2008.07.26 伊賀の小天地襲った織田勢侵攻の顛末描く
〔書評〕伊東 潤著『山河果てるとも』(角川書店、¥1890)

雨宮由希夫 (書評家)

日本の風土が産んだ典型的な作家・水上勉の『日本紀行』(平凡社・昭和50年9月刊)には、水上が、「ある日、伊賀の山奥に、たった七、八の家しかない秘境があって、そこに百地三太夫の後裔と称する人が住んである。いってみないかと、誘われた」というお伽噺のような話が掲載されている。誘いに乗って訪れたその村は、三重県の名張(なばり)市から、何里も山奥へ入った奈良県との境のまたがる秘境の、「眠ったように静かな平和な村」であり、「三太夫が死んでから、何年たつだろう。五百年は優にたっていよう。この深山幽谷の中に生き、土にしがみついて生きた歴史がそこにあった。私はふと頭の下がる思いがした」と水上は書き記している。
伊賀国は、東西南北10里に満たない盆地にすぎないが、他国とは隔絶した環境にあり、特にその南部は「隠(なばり)の国」と呼ばれるほど奥深い山里にある。
 戦国期の伊賀は国衆とよばれる群小土豪の割拠する自治自衛の連合国家のような別天地であり、他国からは「五百年乱不行国」と羨望された。しかし、その伊賀の小天地にも、戦国動乱の足音はひたひたと迫っていた。
天正4年(1576)11月25日、織田信雄(のぶかつ)は、養父北畠具教(とものり)を謀殺し、伊勢国司である北畠家は滅んだが、僧籍にあった弟の具親が伊賀に落ちのびるにいたり、伊賀の事態は一変する。
本書は、信長一代の合戦のうち、伊賀平定の戦ほど奇妙なものはないといわれる天正伊賀の乱そのものを取り上げた歴史小説である。
織田勢の侵攻を前にし、太古の昔より、猫の額のような土地を耕し、自然と同化するように生きてきた伊賀の人々は、織田家になびくもの、反織田をつらぬくものに引き裂かれる。つい先日まで、ともに農事にいそしんでいた兄弟、叔父甥が敵味方となって切り結ぶとは予想すらしなかったことだろう
本書の主たる登場人物は、左衛門、小源太、忠兵衛、勘六の四人の若者である。増地小源太は常に思慮深く冷静である。伊賀が焦土となることを恐れる小源太は、織田家の勢威は飛ぶ鳥を落とす勢いで、その力は伊賀の想像をはるかに超えている。力なき者がはむかったとて、これこそ蟷螂の斧に等しい、ここで蹶起して何の得があるかと、左衛門らを説得する。
しかし、「この度の蹶起は、伊賀五百年の平和と独立を守るために、何としても為さねばならないものなのだ」とする伊賀評定衆の総意で、蹶起と決まる。
山内左衛門宗時は伊賀国衆としての矜持から徹底抗戦を唱える。伊賀一の武辺である左衛門には伊賀一の美女である紗枝(さえ)という許婚がいるが、斬り死にを覚悟している左衛門は紗枝に非情にも「わしらは結ばれる運命になかったのかも知れぬ」と告げる。それでもなお、「織田家が滅び伊賀に平和が戻るその時まで左衛門様を待ちます」とすがる紗枝を抱くシーンは本書の読ませどころである。伊賀に生を享けたものは地縁血縁の中で、がんじがらめになっており、おのれひとりでは生きられない、との作家の独白は歴史の真実であろう。
小源太はかけがえのない妹紗枝を左衛門から切り離してまで、信長に降り、伊賀の者から観れば裏切り者となる。
20歳そこそこで伊賀評定衆12人の1人となった富岡忠兵衛はことのなりゆきから小源太の代わりに織田軍の案内役となってしまう。忠節を示すため、武道の師を討ち、同胞の館を焼き、その一族郎党、下人、そして、実弟新八郎を殺すという修羅道に堕ちる。
左衛門や小源太らの伊賀国衆を煽動し、伊賀全土を戦乱に至らしめたのは、吉原左京亮ら北畠旧臣たちであった。
一方、信雄の側近として、これほどの悪党は他にいないのではないかと読者をふるえあげさせるほどの姦計を信雄にすすめるのは、「伊勢の狐」の異名を持つ滝川三郎兵衛雄利である。  
織田にいち早く誼を通じた者としては、北伊賀十二郷を治める大土豪の耳須(みみず)弥次郎がいる。陰謀家で強欲者でもある弥次郎は左衛門の許婚の妙枝を我が物とした後、質として信雄に差し出す非道をなす。
親織田派には、本心から伊賀と伊勢の融和に努力した下山甲斐のような穏健派もいた。心ならずも信雄の案内人となった甲斐が戦場に散っていく姿には滅び行くものの美しさがにじみ出ている。
天正9年(1581)9月、古今未曾有の殺戮、当時の言葉で言えば、「撫で斬り」(皆殺し)、「焼き討ち」(焦土作戦)が行われ、生きとし生けるものほとんどの生が絶たれ、寺社の堂塔伽藍、諸仏が焼き尽くされ全てが灰燼に帰した。
歴史小説としての生々しい殺戮の描写の後に、作家は、紀行風の一文を挿入している。
現在、伊賀の山野を訪ねると、彼らの居館だったと伝えられる城跡が、草に埋もれたまま各地に点在している。まさに、芭蕉翁の「夏草やつわものどもが夢の跡」という句が、最もぴったりする場所こそ、その生地である伊賀なのである。
最終章で、奇跡的に生きのびた左衛門と勘六が語り合うシーンがある。竹内勘六は父と妹を竹馬の友・忠兵衛に殺されている。左衛門は語る。
五百年乱不行国に生まれ、爺様や父様と同じように春夏秋冬、“つちくれ”とともに生き、死んでいくものと思うてきた。しかし、信長という悪魔により、すべては変えられたのだ。信長という男が、もしこの世におらなければ、われらは今頃、打ち揃って、ここで笑い会っておろうな。
伊賀の人々にとっての織田信長という人物が、百余年も続いた戦乱の世を終焉に導いた英傑などではなく、突如地上に舞い降りた悪魔の類として受け止めていたに違いないことを、読者は思い知らされる。
 それにしても、歴史とは何と非情なものであることか。
天正伊賀の乱の終焉は天正9年(1581)9月の事であり、本能寺の変は天正10年(1582)6月4日のことである。後世の我々は言えるのである。せめて9ヶ月、紗枝と左衛門が逃げ遂せたとしたら、2人はめでたく思いを遂げていただろうと、読者は想像するのである。これまでもが作家の計算のうちであるとしたら、この作家の歴史的造作力はとてつもなく奥深い。
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