2017.10.30  日本への恨み考-―「満州事変を忘れるな」の補遺
          ――八ヶ岳山麓から(239) ――

阿部治平 (もと高校教師)

先月のことだが、産経新聞に概略次のような記事があった。
9月22日、河南省鄭州大学で行われた就職説明会で、通信機器メーカーの小米科技(シャオミ)の幹部社員が、「英語やアラビア語を勉強している学生は歓迎するが、日本語専攻の人はお帰りいただきたい」と発言し、さらには「日本語専攻者はアダルトビデオにでも就職すれば?」ともいったことがわかった。
侮蔑を感じた日本語専攻の女子学生が、問題発言の詳細をインターネット上で暴露し、小米科技の雷軍・最高経営責任者に謝罪を要求した。結局雷氏は、24日に発言者の譴責処分を発表。発言者も公式に陳謝した。
ところが新浪など中国の大手ポータルサイトでは、この騒ぎをめぐる書き込みに女子学生への同情があまりみられず、むしろ「日本語学習者なら日本に行け」など、不当な発言を支持する意見が圧倒的に多い展開となった。
中国のテレビでは、旧日本軍の残虐性を強調する抗日ドラマが連日放映されてきた。最近では、ニュース番組でも、中国での相次ぐ日本人拘束事案を『日本人スパイ』と言い立てて、国民の反日感情を刺激する事態が続いている(産経「矢板明夫の中国点描」2017.9.27)。

さて私が中国への往来を始めた1988年ころは、両国間の国民感情はむしろ良好だった。私は天安門事件の2か月後に中国から帰国し、11年後の2000年に再び中国にわたってさる研究所に勤務した。
翌2001年、小泉首相の靖国神社参拝によって日中関係は急速に悪化した。このとき私は研究所の人々の私を見る目が急に冷たくなったのを感じた。天津の街頭では日本人の知人がズボンに痰を吐きかけられた。

2005年3月、韓国で反日運動が起きると、中国でも歴史教科書問題や日本の国連安保理常任理事国入り要求をめぐって反日運動が起きた。翌月には成都で日系スーパーに対する襲撃があり、引き続く北京、上海ではデモが暴徒化した。このとき私はある大学に勤務していたが、初めてインターネットや携帯メールによってデモが各地に拡大するさまを体験した。そこの大学でも学生が校舎に反日スローガンの垂幕をたらし、日語系学生が説得して短時間でこれを下すということがあった。

2010年9月になると東シナ海での中国漁船衝突事件が発生し、時の民主党政府は船長を逮捕した。日本は中国の強硬姿勢に苦しみ、あげく船長釈放を沖縄地検の判断に頼るというみっともない幕引きをした。このときも中国ではネットやメールなどで反日デモの呼びかけが行われ、中国内陸部の各都市で反日デモが発生した。デモ隊は「愛国無罪」といいつつ日章旗を燃やし、日系商店のガラスや看板を砕き、日本車を破壊するなどした。最終的には中国政府が武装警察を動員して事態をおさめた。

2012年には中国人活動家数人の尖閣諸島上陸という事件があってのち、胡錦濤主席の「やってくれるな」の申入れにもかかわらず、野田政権が尖閣の国有化を決めたのが直接のきっかけで両国関係は険悪になった。
中国側はテレビ・新聞を中心に大々的な尖閣特集を組み、反日報道を展開した。9月15日から全国各地のデモは20数都市に拡大した。それは2005年のデモを越える規模になり、日系の店舗、工場、企業を軒並み襲撃し、略奪や放火をした。中国人経営の日本料理店や日本車に乗っていた中国人までもがやられた。

