2017.07.17  花岡事件遺族6人が益子の朝露館を訪問
          韓国通信NO529

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 7月2日、花岡事件(花岡鉱山事件)<注1> の遺族たちが栃木県益子の朝露館陶芸美術館 <注2>へやってきた。一行は72年目を迎えた花岡事件の追悼慰霊祭に参加のため6月28日来日、30日の行事を終えて、日程をやりくりして東京からバスで益子に向かう強行軍だった。

 遺族6名を含む訪問団19名は正午近く到着。昼食もとらず早速館内を見て回った。館長の関谷興仁さんの説明で、一階展示室で済州島4.3事件、福島の原発事故のコーナーを興味深げに見学、二階展示室に移動すると、彼らは目の前に広がる、花岡事件など「中国人強制連行」の記録 <注3>に釘付けとなった。

 秋田県大館市花岡町の瀬野公園墓地で開かれた追悼慰霊祭には市長をはじめ180名が参加し、419名が殺された花岡事件の悲劇を「二度と繰り返すな」と誓った(毎日新聞6/30付秋田地方版)。
公式行事の感想は聞きそびれたが、関谷さんが彫り続けてきた「悼」の作品群を見て遺族たちの心は強く揺さぶられたようで、私も想像もしていなかった感動的な光景に衝撃をうけた。

 連行された中国人の悲鳴と苦しみが聞こえそうな膨大な作品群。作者の怒りと追悼の思いが伝わってくる。陶板に「不明」と彫られた夥しい数の「名札」が、事件の異常さをあらためて気づかせ、無名の死者への作者の深い思いが彼らに伝わったようだ。
 彼らから言葉が出ない。質問をうながす声に、「この作品を作るのに何年かかったか」という質問がせいぜいで、しばらく沈黙が続いた。その沈黙を破るように突然、中年の男性がややうわずった声で話しだした。その場にいた人たちは皆、耳をそばだてた。
「名札に私の祖父の名前を見つけて驚いた。亡くなった祖父に再会したようで、とても嬉しい。感動した」。中年の男性は涙声になり、関谷さんの手を固く握りしめた。
 「花岡では父親の名前は見つからなかったが、ここで父の名前を発見した」と、名前が書かれた陶板を指さした別の男性は、関谷さんに抱きつき、ひざまずいて男泣きした。

 彼らには、小さな陶板が「墓標」のように感じられようで、虫けらのように酷使され殺された家族への思いを新たにしたようだった。とおり一遍の「謝罪」や「補償」では得られない、陶芸作家の悼む「心」に触れた。彼らは、日本の蛮行を今でも許せないと思っている。なぜなら、南京虐殺事件さえも忘れ去ろうとする日本人のことを彼らはよく知っているから。忘れてはならない記憶を陶板作品に残した日本の老陶芸作家と出会い、祖父や父親たちの人間としての尊厳が少しでも取り戻せたように思い、感動のあまり涙を流したのではないか。

 朝露館に生けてあったあじさい紫陽花を小さな花束にして贈った。花言葉は「家族への愛」。「地球村」の家族への愛を紫陽花に託した。一行は足尾銅山中国人慰霊碑を訪れ、7月4日に帰国した。



<注1>花岡事件/戦争末期、国内の労働力不足を補うため政府は「華人(中国人)労務者内地移入に関する件」を閣議決定し、日本国内に連行された約4万人の労務者たちが各地の事業所で強制労働させられた。秋田県花岡町(現大館市)では花見川の改修工事を請け負った鹿島組(現鹿島建設)によって986人の中国人が従事したが137人が死亡するいう過酷な労働を強いられた。敗戦間際の1945年6月30日に約800人が脱走をくわだて蜂起、補導員4人を殺害し逃亡を図ったが捕えられ419人が殺された。戦後、BC級軍事裁判で鹿島関係者と警察関係者に死刑を含む判決が言い渡された。その後、本人および遺家族が鹿島に対する謝罪と賠償を求めて提訴。2000年11月、鹿島が責任を認め東京高裁で和解した。1985年以降、毎年蜂起の日の6月30日に大館市によって追悼慰霊祭が行われている。

<注2>朝露館陶芸美術館/正式名称は朝露館関谷興仁陶板彫刻美術館。陶芸作家関谷興仁氏の全作品が収蔵されている。大半の作品は陶板作品で、関谷氏の心に刻まれた言葉が展示されている。済州島4.3事件の詩、ヒロシマ・ナガサキ、アウシユヴィッツを描いた「ショアー」、平和を祈る詩人の言葉、福島原発事故の惨状を刻んだ作品、さらに花岡事件をテーマ化した作品などがならぶ。非公開だったが2015年から春秋、週末限定ながら一般公開を始めた。作品に共鳴した人たちが館を支えている。ホーム・ページhttp://chorogan.org/

<注3>「中国人強制連行」の記録/一連の作品は花岡事件から始まり、満州の他、中国の占領地区における強制労働に注目して作品化されている。病気やケガで労働力にならない労務者を生き埋めにされたという「万人坑」もテーマとなっている。
Comment
管理人にだけ表示を許可する
 
TrackBack