2018.05.15  ダライ・ラマ15世はなぜインドに行ったか
  ――八ヶ岳山麓から(257)――

阿部治平(もと高校教師)

読者から「ダライ・ラマはなぜインドに亡命したか」というメールをいただきました。この質問には、ダライ・ラマがどうして亡命するようなはめに陥ったか、亡命先がなぜインドだったかという二つの内容があります。すでに本ブログに書いた部分もありますが……

ラサ政府が統治権を失うまで
清国は雍正帝以来、チベットの宗主国として駐蔵大臣をおいていたが、1911年それが突然崩壊した。辛亥革命である。1913年ダライ・ラマ13世は亡命先のインドから帰国して、チベット独立を宣言した。
しかし13世の没後、高級僧侶と貴族で構成するラサ政府は、イギリスと清国の確執にうまく対処できず、34年には駐蔵大臣に代る中華民国の連絡官駐在を許し、みずから従属国状態を認める結果となった。
第二次大戦期には、摂政ダクダ活仏らは日本勝利を信じ、連合国側がいわゆる「(中国支援の)援蒋ルート」をチベットに開こうとしたときもそっけなく断った。彼らには国難にも祈祷をするばかりで、荘園経済を改革し国力を増強する気がなかった。
しかし、チベットにも政府の無策無能が続けば、大戦後チベットはイギリスか中華民国の植民地になると危惧した若者たちがいた。プンワンを指導者とする地下のチベット共産党である。彼らは政府に連合国側に立ち、土地制度を改革して農牧民を自立させ軍備を増強しなければチベットは滅びると訴えたが、相手にされなかった(のちにプンワンらはコミンテルン・中共の民族政策を知り、中共勝利の暁にはチベットは独立でき、中華連邦の構成国になるものと信じて中共に党を挙げて加わった)。

1949年10月に新中国が成立する3か月前、中共は「チベット解放宣言」を発し、ラサ政府管轄外の四川・青海・甘粛・雲南のチベット人地域を占領した。インドはこれに抗議したが、中国は「チベットは中国の不可分の領土であり、我々がチベット人民を解放する」と一蹴し、さらにラサ政府に和平談判を要求する「勧和団」を派遣した。ラサ政府はこれに慌てふためき、「チベットと清国とは従来寺院と檀家の関係だったから、今後もそう願いたい」と、間のぬけた返答をして交渉を拒絶した。
青海からの「勧和団」団長はダライ・ラマ14世の長兄で、クンブム僧院院長のタクツェル・リンポチェだった。彼はラサに到着すると、15歳の弟ダライ・ラマに中共の宗教政策を説いてラサ脱出をすすめた。このころから彼ら「先見の明」のある貴族は、情勢不利とみて出国準備をしはじめた。

1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、毛沢東はチベット問題が国際化するのを恐れ、西南軍に要衝チャムドを攻略させた。チャムドはあっけなく陥落した。チベット軍は指揮官は貴族、兵は訓練のない農牧民という編成で、武器も古く軍規のゆるんだ軍隊だった。
ラサ政府はやむをえず和平談判に応じ、51年5月「チベット和平協定」を締結した。協定内容は、中共軍のチベット進駐を認める「城下の盟」になった。これがラサ政府終わりの始まりであった。

ラサの混乱、インドへの逃避行
ラサに大量の部隊が進駐すると、たちまち食糧と燃料(畜糞)の不足と激しいインフレが起きた。52年3月チベット人の「人民会議」は、中共軍撤退を要求し、大規模デモをおこなった。中共はダライ・ラマにデモ首謀者としてラサ政府ルカンワ首相らの罷免を要求した。この後チベット政府は無力化し、中共のチベット工作委員会が権力を掌握した。
一方中共は、1956年からラサ政府管轄外の四川・青海などで「民主改革」をはじめ、大寺院や領王から統治権を剥奪し、ときには投獄殺害に及んだ。農牧民はこれに激しく反発し、58年各地に大規模な叛乱が発生した。チベット人多数が殺され、チベット高原の寺院90%余が破壊された。当時の惨状は、叛乱の30年後の1987年、全国人民代表大会でのパンチェン・ラマ10世のつぎの発言に端的に示されている。
「ゴロク(果洛)では大勢の人が殺され、その死体は斜面から深い窪地に落された。解放軍兵士は遺族にむかって叛乱が一掃されたことを喜べといった。人々は死体の上で踊るよう強制され、しかもその後機銃の一斉射撃によって虐殺され、その場に埋められた」
「わたしは『七万言書』のなかでチベット人口の5%が投獄されたと指摘したが、当時私の情報では、全体の10から15%ものチベット人が殺されたのである。しかしそのとき、私は数字の余りの大きさにそれを公表する勇気が持てなかった。もし本当の数字を挙げれば、『人民裁判』で殺されただろう。これがチベットの偽らざる姿である」