こうした中国の反日デモを、日本のメディアはどのように伝えてきたか。
デモ参加者はもちろん一般市民だったが、メディアはこれを自発的行動とはみなさず、中国政府によって扇動されたものだと解説した。
たとえば2012年のデモは、胡錦濤政権下で次期中国共産党総書記に内定していた習近平国家副主席が、対日強硬路線を主張して実施したともいわれた。1回10元(約130円くらい)の日当とか、いや100元だとか、裏にそのスポンサーがいるとかいう話もあった。さらにデモにともなう破壊行為は、民衆が日頃の政府に対する鬱憤を晴らそうとしているためだ、といった解説もあった。
新聞もろくにみない庶民層が外交問題でデモをやることが不可解だし、そもそも中国では政府の許可または黙認なしにデモをすることはできない。だから、大規模なデモの裏側に中共当局の意図が働いていたと見るのは、間違いではない。

しかしそれはすべてはない、と私は思う。
すべてのデモ参加者に自発性がなかったということはできない。どんな中国人であっても、多少なりとも日中戦争を知っている者ならば、心の底に激しい反日感情をもっている。だからこそ政府による「刺激」にたちまち反応し、「愛国無罪」のデモが生れたのである。
ここからはまったくの個人体験である。

1985年夏、私は中国山西省太原で、日本人向けセミナーの漢語学習班に参加した。あるとき、顔見知りの事務官が「日本鬼子又来了(日本の人殺しがまた来た)」といったことがあった。私が自分のことかと驚くと、彼は漢語学習に参加した数人の日本人年配者をさして「君ではない。あいつらが鬼子だ」というのだった。その人たちは日中戦争時に太原を占領した部隊の生残りだった。かの事務官は私に向かってこういった。
「あいつらが来たとき、父は私を抱いて3日間トウモロコシ畑に隠れていた。それでようやく助かったのだ」。

友人の地理研究者は日本に来たばかりの時、すでに日本語会話ができた。なぜかという問いに「日本語学習は自分の希望ではなかった。大学当局が私を日語履修班に振り分けたから」と答えた。
親しくなってから、彼は自分の家族の歴史を語ってくれた。1937年11月、日本軍は上海を制圧し、12月には南京を占領した。日本軍が上海から南京へ向かう途中に、彼の祖父の家があった。祖父は捉えられて柳の木に縛りつけられ、銃剣刺突の的にされた。祖母は輪姦され、そのショックで目が見えなくなった。一家は働き手を失い、男女5人の子供のうち4人は餓死し、彼の父だけが生き残った。
「そういうわけで、親戚は私に日本語をやるなら縁を切るといったのです。私?……忍耐して日本語を勉強するしかないでしょう?」

1988年私は日本語教師として中国天津に派遣された。
赴任先の中学(中学高校)には英語系と日語系のコースがあり、生徒たちの学習意欲はかなり高かった。私が生徒たちの成績をほめると、若い副校長は、「いやいや、なかなか苦労がありまして……」といった。
この学校でも入学者を英語系と日語系に振り分ける作業は学校側が行なっていた。日本語ブームが存在したころだったが、たいていの入学者は英語系を強く希望した。「運悪く」日語系に回されると、親の中には承知することができず、激昂して怒鳴り込むものがいた。
「毎年、それをなだめるのが容易ではありません」
そして生徒の中には、我々日本人教師に露骨に反感を示すものがいた。こうした「底流としての反日感情」の発露に、私は頻繁に遭遇した。

小さいころ、夕方遅くまで遊んでいると「ボーコが来るぞ」と脅されたことを思い出す。それが蒙古のことであり、13世紀の文永・弘安の役に関連していると知ったのは、大人になってからのことである。侵略の歴史は、被害者にはかくも長く記憶されるのである。
ましてや日中戦争は近年のできごとである。現在の中国人の中にやみがたい反日感情が生き続けるのは、ごく当然のことだ。もしわれわれの祖先が同じ体験を強いられていたらと考えると、それは納得せざるを得ないものである。
過去日本の侵略は、現在の中国の人々に悲憤の種を残した。そして中国からご先祖の悪行を指摘されるたび、心からのお詫びをいい続けなければならないのである。
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