2008.07.13 伝統文化を大切にした鎌倉武士
〔書評〕尾崎左永子著「鎌倉百人一首」を歩く』(集英社、¥1050)

雨宮由希夫 (書評家)


古都・鎌倉には、何時訪れても常に立ち去りがたい独特の時間が流れている。
ある年の早春のころ、北鎌倉の駅を降り、建長寺の方丈庭園の裏手の小道より、天園(てんえん)ハイキングコースに分け入ったことがあった。淡い緑の雑木林のしげみが突如開け、きらめく七里ガ浜の金波銀波と若宮大路が眺められたときの驚き、暮れなずむ空からちらほらと雪が舞い降りる中、山道をひとりさまよい、瑞泉寺の梅をみて、やっと人家が近いと安堵したことなどをつい昨日の出来事のように思い出す。
「花の季(とき)」。四季折々、風情豊なたたずまいを見せる「寺」と「花」。鎌倉は四季、花の街でもある。東京よりわずか1時間の地に、かくも手ごろな古都があり、いつでも小さな旅を愉しむことができるとは、われわれ東京人はなんと贅沢な幸せを享受していることか。
本書は、古代から現代まで、故人のものという基準の下に、古くから鎌倉を詠んで来た先人たちの短歌を、鎌倉に集った第2次「鎌倉ペンクラブ」や「鎌倉歌壇」の文化人や歌人たちが選んだ百首の内から、その選者の1人でもある歌人・尾崎左永子(さえこ)の「心にとくに響いてきた約五十首」についてのエッセイ集である。

7、8百年前の、実朝の時代から鎌倉6代将軍宗尊親王の時代までの歌を作る人をひっくるめて、国文学者たちは「鎌倉歌壇」と呼んでいるそうだが、現代でも、鎌倉という土地柄は、歌を作る人が多く、第2次「鎌倉歌壇」を結成しているという。7、8百年をへだたった時間をものともせず、同様に「鎌倉歌壇」と呼称してはばからないのも、鎌倉特有の時間感覚といえよう。
和歌と美しい写真(写真家原田寛撮影)の不思議な符合がエッセイに奥深さをもたらしているが、本書最大の魅力は、著者のほほえましい笑顔に幾度となく出くわすことだろう。歴史への切り込み、歴史世界への飛翔がとりわけ楽しい。例えば、鎌倉時代について、著者は次のように語る。

鎌倉時代、といわれる歴史上の時代は、武家を中心にした力の政治、質実剛健な文化を想像しがちだが、しかし、それは没落していく藤原氏系の公卿たちの「京」文化から見た一方的な思い込みである、という感じを、最近とみに強くもつことがある。武人たちは、みな伝統文化を大切にしたのである。

源実朝とはいかなる人物であったか。実朝は父頼朝と同じように幕政を総覧する道を歩むべく期待されながらも、公家の娘を妻にし、歌道・蹴鞠に日を送りながら次第に公家化し、政治から遊離した将軍である、とするのが一般的な解釈と思われるが、著者の描く実朝は、父頼朝が『新古今和歌集』に撰ばれた「勅撰歌人」であることに、強い憧れを持っていた、とする。また、実朝が一度も京都に上ることがなかったことが、頼朝と最も異なるところかもしれない、ともいう。ユニークな解釈ではないか。
実朝の同時代人である西行や鴨長明にページが割かれているのは当然として、「鎌倉百人一首」に取り上げられた歌人に、なんと武人の多いことか。第3代執権の北条泰時については、「当時歌人といわれる人の中では抜群の能力を見せている」とし、泰時や7代執権北条政村も和歌に巧みで抜群の能力の持主であると評価している。
鎌倉に住むゆえの地の利を生かした描写も素晴らしい。

鶴岡の柳絮(りゅうじょ)に出会うには、四月二十九日から五月三日ごろ、それも、風の無い、晴れた午前中に限るようである――。
稲村ガ崎。切通(きりとお)しになっていて、崖には晩秋に一面に石蕗(つわぶき)tの花が咲く。実際、崖の下には小道があって、以前は退潮の時、崖沿いに歩くことができた――。
昭和初期、まだそのころには多くの松林が鎌倉の海岸にも存在した。この数十年の間に、湘南海岸の松林が目に見えて減った――。
私の住んでいる鎌倉山は、今は住宅地となってしまったが、それでもまだ、海に近い「山」としての面影をいくらか残している。ある冬の夜、二階の窓のカーテンを何気なく開けて思いもかけぬ美しい情景――月光に光る七里ガ浜の海――に出会ったことがある。厳寒のころだっただけに、その光はほんとうにこの世とも思われない美しさだった。
 そして夏、早朝に珍しく起きて雨戸を開けると、特に霧が渦巻いていることがある。近くの山が見えないほどに渦巻く霧の中に、快い樹の香りがする。だから、これは山霧というべきか、とも思う――。


大海(おおうみ)の磯もとどろによする波われて砕けて裂けて散るかも 

いわずと知れた実朝の代表歌のひとつであるが、「鎌倉百人一首」の人気投票でも第1位に輝いた歌であるという。この和歌の対する著者の独特な解釈は見ものである。著者はかく謂う。

この歌に関しては、二十八歳で亡くなった若き将軍実朝の、虚無、孤独の思いがこもっている、という解釈が通説なのだが、私はそうは思わない。鎌倉に住み、鎌倉の海を見つめる青年の、率直な感性による自然体として受け取りたい。

天稟天成の歌人である実朝は、源氏の嫡流の立場にあって、武家棟梁家の家長として、武人としての強烈な自負があったと評者は思う。 著者は実朝に、湘南海岸でサーフィンに興ずる現代の青年を重ね合わせているのである。 
本書を鎌倉歴史散策の書物として読むことも、手頃な旅行の案内書としてひもとくことも、それは読む人の自由であろう。
初めて知ったことの多さにたじろぐ。鎌倉はまさに奥深い。どこへ足を向けるべきか?
 はじめて出あった短歌に魅せられ、当該の地を探り当て、訪問するのも一興であろう。
 評者にとって、鎌倉は何といっても義経であるが、本書では奇妙なことに、鎌倉といえば、頼朝・実朝であり、義経への言及は無い。
義経は二年ばかり鎌倉に住んでいる。しかし、鎌倉には義経ゆかりの場所が意外に少ないことも事実ではある。
 寿福寺は「もともとは頼朝の父である義朝の邸跡だった」という。頼朝の父であったということはとりもなおさず義経の父でもあった。義経も父・義朝の面影を求めて寿福寺あたりを徘徊したことであろう。寿福寺は萩の寺としても名高い。萩の花の咲くころ、寿福寺界隈を訪ねてみようと思う。著者の言うとおり、「鎌倉には、何か人の心をつなぎとめる土地柄の魅力があるのは、今も昔も変わらない」。
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