2018.06.15   50年続いてきた反戦デモ
          エンプラ事件で始まった「19日佐世保市民の会」

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 未知の人から送られてきた本をめくっていて、目を見張った。市民によって始められた反戦平和を目指す月1回のデモ行進が休むことなく50年続き、600回を迎えたという記述があったからである。私は半世紀以上にわたって反戦平和運動を取材してきたが、50年も続いたデモなんて聞いたこともないから、驚いた。長崎県佐世保市でのことである。しかも、そのデモのスタートが私の取材上の体験と深く関わっていたから、一層、そのデモの「50年」に引きつけられた。

 私に送られてきた本は『うち、おい達の崎戸という時代』。写真・中西務、文・中西徹。浮遊社(大阪市)の発行である。
 本書によれば、かつて長崎県西彼杵郡崎戸町(現西海市崎戸)に三菱鉱業崎戸鉱業所という海底炭鉱があった。1907年(明治40年)に採掘が始まり、戦時下の1944年(昭和19,年)には炭鉱労働者が7487人(うち2623人は朝鮮人)を数えたが、国策により、1968年(昭和43年)に閉山した。
 本書は、崎戸町で生まれた中西徹さんが、崎戸炭鉱の歴史と、そこで働き、生活した人びとの歴史を、その時々の世界と日本での出来事とからめながら、たどったものである。父が炭鉱付属病院のレントゲン技師を務めていたことから、中西一家の歴史も書かれている。

 本書によれば、崎戸炭鉱の閉山は1968年3月26日。閉山により中西さん一家が崎戸町を去ったのは同年1月19日のことだったが、その直前に日本を震撼させた出来事があった。崎戸町から20数キロ離れた長崎県佐世保市で起きた「エンプラ事件」である。

 エンプラ事件とは、米国の原子力空母「エンタープライズ」(75,700トン)が、中西さん一家が郷里を離れた1月19日に佐世保に入港(原子力空母の日本寄港は初めて)したことから、社会党、共産党、労働組合、新左翼系学生らが「エンタープライズの日本寄港を認めることは、ベトナムに対する侵略を続ける米国への佐藤内閣の協力、加担がさらに強まったことを示すもの」として、全国動員でこの日を中心に佐世保市で抗議行動を展開。1月17日には新左翼系学生が米軍基地突入を図ったため、機動隊が制圧を開始、逮捕者29人、負傷者92人(内訳は学生67人、警官10人、鉄道公安職員8人、報道関係者4人、一般市民3人)を出した事件だ。
               50年続いてきた反戦デモ
             「エンプラ入港阻止」の学生たちを制圧する機動隊
              (1968年1月17日、佐世保市の市民病院わきで)

 報道関係者4人のうちの1人が、東京本社から佐世保に出張して抗議行動を取材中だった私で、しかも最も重いけがをしたのが私であった。新聞社の腕章をつけていたのに警棒で乱打され、頭、顔、手、足など7カ所に傷を負い、全治10日間。
 一般市民、報道関係者に負傷者が出たことから、「制圧は過剰警備だった」との批判が市民の間で高まり、木村俊夫内閣官房長官も記者会見で「学生、警官隊の双方にかなりの負傷者を出したが、報道人を含めた一般市民にけが人が出たことは非常に申し訳ない」と謝罪せざるを得なかった。

 『うち、おい達の崎戸という時代』も、このエンプラ事件に触れていたが、私が目を見張ったのは、そこに、私の手記が転載されていたからである。それは、私が週刊誌『朝日ジャーナル』1968年2月4日号の「特集・流血の佐世保」に自分の体験を書いた「警棒の下で感じたこと」の一部だった。おのれの手記を読みながら、私は50年前の経験を思い出し、しばし感慨にひたった。

 エンタープライズは1月23日、抗議の声を背に佐世保港を去ったが、エンプラ事件をきっかけに、新しい反戦市民運動が生まれた。
 エンプラ入港からちょうど1カ月後の2月19日、佐世保市内の中心部から出発した1つのデモ行進があった。主婦、教師、商店主、サラリーマンら約150人。先頭には「エンタープライズが佐世保を汚した日、一緒に歩きましょう」と書かれた幕が掲げられていた。佐世保ペンクラブ会長・矢動丸廣さんらの呼びかけで生まれた「19日佐世保市民の会」である。
 戦前は日本海軍、戦後は米海軍に経済的に依存するところが大きかった佐世保では、それまで市民による反戦平和の運動はほとんどみられなかった。が、エンプラ寄港をきっかけに、それが芽生えたのだった。 
 
 それから、50年。この間、「19日佐世保市民の会」のことを思い浮かべることはほとんどなかった。ところが、なんと『うち、おい達の崎戸という時代』に「19日佐世保市民の会」の誕生とその後の活動についての記述があったのだ。そこには、こうあった。「市中心部の松浦公園に夕方の六時までに参集し、アーケードを駅方向に歩く。今年(二〇一八)一月で通算六百回。自由参加」。私は思わず叫んでしまった。「19日佐世保市民の会のデモはまだ続いていたんだ」

 矢動丸廣さんはすでに故人、現在の連絡先は長女の宮野由美子さんとあったので、宮野さんに電話をかけ、「市民の会」の現状を聞いた。
 それによると、毎月19日のデモは1日も休まず続けられてきたという。宮野さんが最初のデモに加わったときは20歳の短大生。結婚で佐世保を離れた時期もあったが、1989年以降は一度も欠かさず参加してきたという。
 参加者は毎回、どこからともなく集まってきた15人から20人。50人くらいになった時もあったが、3人の時もあった。「米原潜が佐世保港で放射能漏れを起こしたり、米軍の輸送機オスプレイが佐世保に飛来したりすると、参加者が増えますね。最近は、内外の政治情勢に不安を感じている人が参加してくるようです。佐世保は、有事の際には前線基地になるところですから」。デモの距離は2キロ。ゆっくり歩いて30分。シュプレヒコールもなければ、マイクもない。ただ黙々と歩く。

 「なぜ、こんなに長く続いてきたと思いますか」との問いに、宮野さんはこう答えた。「佐世保でもいろいろな集会やデモがありますが、労組の呼びかけで行われる場合が多く、一般市民が意思表示できるところがない。それで、誰でも参加しやすい私たちのデモに加わってくるのではないでしょうか」

 日本人は熱しやすく冷めやすいといわれる。そんな風潮に抗するように続けられてきた19日佐世保市民の会のデモ。その類い希な持続する志は、多くの人びとを勇気づけてくれるのではないか。
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