2018.03.08 一切の束縛から自由な、ただ一人の人の誕生
          ――八ヶ岳山麓から(253)――
               
阿部治平 (もと高校教師)


2月に開かれた中国共産党中央委員会は、3月の全国人民代表大会(全人代)に、これまで国家主席の任期を2期10年までとしていた憲法上の規定を廃止する旨の提案をした。
注)全人代はよく国会といわれるが「拍手機関」にすぎない。年1回1週間くらいの会期しかなく、日本などの国会とはまったく異なる。むしろ毎年秋の中央委員会総会が国会にあたる。

中国の最高権力機関には中共総書記、中共中央軍事委員会主席、国家主席の3つがあるが、任期が明文化されているのは国家主席だけだった。
このたびの憲法改定草案を、日本のたいていのメディアは、習近平の終身国家主席制への道をひらいたものと伝えている。たとえば信濃毎日新聞はほとんど1頁を使い、「習氏、終身支配へ着々」と大見出しを掲げ、「党・軍・国家の頂点不動、政敵は排除」「覇権の野心、日米どう対応」と習近平の支配体制への懸念を表明した(2018・02・27)。
中国国内でも、ネット上に「暗黒に慣れても暗黒を支持するなかれ」などという批判が続出した。もちろんただちに削除されたが。
人民日報や環球時報は、国内外の批判や懸念にあわてて、3月1日付の論評で「党と国の指導者の定年制の変更や終身制を意味するものではない」と反論し、中国では党と国、軍のトップを一人の最高指導者が兼ねる体制だから、国家主席にだけ存在する3選禁止規定の削除は指導体制の一致性の維持に有利であるとか、「長期にわたり社会を安定させるため」などという(人民日報2018・03・01)。
なるほど、ものはいいようである。それなら党総書記と軍事委員会主席に2期10年の任期を設けてもよいではないか。10年では社会が安定しない理由はなんなのか。
産経の矢板記者は、「軍機関紙の解放軍報などが『各地に駐屯する部隊が次々と改憲案を支持する』と大きく伝えているのも不気味だ。全人代代表らがこれから審議するのに、いきなり軍が草案支持を表明することは恫喝にもみえる」と中国軍の動向に注目している。この国は毛沢東が喝破したように、「政権は銃口から生まれる」からである。

中国は国名が人民共和国だが、1949年の革命以来人民が最高指導者の選出にかかわったたことは一度もない。人民が党の治政に口を出したら、吊し上げか投獄である(たとえば1957年の反右派闘争)。
毛沢東は革命指導者だったから、国家主席になったのは当然といえるかもしれない。毛沢東を継いだ華国鋒は、「君がやれば安心だ」という毛沢東の遺言によって地位を得た人物だったが、反文化大革命クーデタに加わり、毛沢東夫人ら「四人組」を逮捕した。ところが華がもたもたしているうちに、鄧小平と党長老たちが最高権力を握った。
鄧小平は人民公社を解散し、市場経済をとり入れて中国を救い、1970年代末から1990年代の半ばまで20年近くを最高指導者として君臨した。その間胡耀邦と趙紫陽が相次いで党総書記になったけれども、二人とも学生市民の民主化要求に同情的だとして鄧小平ら党長老によってクビにされた。
天安門事件直後登場したのは上海市党書記だった江沢民である。江は民主化運動を断固弾圧したのを鄧小平らに買われたのである。さらに鄧小平は江の後を胡錦濤に継がせた。胡もチベット自治区党書記のとき、民族運動を銃と装甲車で鎮圧したのを買われたのである。
鄧小平が亡くなってから、中国を動かしたのは中共中央政治局常務委員会の9人(現在7人)のメンバーだった。いわゆる「集団指導体制」である。もちろんこの中に派閥と序列がある。

5年に1回の党大会の代表2300人は形式的な選挙によって選ばれる。代表はほとんど高級官僚である。そのなかから中央委員200人余と中央委員候補150人くらいを名簿チェック方式で選ぶ。より上位の高級官僚たちである。
習近平は1997年福建省党副書記のとき中央委員候補になったが、得票順位は151人中最下位という屈辱的なものだった。このときは習近平を当選させるために江沢民らが委員候補の定数を1人増やしたといわれた。この選挙で、いま首相の李克強は一段上の中央委員に当選していた。
その後、習近平は革命第二世代の太子党のコネと、江沢民などの「引き」にたよりつつ競争を生きぬいた。そして派閥間のバランスによって指導者になれた幸運の人である。
習近平は2012年11月党総書記に、翌13年3月に国家主席に就任して以来、汚職腐敗を口実に大物政敵をつぎつぎ失脚させ、思想統制を強めて人々を震えあがらせた。16年には毛沢東なみの「党の核心」の地位に進み、17年10月の党大会では党規約に自分の名前を書き込ませた。
この党大会報告で彼は、2035年までに「社会主義現代化」を基本的に完成し、建国から100年となる2050年までには「社会主義現代化強国」を実現すると発言した。この「中華民族の偉大な復興」という戦略の提示は、長期政権実現の布石だったともうけとれる。
その一方、彼はライバルを数多く蹴落とし、至上の地位を人為的に作り出した結果、党内外に怨みと敵を数多く生んだ。それゆえ、元来の任期が終わる23年が来ても最高権力者の地位から下りるにおりられないのだという見方もある。

今年は戊戌(つちのえいぬ)の年である。120年前の戊戌年にあたる1898年には、日清戦争に敗れた清朝で、政治改革をめざした光緒帝や康有為、譚嗣同らによる「戊戌の変法」があった。これは西太后の反動クーデタで巻返されて、光緒帝は幽閉、康有為は日本亡命、譚嗣同は斬首となり水泡に帰した。
60年前の戊戌は1958年だが、毛沢東は漸進路線をとった中共第8回大会の決議を無視して、「大躍進・人民公社」を始めた。大躍進は短期間にイギリスを追越すという夢を実現するはずだったが、わずか3年の間に3000万から4000万という世界史に残る餓死者を生んだ。
これでも毛沢東は懲りず、1966年には文化大革命を発令して中国を10年余の未曽有の混乱にぶち込み、1976年に死ぬまで皇帝として君臨した。

1982年の新憲法で国家主席の任期を2期10年に制限したのは、毛沢東のこの専横をくりかえしてはならないという反省からである。任期規定が成立するについては、習近平の父習仲勲らが尽力したといわれている。習仲勲は文革以前に失脚し、文革で辛酸をなめた人である。
憲法改定案を異議なく通した中央委員らは、習仲勲の心配を「ご無用」としたのである。しかし、習近平がとてつもなく賢明謙虚で、専横のふるまいなどあり得ない人と「確信」しなければこんなことはできない。さもなくば、汚職腐敗でクビにされるのを恐れて、習近平に媚びたのである。

1949年中共は、官僚資本・地主政権の国民党を打倒し、これをプロレタリア革命だと自称したが、まもなく中国の知識人には、革命の本質が農民革命であり、毛沢東が中国史に数多く現れた農民叛乱の首領と同列の人であることがわかってきた。だから、習近平が毛沢東にあこがれ、毛沢東流の統治を行おうとするかぎり、皇帝の地位をめざすのは避けられないのである。
ところが中国人は束縛をきらい、勝手にやらせると能力を発揮する人々だ。はたして21世紀初の戊戌の今年は、何が起こるだろうか。
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