58年後半から叛乱の生残りがラサへ逃げてきた。59年チベット正月の大祈祷会に参加しようという巡礼も各地から集まった。中共軍とチベット民衆との緊張が極度に高まった3月10日、ダライ・ラマが観劇のために軍駐屯地に招待されたというニュースが伝わった。ラサ民衆はダライ・ラマが拘束されるのを恐れ、ノルブリンカ宮殿を取り囲み、軍駐屯地に行かせまいとした。3月17日市内が騒然とするなか、ダライ・ラマとその取巻きは夜陰に紛れてラサを脱出した。
急ごしらえの逃避行は困難を極めたが、途中チベット軍350人と数十人のゲリラが合流した。主要通商路のシガツェ経由カーリンポンヘの道は中共軍が駐屯していた。そこでラサから南下し、ブータン東方の峠を越えてタワンに出たのである。

ダライ・ラマのインド国境までの逃避行には、アメリカCIAがかかわっていた。従来私はこれを見落としていたが、彼らを先導するチベット人兵士の中にCIAによって訓練された者がいた(『ダライ・ラマ自伝』)。一方中国には、ダライ・ラマ亡命は毛沢東がしむけけたもので、ラサから国境までのルートや偽装攻撃地点もこまかく指示したという神話がある(許家屯『香港回収工作』)。
古来チベットとインドとの交流は、現在思うより盛んだった。チベットの仏教も文字もインドから学んだものである。ダライ・ラマは、56年シャカ生誕2500年祭にインドを訪問した時ネルーと亡命を協議した経過があり、彼にはインドへの道しかなかった。
60年上半期までにダライ・ラマを追って10万余の難民がヒマラヤを越えた。インドは朝野を挙げてチベットに同情し亡命を受け入れた。
ダライ・ラマ脱出後チベット軍は中共軍とたたかったが、2日しかもたなかった。ゲリラは、1961年10月までには鎮圧された。逃げそびれた貴族と政府官僚と兵士は逮捕投獄され、20年後わずかの生き残りが釈放された。中国が投入した兵力は20万。2年間の戦死1551人、負傷1987人だった。

日本人のチベット認識
このようにしてラサ政府は滅びました。原因は、毛沢東がチベット領有の断固たる意志をもっていたのに対し、チベット社会上層は因習にこだわり統治能力を失い、無責任だったからです。しかしチベット民族はいまだ滅びず、ダライ・ラマはいまも民族を代表する存在でありつづけています。
私は、いまからほぼ60年前、東京の左翼学生の集会で指導者格の男が「ハンガリーでは反革命を事前に抑えきれず動乱になったが、中国ではチベットの貴族と反動派の叛乱を抑えるのに成功した」という演説をしたことをおぼえています。
これが長い間、左翼勢力のチベット認識でした。いまでもチベットや内モンゴル、東トルキスタンの歴史に関心をもちません。これが日本の左翼を民主主義者らしからぬ存在にしている悪しき習性ではないかと私は思うのです。
Comment
拙稿表題「ダライ・ラマ15世はなぜインドに行ったか」は、「ダライ・ラマ14世はなぜインドに行ったか」と訂正します。
「14世」とすべきものをうっかり「15世」としてしまいました。「15世」はまだこの世に存在していません。
阿部治平 (URL) 2018/05/21 Mon 10:20 [ Edit ]
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