2008.07.10
「あんなことがあったのに」は英語でどう言うの?
ことば (27) 婉曲表現: 『雪国』と”Snow Country”
男と女の出会い・別れ・再会はいつも感動的だ。物語の中で最も人を魅了する部分である。私も子供の頃からラブストーリーが大好きで、石坂洋次郎の『陽のあたる坂道』、アンソニー・ホープの『ゼンダ城の虜』(The Prisoner of Zenda)、田山花袋の『蒲団』など夢中になって読みふけった時期がある。以下の文も男と女、島村と駒子の再会のシーンである。(『雪国』 新潮文庫16ページから抜粋)
(原文)
あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果たさず、女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろうから、先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れるので、彼は尚更、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思って、なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれていたが、階段の下まで来ると、「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。
「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。
松野町夫 (翻訳家)
男と女の出会い・別れ・再会はいつも感動的だ。物語の中で最も人を魅了する部分である。私も子供の頃からラブストーリーが大好きで、石坂洋次郎の『陽のあたる坂道』、アンソニー・ホープの『ゼンダ城の虜』(The Prisoner of Zenda)、田山花袋の『蒲団』など夢中になって読みふけった時期がある。以下の文も男と女、島村と駒子の再会のシーンである。(『雪国』 新潮文庫16ページから抜粋)
(原文)
あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果たさず、女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろうから、先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れるので、彼は尚更、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思って、なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれていたが、階段の下まで来ると、「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。
「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。
原文の最初の一文は299文字と非常に長い。サイデンステッカーはいつものように長文は分割する。この長文は7つに分割されている。
あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果たさなかった。 In spite of what had passed between them, he had not written to her, or come to see her, or sent her the dance instructions he had promised.
あんなことがあったのに → 二人の間に起こったものにもかかわらず
「あんなこと」とは、ここでは男女間の肉体関係を指す。婉曲(えんきょく)な表現は難しい。私のような実務翻訳者には特にそうだ。以前、原田克子さんの詩を英訳したときの話。『壊心 3』の第2パラグラフの3行目、「肌を触れ合うことがなくなったわたしたち」で困ってしまった。ウーン、難しいなあ… We can no longer sleep together とか We don't touch each other any longer now とか訳してはみたが、いまひとつ自信が持てない。「あんなことがあったのに」は In spite of what had passed between them というのか。なるほど。よーし、忘れないようにこのまま暗記しようっと。
「あんなことがあった」 (直訳すると there was a thing like that) が、訳文では「二人の間に起こったもの」 what had passed between them = the thing that had happened between them と、より具体的に名詞で表現されている。このように、日本語では文(節)で表現してあるのに、英語では名詞(もの)で表現する場合が多い。「動詞が主役」の日本語と「名詞が主役」の英語との違いがここにも顔を出している。
女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろう。
She was no doubt left to think that he had laughed at her and forgotten her.
“no doubt” は「疑いなく」 (undoubtedly) という副詞。She was left ... は受身。能動態に直すと、He left her ... (彼は彼女をほったらかした)。原文、訳文ともに、受動態と能動態が混在している。She was no doubt left to think that she had been laughed at and forgotten (by him). (彼女は彼にほったらかしにされ、笑われて忘れ去られたと彼女はきっと思ったことだろう) と従属節を受身にすることもできる。
先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れた。
It should therefore have been his part to begin with an apology or an excuse, but as they walked along, not looking at each other, he could tell that, far from blaming him, she had room in her heart only for the pleasure of regaining what had been lost.
「体いっぱいになつかしさを感じている」 → 「彼女は、失っていたものを取り戻したという喜びだけの余裕を心に抱いていた」 “she had room in her heart only for the pleasure of regaining what had been lost.”
ワオ、これは驚いた!原文の日本語には名詞は2つ、「体」と「なつかしさ」しかないのに訳文の英語にはどちらの名詞も出て来ない。 その代わりに、5つの名詞、「she (彼女)」、「room (余裕)」、「heart (心)」、「pleasure (喜び)」、「what had been lost (失っていたもの)」が新たに補充されている。英語的な発想とはいえ、これはしかし私たちには複雑すぎる。もっと単純に、たとえば、she was filled with longing for him. (彼女は、彼に対するなつかしさでいっぱいだった) でいいのではないのかな。これだと原文の「いっぱい」も「なつかしさ」も出て来る。
彼は尚更、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思った。He knew that if he spoke he would only make himself seem the more wanting in seriousness.
なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれて彼は歩いた。
Overpowered by the woman, he walked along wrapped in a soft happiness.
