2018.10.11
柳条湖事件記念日に思ったこと
――八ヶ岳山麓から(267)――
今年9月18日の柳条湖事件(「九一八」)記念日は、日本ではどこにも記念行事はないけれども、中国でもあまり盛大ではなかったらしい。瀋陽市の「九一八歴史博物館」で約1000人が参列して記念式典が開かれたが、最高指導部は出席しなかった。現在日中関係の改善基調が続いており、習近平指導部は対日批判を抑制したとみられるという(時事2018・09・18)。
今年中国の記念行事が抑制的であったとしても、わたしは9月18日をむかえると、何かをいわずにはいられない気持になる。
いまから87年前の1931年9月18日、日本関東軍は中国遼寧省奉天(現瀋陽)近郊の柳条湖付近の満州鉄道を爆破し、これを中国軍によるものとして、ただちに満洲(遼寧・吉林・黒竜江の「東三省」)領有をめざす軍事行動を起した。満洲事変である。謀略の首謀者は板垣征四郎、石原莞爾ら関東軍高級参謀である。
満洲防衛の中国側責任者は、国民政府東北辺防軍司令の地位にあった張学良(1901~2001)である。彼はいったんは抗日を主張し、不満を持ちながら国民党蒋介石の「まず中国共産党を殲滅してのち日本と戦う(先安内後攘外)」という方針に従って東北軍を西に退かせた。
その後のことは去年「八ヶ岳山麓から(236)」に書いたのでくりかえさない。
馬占山(1883~1950)という土匪上がりの軍事指導者がいた。彼は張学良と違い、蒋介石に従わなかった。馬は吉林省懐徳県の貧農の子であった。少年時代に家出し土匪の群れに入ったが、その利発さからたちまち小集団の指揮者となった。
辛亥革命後治安が混乱するなか、自衛武装組織が満洲各地に生まれた。彼らは一種の任侠集団であり、守備範囲の郷村ではその務めを果たすが、外に出るとしばしば略奪、誘拐にはしった。これを中国では「土匪」というが、日本では匪賊とか馬賊という。区別はし難い。
日露戦争(1904~05)後、懐徳県の彼の馬賊集団は清朝に帰順した。彼は他の「土匪」討伐に功があって清朝正規軍の指揮官(少尉)となった。辛亥革命後は大小の武装集団を吸収して自軍に加え、戦功によって順調に出世し、26年には騎兵第17師団長、翌年には騎兵第2軍団長に昇進した。
1928年張学良の父張作霖が関東軍に列車を爆破されて死んだとき、彼の上官呉俊陞も犠牲となった。彼は号泣して親切だった上官の死を悼んだ。張作霖の地位を継いだ張学良によって、彼は黒竜江沿岸の黒河備司令官に任命された。対岸はブラゴベシチェンスクである。
1931年日本関東軍は、柳条湖事件発生とともに迅速に遼寧・吉林両省を制圧したが、黒竜江省攻略はソ連と国境を接するため慎重になった。さいわい洮遼鎮守使張海鵬が日本側についたので、彼の部隊武器を援助して軍事行動を起させた。
九一八以降、張学良は北京で情勢を観望していた。だが馬占山は黒竜江省軍総司令官に任命されるや、黒河から南下し、10月19日省都チチハルに到着した。張学良の東北軍がほとんど無抵抗で退却して、中国人を落胆させたのに対し、馬占山はチチハル防衛、抗日の旗幟を鮮明にした。
10月26日張海鵬の3個連隊が戦略拠点の嫩江(どんこう)鉄橋対岸に近づいたとき、これに砲撃を加えて満州事変最大の戦い「江橋抗戦」を開始した。馬軍はこの戦いに勝利して、抗日を望んだ中国人の熱い期待に応えた。
しかし関東軍が本格的に参戦すると、武器などの補給が得られないなか、馬軍はじょじょに敗北をかさね、残存部隊2万は海倫に後退した。関東軍は匪賊上がりの張景恵を傀儡の黒竜江省省長とし、馬占山にも帰順すれば高官として処遇すると誘ってきた。張景恵はのちに満洲国国務総理となった人物である。
1931年末馬軍が関東軍に包囲されるなか、翌年1月には錦州が陥落、満洲全体が日本の手に落ちた。馬占山は孤立し屈服を迫られた。そして彼は屈服した。32年2月にはチチハルで満洲国黒竜江省省長に就任して抗日を切望する中国軍民をいたく失望させた。
