2018.04.20 ノンフィクション作家の野添憲治さん逝く
中国人・朝鮮人強制連行の実態解明に挑む

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 戦時下の中国人・朝鮮人強制連行問題を追及してきたノンフィクション作家の野添憲治さん(秋田県能代市)が4月8日に膵臓がんで亡くなった。83歳。同じく九州で朝鮮人強制連行問題を追及してきた記録作家、林えいだいさん(福岡県田川市)も昨年9月に83歳で亡くなっており、私たちは、強制連行問題に関する先達2人を相次いで失ったことになる。まことに残念である。

 野添さんは、秋田県藤琴村(現・藤里町)の生まれ。新制中学を卒業後、山林や土木に関する出稼ぎや国有林の作業員をした後、能代市に移住。大館職業訓練所を修了後、木材業界紙記者、秋田放送ラジオキャスターなどを経て、著述活動に入った。
 最初は、出稼ぎ少年伐採夫や開拓農民らを取材し、その記録を刊行していたが、取材の対象は次第に、戦争中に日本に連行され、労働させられた中国人や朝鮮人の問題に移ってゆく。それは、国民学校(小学校)での経験が忘れられないからだった。

 太平洋戦争が始まった1941年に国民学校に入学したが、5年生の夏のことだ。先生に引率されて村役場へ行った。そこには若い中国人の男性2人が座らせられていた。身体は泥まみれ。野添さんは、仲間と一緒に彼らの顔に砂を投げつけた。その顔はみるみる砂まみれになった。
 それから20年後、野添さんは、彼らが「花岡事件」の中国人労働者であったことを知る。花岡事件とは、大辞林によれば、太平洋戦争下の1945年6月、秋田県大館市の花岡鉱山鹿島組出張所で強制的に働かされていた数百人の中国人が虐待・酷使に抗して集団逃亡を図った事件だ。連れ戻されたが、拷問で113人が死亡したとされる。野添さんが砂を投げた2人の中国人は、鉱山から山を越えて逃げてきた労働者だったのだ。
 「まことに申し訳ないことをした」という贖罪の気持ちが、野添さんを中国人や朝鮮人の強制連行の実態調査に向かわせる。

 取材は難航を極めた。敗戦からかなりの時間がたっていたから、当時のことを語れる関係者(朝鮮人・日本人)は少なく、また、中国人や朝鮮人がいた労働現場の多くはすでに廃墟になっていたからだ。
 そればかりでない。関係者に口を開かせるのは簡単ではなかった。日本人には「加害の歴史」を隠したがる人が多かったからだ。警官や企業の関係者につきまとわれたこともあった。そのうえ、世間では「朝鮮人の強制連行なんてなかった」と主張する人も出始めていた。

 それでも、野添さんはついに、戦時下の労働力不足を補うために日本が中国人と朝鮮人に対して行った強制連行と強制労働の実態を明らかにした作品を完成させる。『シリーズ 花岡事件の人たち 中国人強制連行の記録』第1集~第4集(社会評論社、2007~2008年)、『企業の戦争責任―中国人強制連行の現場から―』(同、2009年)、『遺骨は叫ぶ―朝鮮人強制労働の現場を歩く―』(同、2010年)である。
 これらは、野添さんが9年の歳月をかけてまとめた「現場からの報告」であった。野添さんが訪れたのは、中国人が働いていた事業所が135カ所、朝鮮人が働いていた事業所が37カ所にのぼった。こうした著作により、多数の中国人や朝鮮人が強制的に日本に連行され、鉱山、炭鉱、トンネル工事、ダム工事、発電所工事などで働かされていた事実が具体的に明らかにされた。

 「平和」と「協同」に関する報道に寄与したジャーナリストを顕彰する活動をつづける平和・協同ジャーナリスト基金(PCJF)は、こうした著作を高く評価し、2010年に第16回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞を野添さんに贈った。が、贈呈式の日は、秋田県内で強制労働を経験した人を韓国で取材中で参列できず、妻の征子さんが代理で出席した。
 式場で征子さんは野添さんの受賞あいさつを代読したが、そこには、こうあった。
 「27歳から中国人強制連行や朝鮮人強制連行の取材をやってきましたが、初めてお褒めの言葉を、公の場でいただきました。お礼をいたします。この機会に、強制連行のことが1人でも多くの人に知ってもらえたら、うれしいです」
 また、地元記者のインタビューには「過去を知らなければ、現在も未来も創造できない。私にとって証言者は宝です」と答えている。
 
 その後も、いくつかの著作を発表したが、中でも注目されるのは、野添さんが編著者となって刊行された『秋田県の朝鮮人強制連行――52カ所の現場・写真・地図――』(秋田県朝鮮人強制連行真相調査団刊)だろう。

 秋田県朝鮮人強制連行真相調査団は、同県に連れてこられ、働かせられた朝鮮人の実態を明らかにするために1995年に発足した民間団体で、その代表委員・事務局長が野添さんだった。その調査団が20年かけて追跡した実態をまとめたのが本書で、朝鮮人が労働していた事業所が秋田県内に77カ所あったこと、そこに約1万4000人いたことが明らかにされている。労働 中に亡くなった朝鮮人は墓地に埋められたが、名前の分からない無縁仏が多いという。
 調査団は調査と併せて、県内の事業所で労働中に亡くなった朝鮮人を慰霊する活動も続けてきた。事業所跡に慰霊碑を建てたり、そこで慰霊式を催すといった活動だ。

 その会報「秋田県朝鮮人強制連行真相調査団会報」が私のところにも送られてきていたが、2016年2月20日発行の第85号を最後に途絶えていた。「休刊になったのかな」と思っていたが、野添さんの訃報に「おそらく、闘病のために発行できなかったのだろう」と思った。

 面と向かって直接会話を交わしたことはないが、日本青年団協議会が主催する全国青年問題研究集会の分科会の助言者席で同席したことか何回かある。その時は、木訥(ぼくとつ)にして重厚な人という印象だった。その度に、私は「この人は、徹底的に現場にこだわる類い希なルポライターなんだ」と尊敬の念を抱いたものだ。

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