲法はその精神からはずっと後退したものになった。
1957年の反右派闘争以来20年間にわたる圧政がつづいたのち、「四人組」逮捕によって毛沢東の帝国は崩壊した。だが一党独裁は維持された。知識人の一部は「改革開放」を政治領域に拡大するよう要求しつづけて現在に至る。

民主化運動の主だった指導者たちは、アメリカやフランスへ渡った。これに対して運動参加者から「なぜ国にとどまって戦わないか」という声が上がった。当局よりの人は「なぜ連中を逃がすのか」と怒った。
またある人は「国にとどまって投獄されても国外に逃亡しても、国内に影響を及ぼすことはできないのだから、いずれにせよ同じことだ」といった。この見かたは正しかった。事件から28年経つが、亡命した指導者たちの誰一人として国内に影響力をもたない。
「80後(パーリンホウ・1980年代生れ)」以後の若者たちは「六四学運」を知らない。中共の恥部について語ることは、タブーだからである。中共は大躍進や文化大革命や天安門事件の記憶がなくなることを望んでいる。そして、いま期待どおりになった。
中共は強力な治安機関と経済的成功に寄りかかって独裁を維持し、自ら三権分立や代議制への改革に乗り出す気はまったくない。どうみても政治体制は、魯迅が『阿Q正伝』を書いた100年前よりも後退している。阿Q精神も姿を変えて生きている。
というわけだから、天安門事件の死者はいまのところは「犬死」である。(6月16日記)
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