ところが彼は40日足らずで、再び抗日の道に還ったのである。なぜか明確な理由はわからない。日本の傀儡となった満洲国高官らの醜態、日本人の傲慢さに嫌気がさしたともいうし、息子の父の変節を咎める手紙がきっかけともいわれる。
32年4月彼はひそかにチチハルを脱出して黒河にもどり、各地の義勇軍、救国軍、「大刀会」といわれる集団、つまり馬賊・土匪の類もふくめた愛国勢力を結集して抗日連軍を作り、5月には再び抗日に決起した。
馬軍は、一時はハルビン郊外に迫る勢いだったが、7月関東軍との3昼夜にわたる激戦ののち敗走した。このとき関東軍は馬軍指揮官韓家麟が戦死したのを馬占山と誤認し、これを昭和天皇に上奏した。
馬軍兵士らはすでに疲労困憊していた。やむをえず1932年12月彼らは黒竜江を渡りシベリアに入った。部隊の一部は新疆へ行ったが、馬占山はその後ヨーロッパ、シンガポールを経由して33年6月上海に上陸した。馬占山生還のニュースは日本軍を驚かせ当惑させ、中国人を喜ばせた。
35年12月には学生の「一二九抗日救亡運動」が起きた。蒋介石が日本の侵略に妥協するたびに中国では反対運動が起きてきたが、これはそのひとつである。
36年馬占山は西安にゆき、張学良、楊虎城に歓迎された。だが彼ら二人はその2日後の12月12日蒋介石を軟禁し、敗北主義を捨て抗日に立上るよう要求した。いわゆる西安事件である。
1937年7月7日盧溝橋事件が起きた。戦火は中国本土に拡大した。馬占山は東北挺進軍司令官となり、8月山西省大同に司令部を置いたが、9月には大同が陥落した。彼が東北に帰ったのは、1945年に日本が無条件降伏をしてからのことであった。
48年彼は病のため北京に行った。国共内戦に中共が勝利すると、馬は人民解放軍の北京無血入城のために尽力し、1950年11月29日一生を終えた。
今日中国の近現代史では、光はおもに中共系の人物とその行動にあてられている。たとえば東北における抗日ゲリラの指導者、中共党員の楊靖宇(1905~1940)は、1940年2月関東軍に追い詰められて長白山(白頭山)中で戦死した。抗日英雄として彼を記念し吉林省には靖宇県がある。
だが国民党系の軍に属したものは抗日戦に参加しても、文化大革命期には迫害を受け、悪ければ殺された。文革終了以後、馬占山系の元抗日兵士らはどんな扱いを受けているだろうか。いまも日陰者だろうか。
10万の東北軍兵士は東三省から山西、陝西へ退いた。彼らは抗日を望んだが、蒋介石の「剿共(中共殲滅)」作戦に動員され、陝西省を中心に中国各地を転々とした。西安事件以後は張学良という指揮者を失い、国民党からは厄介者として分散され消滅した。中共支配下で、彼らもまた迫害されたのだろうか。
故郷をしのんで彼らが歌った歌はせつない。
わが故郷はスンガリー川(松花江)の彼方
はるかなる黒龍江のほとり
懐かしい小さな家
粟黍、大豆、高粱
……
父よ、母よ
幼い弟、妹よ
また会えるのはいつの日か
また小さな部屋で共に暮らせるのか
(J.バートラム『西安事件』太平出版社、1973年)
(2018・09・29記)
阿部治平 (もと高校教師)
今年9月18日の柳条湖事件(「九一八」)記念日は、日本ではどこにも記念行事はないけれども、中国でもあまり盛大ではなかったらしい。瀋陽市の「九一八歴史博物館」で約1000人が参列して記念式典が開かれたが、最高指導部は出席しなかった。現在日中関係の改善基調が続いており、習近平指導部は対日批判を抑制したとみられるという(時事2018・09・18)。
今年中国の記念行事が抑制的であったとしても、わたしは9月18日をむかえると、何かをいわずにはいられない気持になる。
いまから87年前の1931年9月18日、日本関東軍は中国遼寧省奉天(現瀋陽)近郊の柳条湖付近の満州鉄道を爆破し、これを中国軍によるものとして、ただちに満洲(遼寧・吉林・黒竜江の「東三省」)領有をめざす軍事行動を起した。満洲事変である。謀略の首謀者は板垣征四郎、石原莞爾ら関東軍高級参謀である。
