2018.06.08  私立大学における体育会権力(その2)
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

混迷する対応
 日大アメフト事件をめぐる大学の対応は混迷の度を深めている。当然のことながら、当事者たちは問題の根源がどこにあるかを理解していない。体育会出身者たちのコメントも問題の核心を突いていない。なかには、「体育会活動は自主的活動だから、部のなかで解決すべき問題」と主張する者もいる。大方、理事長も学長も、一つの運動部にすぎないアメフト部の問題がなぜ大学全体の管理にかかわる問題にまで拡大しているのかを理解できないのだろう。だから、問題解決の抜本的な改革指針など出るはずもない。
 他方、日大の対応を批判する側も、問題の核心がどこにあるかを明確に指摘していない。なぜ理事長が責任を取る必要があるのか、理事長が謝り辞任すれば済む問題なのか、この問題を契機に何をどう改革すれば良いのか。これらのことについて、方向性が議論されず、当事者の対応を批判するだけに終わっている。
 問題の根源は体育会権力が大学全体の経営を左右するほどの力を持ってしまい、大学本来のあり方や理念から外れた大学経営が行われているところにある。そのことを明瞭に指摘し、その改革の手立てを示さない限り、アメフト事件に端を発した私立大学が抱える根本的な問題は解決しない。

体育推薦制度は営業活動
 体育推薦入学制度は新興私立大学が編み出した学生募集のための宣伝営業であり、体育会運動部はいわば私立大学の宣伝営業部の役割を担っている。学生の自主活動でも何でもない。スポーツを通して大学の名が全国に知られ、入学志願者が増え、入学者が確保できれば、大学経営の財政基盤を強めることができる。
 そこまでは良い。ところが、体育推薦制度のお陰で大学知名度が全国区になり、大学経営が安定すると、体育推薦の営業活動で成功した現場の監督や責任者が、大学経営に参画することになる。運動部の監督という実績だけで、教育活動に従事したこともない者が、大学経営の責任者になる。こうして、運動部出身者が大学経営そのものを支配することになれば、大学は教育・研究の場ではなく、スポーツを売り物に、学生を呼び込んで受験料や授業料で稼ぐビジネスに転化してしまう。入学志願者を増やし、入学者を確保するための体育推薦入学制度や体育会運動部という存在が、宣伝手段を超えて、大学の主要ビジネスに転化すると、体育会関係者が大手を振って大学を支配することになる。そして、このレベルに到達すると、政治家やいかがわしい人物が大学幹部と交遊を深め、学外の闇権力との繋がりが生まれる。
 こうなると、大学はもうその本来の理念を失い、たんなるブラックビジネスに転化してしまう。もちろん、理事会が体育会出身者によって占められても、それですぐに大学が本来の理念を失うわけではない。大学の教育や研究を行うのは教員(教授会)であり、理事会の意向とは無関係な一般学生たちがいる。しかし、理事会が強い大学では教授会の力は相対的に弱く、教育・研究以外の事項で発言する力や権限がない。大学によっては、教授会の権限そのものが最小限に抑えられ、教育や研究内容についても理事会が口出しできるところもある。

