2018.11.19 続・続からくにの記 (その3) 2018.10.23~10.30
韓国通信NO579              
    
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 翌朝、鄭周河(チョンジュハ)さんが迎えに来るまでの間、市内の井邑詞 (チュンウブサ)公園にでかけた。
 井邑では全琫順と並び「有名」な婦人-「望夫像(マンプサン)」と「井邑詞」の歌碑が立つ。
 詩は行商に出かけた夫の安否を気遣い、長い年月待ち続けた妻の話。それが百済歌謡として口承され、李朝時代まで宮中の宴で舞とともに演奏されてきた。
 井邑市が発行する観光案内では、内蔵山を中心とする自然、東学農民戦争の戦跡と記念館、独立運動家の白貞義記念館とともにこの「井邑詞」公園が名所として紹介されている。(写真は高さ2.5mの石像 望夫像)
韓国通信679写真(1)

 隣接して美術館、芸術劇場もあり、市民たちの散策、憩いの場となっている。井邑を知ることのできる穏やかな公園だった。帰途立ち寄った農協経営の食品直売場では近郊の野菜や肉、魚介類が山と積まれ、新鮮さを競っていた。農協の直売システムのノウハウは日本の生協から学んだ。

<写真家 鄭周河さんのこと>
 鄭周河さんとは福島県白河にあるアウシュビッツ平和博物館で開催された鄭周河さんの写真展で知り合った。2011年の原発事故発生直後から南相馬で写真を撮り続けた韓国人写真家である。
 津波と放射能の汚染で荒廃した村の人と自然を写した多くの作品を発表し、「喪失感」と「悲しみ」をたたえた作品は言葉を越えて多くの日本人に感銘を与えた。
 彼は報道写真家ではない。写実性にこだわりながら、人間の「生」について思索を続ける写真家である。写実的だが、ファインダーを覗く目には自然と相いれない原発に代表される「科学」に対する強い不信の思いがある。それでいて作品から溢れんばかりの愛と美しさに胸打たれる。
 写真は韓国の国立現代美術館に所蔵されている彼の代表作「不安 火の中へ」という作品(2008)である。
 平和な海岸の風景。無邪気に水と戯れる若者たちの姿の後景に見える霊光 (ヨングァン)の原発。日常が不安と背中合わせにあることを直感的に示唆した作品だ。その予感は3年後に福島で現実となった。
 彼は南相馬の村を写真に収めながら、あまりにも美しい風景に「涙が止まらなかった」と語っている。放射能で汚され、奪われた南相馬の地に「春は来るのだろうか」と問うた。それは祖国を奪われた悲しみをうたった詩人、李相和の思いと重なる。「奪われた野にも春は来るのか」。
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 彼と東学農民戦争の話をする機会があった。意気投合して一緒に旅行をしようという話になった。二年前のことである。残念ながら彼の仕事の都合(鄭周河さんは現職の大学教授でもある)で実現しなかった。今回、妻と全州近郊の完州の自宅に招待されることになった。
 「パンガプスムニダ!」(「ようこそ!」)
鄭さんの熱い言葉に迎えられ、早速彼の自動車の車中の人になった。60才に近い芸術大学教授がどんな色の車に乗ってくるのか私たちは賭けていた。衝撃的な真っ赤な車で来るとは想像もしなかったと言うと、少しテレくさそうな顔で、これは「妻の…」と口を濁した。
 全州市内の立派な食堂に案内された。韓国では経験したことのない個室に区切られた伝統料理店である。大衆料理店を愛好する私たちは戸惑った。
 「どんなに高くても支払いはこちらだ」と言ったら、「当然でしょ」と妻も頷く。見たことのない韓式創作料理の数々に「おいしい」と言う以外は、「これは何でしょうか」と質問するのが精一杯だった。
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 日本に来た韓国の友人を招待した時、勘定をこちらが持つのは当然だが、韓国で食事をする時でも相手に負担をかけたくないという気持ちが先立つ。まして今回のように宿泊の招待まで受けているので昼の食事くらいは出すべきと思うのだが、頑として聞き入れてくれなかった。韓国に来たお客さんには一銭も払わせない。それが「韓国の鉄則」だとある別の友人に言われたことがある。今回もそれに従うしかなかった。
 面白いところに案内しましょう。行きたいところがあるわけではないので彼に従った。

<参禮(サムネ)の文化芸術村>
 田舎道を走り続け、何やらスピーカーの音がする賑やかな場所に降り立った。日本の植民地時代に米を集荷した倉庫を改装した「文化芸術村」だという。まず目に入ったのは中央広場で歌ったり踊ったりする若者たちと、夢中になって一緒に歌ったり体を揺さぶる若者たちの姿だった。中学生・高校生たちだ。ここの若者の底抜けの明るさと元気さに、日本の若者たちの最近の元気のなさが気になった。
 倉庫の外観も梁(はり)もそのままに残され、美術展示場、古書図書館、工房として活用されている。喫茶店も吹き抜けの大倉庫の一階にあるレトロでオシャレな空間だ。文化芸術村はその日は特別な日だったようで、「金魚すくい」「ペンダント作り」などのブースがたくさん立ち並び、多くの人たちで賑わっていた。
 「忘れたい過去の遺産をあえて文化芸術村として活用する意義は大きい」という私の感想に、鄭周河さんは静かに頷いた。 
 参禮は東学農民戦争で欠かすことのできない重要な場所として以前からマークしていたが、倉庫を活用した文化芸術村が東学の歴史公園だとは気づかなかった。私がガイドブック代りにしていた『東学農民戦争と日本』(中塚明他共著)に「参禮蜂起記念碑」と文化村への行き方が書き込まれていたのにすっかり忘れていた。
 全州が全羅地域統治の要所だったことから、第一次蜂起で東学農民は全州城を占拠、政府と「和約」を結んだ(1894年6月)。全州に近く、屈指の穀倉地帯だったため農民戦争の舞台となり、農民戦争が起きる2年前の1892年に、教祖崔済愚 (チェジェウ)の無罪と東学の公認を求める大集会が参禮で開かれ、第二次蜂起では全琫準が指揮する農民軍がソウルに向かう烽火を挙げた歴史的な場所として知られている。
 訪れてみたいと思っていた参禮に図らずも来ることが出来た。中塚明さんは「東学農民戦争の歴史を歩く」のなかで、この歴史公園について以下のように説明している。「いまこの広場は大人も子ども自由に集まって活動できる公園、そして体育館、ひろい運動場もあり、ただの歴史公園ではなく、日常に市民がさまざまに活用できる施設と一体になっています。東学農民革命をただ歴史の話にとどめるのではなく、市民の日常と結びついて生きている、そんな記念公園です」。
 続いて立ち寄った益山(イクサン)の弥勒寺跡では高麗開国1100年を記念した特別企画展が開催中だった。三国時代の百済に建立された弥勒寺は高麗時代に隆盛を極め、李朝時代に消滅した。鄭周河さんの少年時代の遊び場。会場には寺跡から発掘された青磁、装飾品などが展示され、仏教伝来以降の歴史をたどる。私たちは日本人の博物館スタッフから、鄭周河さんは韓国人のスタッフから説明を聞いた。
 帰路、鄭さんの百済芸術大学に立ち寄った。映像学科、演劇科、音楽科、美術科のある大学は小高い丘の上にあった。真っ赤なクルマは夕暮れの田舎道をさらに進んだ。
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