満洲防衛の中国側責任者は、国民政府東北辺防軍司令の地位にあった張学良(1901~2001)である。彼はいったんは抗日を主張し、不満を持ちながら国民党蒋介石の「まず中国共産党を殲滅してのち日本と戦う(先安内後攘外)」という方針に従って東北軍を西に退かせた。
その後のことは去年「八ヶ岳山麓から(236)」に書いたのでくりかえさない。
馬占山(1883~1950)という土匪上がりの軍事指導者がいた。彼は張学良と違い、蒋介石に従わなかった。馬は吉林省懐徳県の貧農の子であった。少年時代に家出し土匪の群れに入ったが、その利発さからたちまち小集団の指揮者となった。
辛亥革命後治安が混乱するなか、自衛武装組織が満洲各地に生まれた。彼らは一種の任侠集団であり、守備範囲の郷村ではその務めを果たすが、外に出るとしばしば略奪、誘拐にはしった。これを中国では「土匪」というが、日本では匪賊とか馬賊という。区別はし難い。
日露戦争(1904~05)後、懐徳県の彼の馬賊集団は清朝に帰順した。彼は他の「土匪」討伐に功があって清朝正規軍の指揮官(少尉)となった。辛亥革命後は大小の武装集団を吸収して自軍に加え、戦功によって順調に出世し、26年には騎兵第17師団長、翌年には騎兵第2軍団長に昇進した。
1928年張学良の父張作霖が関東軍に列車を爆破されて死んだとき、彼の上官呉俊陞も犠牲となった。彼は号泣して親切だった上官の死を悼んだ。張作霖の地位を継いだ張学良によって、彼は黒竜江沿岸の黒河備司令官に任命された。対岸はブラゴベシチェンスクである。
1931年日本関東軍は、柳条湖事件発生とともに迅速に遼寧・吉林両省を制圧したが、黒竜江省攻略はソ連と国境を接するため慎重になった。さいわい洮遼鎮守使張海鵬が日本側についたので、彼の部隊武器を援助して軍事行動を起させた。
九一八以降、張学良は北京で情勢を観望していた。だが馬占山は黒竜江省軍総司令官に任命されるや、黒河から南下し、10月19日省都チチハルに到着した。張学良の東北軍がほとんど無抵抗で退却して、中国人を落胆させたのに対し、馬占山はチチハル防衛、抗日の旗幟を鮮明にした。
10月26日張海鵬の3個連隊が戦略拠点の嫩江(どんこう)鉄橋対岸に近づいたとき、これに砲撃を加えて満州事変最大の戦い「江橋抗戦」を開始した。馬軍はこの戦いに勝利して、抗日を望んだ中国人の熱い期待に応えた。
しかし関東軍が本格的に参戦すると、武器などの補給が得られないなか、馬軍はじょじょに敗北をかさね、残存部隊2万は海倫に後退した。関東軍は匪賊上がりの張景恵を傀儡の黒竜江省省長とし、馬占山にも帰順すれば高官として処遇すると誘ってきた。張景恵はのちに満洲国国務総理となった人物である。
1931年末馬軍が関東軍に包囲されるなか、翌年1月には錦州が陥落、満洲全体が日本の手に落ちた。馬占山は孤立し屈服を迫られた。そして彼は屈服した。32年2月にはチチハルで満洲国黒竜江省省長に就任して抗日を切望する中国軍民をいたく失望させた。
ところが彼は40日足らずで、再び抗日の道に還ったのである。なぜか明確な理由はわからない。日本の傀儡となった満洲国高官らの醜態、日本人の傲慢さに嫌気がさしたともいうし、息子の父の変節を咎める手紙がきっかけともいわれる。
32年4月彼はひそかにチチハルを脱出して黒河にもどり、各地の義勇軍、救国軍、「大刀会」といわれる集団、つまり馬賊・土匪の類もふくめた愛国勢力を結集して抗日連軍を作り、5月には再び抗日に決起した。
馬軍は、一時はハルビン郊外に迫る勢いだったが、7月関東軍との3昼夜にわたる激戦ののち敗走した。このとき関東軍は馬軍指揮官韓家麟が戦死したのを馬占山と誤認し、これを昭和天皇に上奏した。
馬軍兵士らはすでに疲労困憊していた。やむをえず1932年12月彼らは黒竜江を渡りシベリアに入った。部隊の一部は新疆へ行ったが、馬占山はその後ヨーロッパ、シンガポールを経由して33年6月上海に上陸した。馬占山生還のニュースは日本軍を驚かせ当惑させ、中国人を喜ばせた。