階段の下まで来ると、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。Abruptly, at the foot of the stairs, he shoved his left fist before her eyes, with only the forefinger extended.
階段の下まで来ると → 階段の下で (at the foot of the stairs)
私などつい、原文にひきずられて文(節)として when they came to the foot of the stairs と直訳しそうなところだが、なるほど、動詞 come 「来る」の代わりに、前置詞 at 「(下)で」で充分ですね。日本語の動詞は、英語では前置詞で表現される場合が多い。たとえば、冒頭の「長いトンネルを抜けると」 = out of the long tunnel. 逆に言うと、英文和訳の際には、英語の前置詞は日本語では動詞で訳した方が自然な和文になる場合が多い、ということですね。
「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」
“This remembered you best of all.”
「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。
“Oh?” The woman took the finger in her hand and clung to it as though to lead him upstairs.
あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果たさなかった。 In spite of what had passed between them, he had not written to her, or come to see her, or sent her the dance instructions he had promised.
あんなことがあったのに → 二人の間に起こったものにもかかわらず
「あんなこと」とは、ここでは男女間の肉体関係を指す。婉曲(えんきょく)な表現は難しい。私のような実務翻訳者には特にそうだ。以前、原田克子さんの詩を英訳したときの話。『壊心 3』の第2パラグラフの3行目、「肌を触れ合うことがなくなったわたしたち」で困ってしまった。ウーン、難しいなあ… We can no longer sleep together とか We don't touch each other any longer now とか訳してはみたが、いまひとつ自信が持てない。「あんなことがあったのに」は In spite of what had passed between them というのか。なるほど。よーし、忘れないようにこのまま暗記しようっと。
「あんなことがあった」 (直訳すると there was a thing like that) が、訳文では「二人の間に起こったもの」 what had passed between them = the thing that had happened between them と、より具体的に名詞で表現されている。このように、日本語では文(節)で表現してあるのに、英語では名詞(もの)で表現する場合が多い。「動詞が主役」の日本語と「名詞が主役」の英語との違いがここにも顔を出している。
女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろう。
She was no doubt left to think that he had laughed at her and forgotten her.
“no doubt” は「疑いなく」 (undoubtedly) という副詞。She was left ... は受身。能動態に直すと、He left her ... (彼は彼女をほったらかした)。原文、訳文ともに、受動態と能動態が混在している。She was no doubt left to think that she had been laughed at and forgotten (by him). (彼女は彼にほったらかしにされ、笑われて忘れ去られたと彼女はきっと思ったことだろう) と従属節を受身にすることもできる。
先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れた。
It should therefore have been his part to begin with an apology or an excuse, but as they walked along, not looking at each other, he could tell that, far from blaming him, she had room in her heart only for the pleasure of regaining what had been lost.
「体いっぱいになつかしさを感じている」 → 「彼女は、失っていたものを取り戻したという喜びだけの余裕を心に抱いていた」 “she had room in her heart only for the pleasure of regaining what had been lost.”
ワオ、これは驚いた!原文の日本語には名詞は2つ、「体」と「なつかしさ」しかないのに訳文の英語にはどちらの名詞も出て来ない。 その代わりに、5つの名詞、「she (彼女)」、「room (余裕)」、「heart (心)」、「pleasure (喜び)」、「what had been lost (失っていたもの)」が新たに補充されている。英語的な発想とはいえ、これはしかし私たちには複雑すぎる。もっと単純に、たとえば、she was filled with longing for him. (彼女は、彼に対するなつかしさでいっぱいだった) でいいのではないのかな。これだと原文の「いっぱい」も「なつかしさ」も出て来る。
彼は尚更、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思った。He knew that if he spoke he would only make himself seem the more wanting in seriousness.
なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれて彼は歩いた。
Overpowered by the woman, he walked along wrapped in a soft happiness.
階段の下まで来ると、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。Abruptly, at the foot of the stairs, he shoved his left fist before her eyes, with only the forefinger extended.
階段の下まで来ると → 階段の下で (at the foot of the stairs)
私などつい、原文にひきずられて文(節)として when they came to the foot of the stairs と直訳しそうなところだが、なるほど、動詞 come 「来る」の代わりに、前置詞 at 「(下)で」で充分ですね。日本語の動詞は、英語では前置詞で表現される場合が多い。たとえば、冒頭の「長いトンネルを抜けると」 = out of the long tunnel. 逆に言うと、英文和訳の際には、英語の前置詞は日本語では動詞で訳した方が自然な和文になる場合が多い、ということですね。
「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」
“This remembered you best of all.”
「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。
“Oh?” The woman took the finger in her hand and clung to it as though to lead him upstairs.
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