2018.12.01 続・続からくにの記 (その7) 2018.10.23~10.30
韓国通信NO583

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

ホテルに隣接する統営国際音楽ホールへ出かけた。尹伊桑の墓はすぐ見つかった。海を見下ろす丘の上、音楽ホールの横にあった。
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今日(10月28日)から尹伊桑国際コンクールが始まった。出場者名簿を見ると、演奏はチェロ独奏ばかりで14名。そのうち二人の演奏を聞くことができた。
国際音楽コンクールの会場入りは初体験。大ホールでまず目についたのは中央席にいる十数名の審査員たち。日本語が聞こえたので日本人審査員もいたのだろう。聴衆は私たちをいれて十名にもならない。
「ショパンコンクール」など有名なコンクールのイメージとは大違いだが、一次審査はどこもこんなものなのかも知れない。
今年のコンクールは、尹伊桑の遺骨の帰還にあわせチェロ部門だけ。来年はピアノ、バイオリン部門を加えた大掛かりなコンクールになるとのこと。
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コンクールには23ヵ国から74名が参加した。
課題曲はバッハの『プレリュードとサラバンド4BWV1010』、ヒンデミットの『チェロソナタOP NO3、尹伊桑の『チェロのためのグリセ』だった。
入場は無料。全ての演奏が終わるのは夜10時くらい。とても最後までつき合いきれず1時間ほど聴いて席を立った。<写真/上は尹伊桑のお墓、下は音楽ホール全景>

尹伊桑は統営の海についてこう語っている。
「私は父について美しい憶い出をもっています。父はしばしば夜に、私を魚釣りのために海上へ連れて行きました。その時、私たちは黙って舟の中に坐って、魚のはねる音や、ほかの漁師たちの歌声に耳を傾けました。その歌声は、舟から舟へと歌い継がれていきました。いわゆる『南道唱』(全羅南道の伝統的な歌)と呼ばれる沈鬱な歌で、水面がその響きを遠くまで伝えました」(『傷ついた龍』19p)

尹伊桑の少年時代の思い出とホテルのベランダから見える景色が重なる。暗い海と、空に浮かぶ月を、ナポリ民謡「サンタルチア」の歌と情景みたいだったと表現したら、陳腐な表現と笑われるだろうか。翌日、目を覚ますと海は朝日に輝いていた。
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二泊した後、荷物をまとめてホテルからバスターミナルへ、そこから釜山、ソウルへ向かう新たな一日が始まった。今回の旅はソウルを起点に、時計とは反対回り。今日は最後の移動、バスと新幹線(KTX)を乗り継ぐ6時間あまりの長旅である。
到着した釜山西部バスターミナルは当時とは見違えるほどビルが立ち並ぶ都会になっていた。地下鉄も通っていた。釜山駅は大改造中だった。韓国第二の都市の表玄関が近代的装いになることに驚くことはないが、初めて釜山を訪れ、スケッチした駅前広場は、まさに「まぼろし」となりつつあった。四半世紀という時の流れを実感した。

<銀行窓口の役付き社員はすべて女性>
両替のためにKBマークの国民銀行へ寄った。韓国でトップクラスの市中銀行の支店窓口の次長、課長、代理、係長がすべて女性だったのには驚いた。
30年前、この国民銀行の組合員を含む韓国金融労組の女性たちが、私のいた銀行の組合事務所にやって来て交流したことがある。男女同一賃金制度を実現させた運動の経験を聞きたいということだった。
1987年の「民主化宣言」以降、韓国の労働運動が高揚した時期である。その後の韓国の女性労働運動についてはほとんど知らないが、突然目の前に現れた女性役付き社員の出現で、あの時に交流した女性たちを思いだした。
組合事務所を訪れた彼女たちは、「表敬訪問」と称し、わが銀行の役員室を訪れ、女性と第一組合員への差別をするなと、申し入れまでした。「アッパレ」な韓国の女性労働者たちであった。

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