35年12月には学生の「一二九抗日救亡運動」が起きた。蒋介石が日本の侵略に妥協するたびに中国では反対運動が起きてきたが、これはそのひとつである。
36年馬占山は西安にゆき、張学良、楊虎城に歓迎された。だが彼ら二人はその2日後の12月12日蒋介石を軟禁し、敗北主義を捨て抗日に立上るよう要求した。いわゆる西安事件である。
1937年7月7日盧溝橋事件が起きた。戦火は中国本土に拡大した。馬占山は東北挺進軍司令官となり、8月山西省大同に司令部を置いたが、9月には大同が陥落した。彼が東北に帰ったのは、1945年に日本が無条件降伏をしてからのことであった。
48年彼は病のため北京に行った。国共内戦に中共が勝利すると、馬は人民解放軍の北京無血入城のために尽力し、1950年11月29日一生を終えた。
今日中国の近現代史では、光はおもに中共系の人物とその行動にあてられている。たとえば東北における抗日ゲリラの指導者、中共党員の楊靖宇(1905~1940)は、1940年2月関東軍に追い詰められて長白山(白頭山)中で戦死した。抗日英雄として彼を記念し吉林省には靖宇県がある。
だが国民党系の軍に属したものは抗日戦に参加しても、文化大革命期には迫害を受け、悪ければ殺された。文革終了以後、馬占山系の元抗日兵士らはどんな扱いを受けているだろうか。いまも日陰者だろうか。
10万の東北軍兵士は東三省から山西、陝西へ退いた。彼らは抗日を望んだが、蒋介石の「剿共(中共殲滅)」作戦に動員され、陝西省を中心に中国各地を転々とした。西安事件以後は張学良という指揮者を失い、国民党からは厄介者として分散され消滅した。中共支配下で、彼らもまた迫害されたのだろうか。
故郷をしのんで彼らが歌った歌はせつない。
わが故郷はスンガリー川(松花江)の彼方
はるかなる黒龍江のほとり
懐かしい小さな家
粟黍、大豆、高粱
……
父よ、母よ
幼い弟、妹よ
また会えるのはいつの日か
また小さな部屋で共に暮らせるのか
(J.バートラム『西安事件』太平出版社、1973年)
(2018・09・29記)
Comment
日本は、1904 年から1905 年、満洲本土を戦場とした日露戦争で勝利した後、その戦争でロシアから勝ち取った権益や特権は保持した
ものの、(それらの権益や特権に従属する)満洲の東三省は、その領土をロシアにもぎとられたその政府とは、いうまでもなく満洲王朝の政府で
ある。
共和国の中の皇帝
1908 年8月、光緒帝の弟である醇親王の子で、3歳にもならない溥儀が第12代皇帝として即位した。同年11月14日に光緒帝が
亡くなり、翌日、西太后も没した。死期を悟った西太后が、光緒帝を毒殺したという説もある。父親の醇親王が摂政となったが、無知無力
な人物であり、再び、政治的停滞の時代が続いた。
1911 年、辛亥革命が起こり、翌年、中華民国が成立して、孫文が臨時大統領に就任した。しかし、皇帝は一切の政治的権力は
剥奪されたものの、その地位は保全され、宮廷は維持された。少年皇帝はそのまま紫禁城での生活を続けたのである。
王政を倒し、国王を殺害したフランス革命やロシア革命と比べれば、奇妙な妥協に見えるが、それは漢民族の間でも共和国政府よりも
皇帝への忠誠心がはるかに高かった、という実態を踏まえたものだろう。
清朝は漢民族を異民族支配したが、それは圧政とはほど遠かった。宮廷の無気力と官吏の腐敗は甚だしかったが、過去3百年間に
渡って、民衆は自由に暮らしていた。西洋諸国や日本の外圧がなければ、革命などは必要なかったのである。アメリカ人学者
ウェルズ・ウィリアムズ博士は、著書『中国総論』の中で次のように述べている。
シナ人は個人的に不公平な課税に反抗したり、互いに結託して不当に厳しい役人を殺害、放逐したりするが、その一方で、彼らの皇帝への
計り知れない畏敬の念ほど、シナの政治で注目に値するものはない。
皇帝の家庭教師