体育会運動部の闇
 私立大学の体育会運動部のすべてに同じ問題があるわけではない。個人種目が中心の運動部では推薦入学者の枠そのものが小さく、合宿所をもたないので、かなりの程度、自主的民主的に運営されている。これにたいして、集団スポーツの場合、推薦入学の枠も大きく、ほとんどのスポーツ強豪校は特定運動部の合宿所をもち、体育推薦入学者は否応なしに合宿所生活を強いられる。問題が発生するのは、大概、合宿所をもっている大所帯の運動部である。
 隔離された集団生活を支配するのは、例外なく、軍隊的な階級制度と規律である。とくに日本の場合、戦前から学校における体育は軍事教練を兼ねていたから、スポーツにおける封建的な支配・従属関係が現在に至るまで、体育会運動部に連綿と受け継がれている。
 確かに合宿所そのものは形式的に学生の自主運営だが、そこには古めかしい封建的な階級支配が厳然として存在する。炊事洗濯は一兵卒である新入生の仕事であり、最上級生はレギュラーであろうとなかろうと、「天皇」あるいは「大将」の位置を獲得する。2年生が下士官、3年生が将校である。こうやって、スポーツ競技とは無関係な、上級生-下級生の支配従属関係が支配する。
 他方、運動部における監督-コーチ-選手との間にも、同様の関係が構築される。日大アメフト部のように監督は天皇であり、直に口をきくことも許されない存在であることもある。先進国と言われる国の中で、現代になっても、このような封建的な支配関係が支配している国は日本だけだろう。アジア的な後進性の現象と言えるだろう。
 このように、私立大学の集団スポーツ競技の運動部は、大概、二重の支配従属関係が支配している。一つは合宿所内における先輩-後輩の支配従属関係、もう一つは運動部内の監督-コーチ-選手間の支配従属関係である。軍隊的な上下関係と、暴力団の親分-子分の関係は紙一重である。
 こういう封建的な支配関係が支配している競技は国際的なレベルに到達できないだろうし、親分-子分の関係で大学経営が支配されるなど、たまったものではない。ちなみに、職員の間で、体育会出身者の上級管理者のことを「先生」と呼ぶ習慣があることはあまり知られていない。このような歪んだ親分-子分関係に、教員にたいする対抗心や劣等感が反映されているとみることができる。

選手個人へのリスペクトに欠ける日本
 日本の体育会運動部に欠如しているのは、選手個人へのリスペクトの欠如である。スポーツ選手としての個人の能力を評価するのではなく、能力外の社会関係で選手個人を支配するのが合宿所生活である。これでは選手の能力を開花させることができない。
 この点はプロの集団スポーツでも、気になるところである。たとえば、プロ野球選手として入団してきた選手は若かろうが歳を取っていようが、自立した個人と扱うべきだが、一部の選手やコーチが居丈高に若い選手を指導する姿が見られる。春のキャンプで見られる「おい、こら」という調子の指導は、体育会の悪しき伝統を受け継いでいるのだろう。だが、選手個人へのリスペクトの欠如は、選手個人の自立した人間としての成長を妨げる。「おい、こら」指導に慣れてしまうと、何時まで経っても大人になれない。そういう大人が次世代の指導者になるのだから、封建的伝統が生き続ける。
 未成年の喫煙にたいしても、スポーツ選手としての心構えから説くのではなく、「未成年だから」というのでは説得力がない。ところが、プロ野球選手には喫煙者が多いから、そういう指導ができず、「未成年」という法律上の話で終わる。成年になれば、大手を振って喫煙して良いというものではないだろうに。

体育推薦制度と運動部運営の抜本的見直し
 体育推薦制度がどれほどの重みを持っているかは大学によって異なるが、共通しているのは、その運用において、教育に責任をもつ教授会が蚊帳の外に置かれているということだ。理事会はそれを当然のように考えており、教授会も「長いものには巻かれろ」で、そのことを特段に問題にすることもない。しかし、ここに体育推薦制度の基本的な問題がある。
 教授会は体育推薦枠の漸次的削減と推薦入学への教授会の関与を求めるべきである。教授会の関与がない所に不明瞭な力が加わり、それが体育会の独立権力化を助長する。必要に応じて、推薦入学者にたいして、社会的常識や基本的学力を問う試験なども実施すべきである。体育推薦制度を大学教育から隔離された租界にしてはならない。

 運動部の運営は、少なくとも以下の諸点で改革が必要である。
 一つは、推薦枠の最小限化と推薦の透明化である。レギュラー人数の何倍もの推薦枠は無駄である。
 二つは、固定した合宿所の廃止である。軍隊的規律が支配するような合宿生活は部の発展によっても選手個人の能力向上にとっても、良いことは全くない。
 三つは、運動部指導者の使命と指導について、明瞭な指針を立てることである。支配-従属型の指導を排除し、また特定の運動部の監督が大学の経営に従事することも禁止すべきだろう。

 体育推薦制度が蔓延したことによって、一部の大学では大学本来の道から外れ、体育推薦制度がブラックビジネスに転化している。社会はこれを厳しく批判しなければならない。私立大学における体育推薦制度や運動部のあり方について、抜本的な改革を進めなければ、日大アメフト事件が提起している問題の解決にはならないだろう。
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