しかし、共和制が始まっても、国内抗争は止まなかった。1913(大正2)年には第2革命が起こり、袁世凱が大総統となり、孫文は日本に
亡命した。1915 年には袁世凱は皇帝になろうとしたが、第3革命が勃発し、翌年死去。1917 年には帝政復古を図るクーデターが起こったが
失敗。軍閥間の抗争が激しくなった。
ジョンストンが少年皇帝の「帝師(皇帝の家庭教師)」となったのは1919 年だった。溥儀は13歳になっていた。この時点での大総統は、袁世凱の友人で、学者や官僚としての立派な経歴を持つ徐世昌だった。徐世昌は、共和制が失敗して民衆が旧体制を支持した場合には、溥儀を皇帝とする立憲君主制をとることを考えていた。そしてその際には、溥儀が立憲君主にふさわしい役割を演じられるよう教育したいと考え、英語と初等の西洋の学問の師としてジョンストンを招いたのである。
教え子の皇帝と私との関係は、当初から友好的で仲睦まじいものであったが、時が経つにつれ、ますますその関係も深まっていった。・・・陛下が最も興味を持ったのは、世界の時事問題(ヴェルサイユ条約前後のヨーロッパの出来事も含まれる)、地理と旅行、初歩的な物理科学(天文学も含む)、政治学、英国憲政史、そして自国シナの政治の舞台で日々繰り広げられる劇的な諸事件である。
私たちは、これといった手順を踏むわけでなく、このような話題についてシナ語で自由に話をする。したがって当然のこと、あれこれと話をしているうちに時間がとられ、英語の学習時間も削られることになる。紫禁城に閉じ込められた少年皇帝の目は、支那国内の動乱と世界の情勢に向けられていた。
満洲、蒙古の独立を望む声
この間にも、中国の国内情勢は混乱の度を増していった。一般大衆の意見はというと、当時のシナの多くの地域で人々が共和国に幻滅しきっていたことは間違いない。共和国はよいことを山ほど約束しておきながら、貧苦以外は、ほとんど何ももたらさなかったからだ。
ジョンストンはこう述べて、証拠の一つに支那で発行されている欧州人による新聞の次のような記事を紹介している。
増税したことと官吏が腐敗したことにより、国民は満洲朝廷の復帰を望むようになっている。満洲朝廷も悪かったけれども、共和国はその十倍も悪いと人々は思っている。満洲王朝を恋しがる声は人里離れた辺鄙なところで聞こえるだけでなく、他の地方でも満洲朝廷を未だに望んでいるのである。
満洲王朝を望む声は、当然ながら、満洲および蒙古では一層強かった。蒙古族は、満洲族がシナ本土を征服する際に協力し、その後、清国に属して、清朝皇帝に忠誠を誓ってきた。だから、漢民族が独立して共和国を作っても、それに従う理由はさらさらなかった。外蒙古はすでに1912 年、中華民国が成立した際に独立を宣言している。
同時に、日本の後ろ盾を得て、満洲を独立させようという動きも、ジョンストンの耳に届いていた。
同年(1919 年)の7月20日、私は個人的な情報筋から次のような報告を受けた。「張作霖は君主制を復古しようと企んでいるが、その意図は翌年の秋に奉天で若い皇帝を帝位につかせ、同時に日本の保護下で満洲を独立国として宣言することだ」というものだった。日露戦争でロシアを駆逐して、満洲を返してくれた日本の力を借りようという考えは、ごく自然なものだったのだろう。
招かれざる客
1924 年11月5日、大規模な内乱の中で、反乱軍の一部が紫禁城に乱入し、溥儀に3時間以内の退去を命じた。溥儀はごくわずかの身の
まわりの物をまとめ、父・醇親王の邸宅に身を寄せた。ここも反乱軍の監視下にあったため、ジョンストンは危険だと考えて、皇帝を連れだし、受け入れ先を捜した。
私はまず日本公使館に向かった。そうしたのは、すべての外国公使の中で、日本の公使だけが、皇帝を受け入れてくれるだけでなく、皇帝に実質的な保護を与えてくれることもでき、それも喜んでやってくれそうな(私はそう望むのだが)人物だったからだ。
ジョンストンは日本の芳沢公使に皇帝を保護して欲しいと懇願した。公使はしばらく考えてた後、その懇願を受け入れた。溥儀は数カ月間、日本公使館で保護された後、天津の日本租界に移り、同地で7年もの亡命生活を送った。この間、日本政府は溥儀を利用しようという素振りすら見せなかった。
それどころか、日本や、日本の租借地である満洲の関東洲に皇帝がいては、日本政府が「ひどく困惑する」ことになるという旨を、私を通して、間接的に皇帝に伝えたほどである。日本政府にとって、溥儀は招かれざる客であった。
龍は古き故郷に帰って来た
1930(昭和5)年、ジョンストンは溥儀と別れ、イギリスに戻った。翌1931 年9月、満洲事変が勃発。ちょうどその直前に、ジョンストンはイギリスの
外交関係の任務を得て、支那を再度、訪問し、天津で溥儀とも再会していた。11月13日、上海に戻ってみると、私的な電報で皇帝が天津を去り、満洲に向かったことを知った。
シナ人は、日本人が皇帝を誘拐し、その意思に反して連れ去ったように見せかけようと躍起になっていた。その誘拐説はヨーロッパ人の間でも広く流布していて、それを信じる者も大勢いた。だが、それは真っ赤な嘘である・・・皇帝が誘惑されて満洲に連れ去られる危険から逃れたいと思えば、とことこと自分の足で歩いて英国汽船に乗り込めばよいだけの話である。 1932 年、関東軍(大日本帝国陸軍)は満洲国を設立し、溥儀を「執政(最高行政官)」として招請した。皇帝が北へ向かうと、彼の乗った特別列車はあちこちの地点で停車し、地方官吏やその他の役人たちが主君のところへ来て敬意を表するのを許したのである。・・・龍は古き故郷に帰って来たのである。 その後、溥儀は満州国の皇帝となった。
ものの、(それらの権益や特権に従属する)満洲の東三省は、その領土をロシアにもぎとられたその政府とは、いうまでもなく満洲王朝の政府で
ある。
共和国の中の皇帝
1908 年8月、光緒帝の弟である醇親王の子で、3歳にもならない溥儀が第12代皇帝として即位した。同年11月14日に光緒帝が
亡くなり、翌日、西太后も没した。死期を悟った西太后が、光緒帝を毒殺したという説もある。父親の醇親王が摂政となったが、無知無力
な人物であり、再び、政治的停滞の時代が続いた。
1911 年、辛亥革命が起こり、翌年、中華民国が成立して、孫文が臨時大統領に就任した。しかし、皇帝は一切の政治的権力は
剥奪されたものの、その地位は保全され、宮廷は維持された。少年皇帝はそのまま紫禁城での生活を続けたのである。
王政を倒し、国王を殺害したフランス革命やロシア革命と比べれば、奇妙な妥協に見えるが、それは漢民族の間でも共和国政府よりも
皇帝への忠誠心がはるかに高かった、という実態を踏まえたものだろう。
清朝は漢民族を異民族支配したが、それは圧政とはほど遠かった。宮廷の無気力と官吏の腐敗は甚だしかったが、過去3百年間に
渡って、民衆は自由に暮らしていた。西洋諸国や日本の外圧がなければ、革命などは必要なかったのである。アメリカ人学者
ウェルズ・ウィリアムズ博士は、著書『中国総論』の中で次のように述べている。
シナ人は個人的に不公平な課税に反抗したり、互いに結託して不当に厳しい役人を殺害、放逐したりするが、その一方で、彼らの皇帝への
計り知れない畏敬の念ほど、シナの政治で注目に値するものはない。
皇帝の家庭教師
しかし、共和制が始まっても、国内抗争は止まなかった。1913(大正2)年には第2革命が起こり、袁世凱が大総統となり、孫文は日本に
亡命した。1915 年には袁世凱は皇帝になろうとしたが、第3革命が勃発し、翌年死去。1917 年には帝政復古を図るクーデターが起こったが
失敗。軍閥間の抗争が激しくなった。
ジョンストンが少年皇帝の「帝師(皇帝の家庭教師)」となったのは1919 年だった。溥儀は13歳になっていた。この時点での大総統は、袁世凱の友人で、学者や官僚としての立派な経歴を持つ徐世昌だった。徐世昌は、共和制が失敗して民衆が旧体制を支持した場合には、溥儀を皇帝とする立憲君主制をとることを考えていた。そしてその際には、溥儀が立憲君主にふさわしい役割を演じられるよう教育したいと考え、英語と初等の西洋の学問の師としてジョンストンを招いたのである。
教え子の皇帝と私との関係は、当初から友好的で仲睦まじいものであったが、時が経つにつれ、ますますその関係も深まっていった。・・・陛下が最も興味を持ったのは、世界の時事問題(ヴェルサイユ条約前後のヨーロッパの出来事も含まれる)、地理と旅行、初歩的な物理科学(天文学も含む)、政治学、英国憲政史、そして自国シナの政治の舞台で日々繰り広げられる劇的な諸事件である。
私たちは、これといった手順を踏むわけでなく、このような話題についてシナ語で自由に話をする。したがって当然のこと、あれこれと話をしているうちに時間がとられ、英語の学習時間も削られることになる。紫禁城に閉じ込められた少年皇帝の目は、支那国内の動乱と世界の情勢に向けられていた。
満洲、蒙古の独立を望む声
この間にも、中国の国内情勢は混乱の度を増していった。一般大衆の意見はというと、当時のシナの多くの地域で人々が共和国に幻滅しきっていたことは間違いない。共和国はよいことを山ほど約束しておきながら、貧苦以外は、ほとんど何ももたらさなかったからだ。
ジョンストンはこう述べて、証拠の一つに支那で発行されている欧州人による新聞の次のような記事を紹介している。
増税したことと官吏が腐敗したことにより、国民は満洲朝廷の復帰を望むようになっている。満洲朝廷も悪かったけれども、共和国はその十倍も悪いと人々は思っている。満洲王朝を恋しがる声は人里離れた辺鄙なところで聞こえるだけでなく、他の地方でも満洲朝廷を未だに望んでいるのである。
満洲王朝を望む声は、当然ながら、満洲および蒙古では一層強かった。蒙古族は、満洲族がシナ本土を征服する際に協力し、その後、清国に属して、清朝皇帝に忠誠を誓ってきた。だから、漢民族が独立して共和国を作っても、それに従う理由はさらさらなかった。外蒙古はすでに1912 年、中華民国が成立した際に独立を宣言している。
同時に、日本の後ろ盾を得て、満洲を独立させようという動きも、ジョンストンの耳に届いていた。
同年(1919 年)の7月20日、私は個人的な情報筋から次のような報告を受けた。「張作霖は君主制を復古しようと企んでいるが、その意図は翌年の秋に奉天で若い皇帝を帝位につかせ、同時に日本の保護下で満洲を独立国として宣言することだ」というものだった。日露戦争でロシアを駆逐して、満洲を返してくれた日本の力を借りようという考えは、ごく自然なものだったのだろう。
招かれざる客
1924 年11月5日、大規模な内乱の中で、反乱軍の一部が紫禁城に乱入し、溥儀に3時間以内の退去を命じた。溥儀はごくわずかの身の
まわりの物をまとめ、父・醇親王の邸宅に身を寄せた。ここも反乱軍の監視下にあったため、ジョンストンは危険だと考えて、皇帝を連れだし、受け入れ先を捜した。
私はまず日本公使館に向かった。そうしたのは、すべての外国公使の中で、日本の公使だけが、皇帝を受け入れてくれるだけでなく、皇帝に実質的な保護を与えてくれることもでき、それも喜んでやってくれそうな(私はそう望むのだが)人物だったからだ。
ジョンストンは日本の芳沢公使に皇帝を保護して欲しいと懇願した。公使はしばらく考えてた後、その懇願を受け入れた。溥儀は数カ月間、日本公使館で保護された後、天津の日本租界に移り、同地で7年もの亡命生活を送った。この間、日本政府は溥儀を利用しようという素振りすら見せなかった。
それどころか、日本や、日本の租借地である満洲の関東洲に皇帝がいては、日本政府が「ひどく困惑する」ことになるという旨を、私を通して、間接的に皇帝に伝えたほどである。日本政府にとって、溥儀は招かれざる客であった。
龍は古き故郷に帰って来た
1930(昭和5)年、ジョンストンは溥儀と別れ、イギリスに戻った。翌1931 年9月、満洲事変が勃発。ちょうどその直前に、ジョンストンはイギリスの
外交関係の任務を得て、支那を再度、訪問し、天津で溥儀とも再会していた。11月13日、上海に戻ってみると、私的な電報で皇帝が天津を去り、満洲に向かったことを知った。
シナ人は、日本人が皇帝を誘拐し、その意思に反して連れ去ったように見せかけようと躍起になっていた。その誘拐説はヨーロッパ人の間でも広く流布していて、それを信じる者も大勢いた。だが、それは真っ赤な嘘である・・・皇帝が誘惑されて満洲に連れ去られる危険から逃れたいと思えば、とことこと自分の足で歩いて英国汽船に乗り込めばよいだけの話である。 1932 年、関東軍(大日本帝国陸軍)は満洲国を設立し、溥儀を「執政(最高行政官)」として招請した。皇帝が北へ向かうと、彼の乗った特別列車はあちこちの地点で停車し、地方官吏やその他の役人たちが主君のところへ来て敬意を表するのを許したのである。・・・龍は古き故郷に帰って来たのである。 その後、溥儀は満州国の皇帝となった。
レジナルド ジョンストン (URL)
2018/10/11 Thu 08:56 [ Edit ]
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http://j.people.com.cn/94475/8311011.html
■人民日報『抗日戦争期の旧国民党兵士の福利厚生保障 民政部』
中国民生部はこのほど、全国人民代表大会代表の王敏剛氏が提案した抗日戦争(日本の呼称・日中戦争)期の旧兵士を対象とする優遇措置政策について、条件を満たす旧国民党兵士を、社会において様々な困難を抱える人々と同じように社会保障の対象に組み入れる旨を改めて言明した。対象者には老人ホームや福祉施設への優先入居などの優遇措置が適用される。民政部はまた、各地の党委員会および政府に対し、抗日戦争期の元国民党兵士を重要祝日の関連イベントに招待するよう求めた。
(引用終わり)
ですからねえ。
この記事が2004年ですから「1949年の新中国建国以降、(文革の混乱などがあったとは言え)長年、国民党軍兵士が好意的扱いを受けてなかったこと」は阿部氏が言うように事実なのでしょう。
しかし今が2016年ですから、もはや「日陰の身分ではない」でしょうね。
最近も
http://j.people.com.cn/n/2015/0831/c94474-8943797.html
■人民日報『共産党と国民党の元抗日兵士が初めて共に観閲を受ける』
9月3日の軍事パレードでは共産党と国民党の元抗日兵士が初めて共に観閲を受け、全民族抗日戦争の偉大な精神を体現する。
軍事パレードに参加する50個隊列(梯団)のうち、抗日戦争元同志は2個乗車隊列を組み、最初に登場する。大陸部から選ばれた健在の国共両党の元抗日兵士、共産党と国民党の抗日烈士の子孫、および抗日戦争の前線支援模範代表だ。国共両党の元兵士は共に乗車して観閲を受ける。
近年、抗日戦争の正面戦場(ボーガス注:日本ではあまり使わない言葉「正面戦場」だが文脈から見て、国民党と日本軍の戦いのことか?)の歴史的役割に対する評価が高まり、国は社会保障面で元国民党抗日戦争兵士への配慮を深めるとともに、中国各地で抗日戦争正面戦場記念館を建設し、国民党将兵を抗日戦争烈士リストに入れている。今年8月、国は条件を満たす元国民党抗日戦争兵士に1人当たり5000元の慰問金を給付した。
(引用終わり)
なんて記事があります。
「中国(中華人民共和国)が経済大国になりもはや台湾(中華民国)などある意味、政治的には恐れるに足りない存在になったという余裕」「毛沢東主席、劉少奇国家主席、周恩来首相、トウ小平国家中央軍事委員会主席など、革命第一世代がほとんど(いやすべてか?)死去し日中戦争が過去の歴史化したこと」や「民進党に比べ中国共産党に融和的な国民党を取り込む政治的な思惑」などはあるでしょう。
したがって単純な善意でもないでしょうが、評価されていいことかと思います。