2008.09.01
作家夫婦が共に歩んだ50年の歳月こそ旅だった
〔書評〕津村節子著『ふたり旅』(岩波書店、¥1995)
本書は、2年前の平成18年7月31日に逝去した作家・吉村昭の夫人で、本人も作家である津村節子の自叙伝である、津村自身は次のように書いている。
「ふたり旅」という表題は、この集の刊行にあたってつけられたもので、実は『津村節子自選作品集」(岩波書店、平成十七年一月刊行開始)の巻末に掲載した“私の文学的歩み”の後を書きついで纏めたものである。
津村節子は昭和3年(1928)6月5日、3人姉妹の次女として福井県に生まれた。昭和28年(1953)11月、学習院大学の文芸部で知り合った吉村昭と結婚。吉村26歳、節子25歳であった。吉村の半自叙伝ともいうべき『私の文学漂流』(新潮社 1992年刊)には、吉村のプロポーズに対して、節子は「結婚しても小説は書き続けるが、それでもよいか」と応え、それを認めたうえでの結婚であったと記されている。
夫・吉村は芥川賞に4回ノミネートされたものの全て落選し、妻・節子は直木賞候補に3回もなってから芥川賞を受賞している。『私の文学漂流』には、「芥川賞候補に四回なっただけで、受賞できない無名作家です。もう、女房は芥川受賞していましたがね」と無名であるということを自嘲気味に語る吉村の姿が生々しく描かれているが、妻・節子による本書には、節子が昭和40年(1965)に『玩具』で第53回芥川賞を受賞したときに、「わたしの肩を叩いてこれからおまえのヒモになる、と言った」とある。なまなましい夫婦の葛藤のはじまりであった。
雨宮由希夫 (書評家)
本書は、2年前の平成18年7月31日に逝去した作家・吉村昭の夫人で、本人も作家である津村節子の自叙伝である、津村自身は次のように書いている。
「ふたり旅」という表題は、この集の刊行にあたってつけられたもので、実は『津村節子自選作品集」(岩波書店、平成十七年一月刊行開始)の巻末に掲載した“私の文学的歩み”の後を書きついで纏めたものである。
津村節子は昭和3年(1928)6月5日、3人姉妹の次女として福井県に生まれた。昭和28年(1953)11月、学習院大学の文芸部で知り合った吉村昭と結婚。吉村26歳、節子25歳であった。吉村の半自叙伝ともいうべき『私の文学漂流』(新潮社 1992年刊)には、吉村のプロポーズに対して、節子は「結婚しても小説は書き続けるが、それでもよいか」と応え、それを認めたうえでの結婚であったと記されている。
夫・吉村は芥川賞に4回ノミネートされたものの全て落選し、妻・節子は直木賞候補に3回もなってから芥川賞を受賞している。『私の文学漂流』には、「芥川賞候補に四回なっただけで、受賞できない無名作家です。もう、女房は芥川受賞していましたがね」と無名であるということを自嘲気味に語る吉村の姿が生々しく描かれているが、妻・節子による本書には、節子が昭和40年(1965)に『玩具』で第53回芥川賞を受賞したときに、「わたしの肩を叩いてこれからおまえのヒモになる、と言った」とある。なまなましい夫婦の葛藤のはじまりであった。
節子は、「茜色の戦記」(平成4年)、「星祭りの町」(平成7年)、「瑠璃色の石」(平成11年)を「青春の3部作」と呼んでいる。いずれも戦中戦後を書いた作品で「殆どフィクションはない私の体験」であるという。「戦時下の女学生時代」であった文字通りの青春時代から、吉村と結婚し、吉村が芥川賞の候補に、節子が直木賞候補になって落選を繰り返し希望と挫折に揺り動かされた時代、2人にとっての30代までを、「青春」と位置づけていることに読者は目を瞠(みは)るべきであろう。
また、評者(わたし)には、節子の父と母を記した箇所がとりわけ印象深かった。
父は福井で、戦前の日本工業の花形である繊維産業を生業とし、一家は裕福な生活を送ったが、節子は九歳で母を失い、16歳で父を亡くしている。なお吉村も同様、早くに両親と死別している。吉村夫妻はこういうところも良く似た夫婦であった。
「母が蚊帳の中に蛍を放す。電気を消すと、緑色の麻の蚊帳のあちこちで息づくように小さな灯が点滅するのを見ながら眠りに誘われた」といった一文を読むと、なつかしい昭和初期の日本の風景が蘇ってくる。
母を失った父は再婚せず、独り身を通したが、ある日、娘・節子は自分たちの知る父とはあまりにも違う一面を知り、父に女がいたことを直感するくだりが興味深い。父の晩年に女がいたことを娘は孤独な父のために良かったとむしろ安堵しているのである。
作家は17歳で敗戦を迎えたわけだが、「戦中」「戦後」といった、使い方次第ではある意味、陳腐な用語が、節子が「青春」を過ごした時代の背景を映し出す歴史用語として記されると赤裸々な言葉となって蘇るのは、さすがに文学者の表現である。
本書の表題『ふたり旅』は、吉村が最晩年となった平成18年に岩波の『図書』に連載した絶筆「一人旅」をまとめるに際し、節子がそのエッセイ集の表題を『ひとり旅』として刊行したことを踏まえてものである。本書の「あとがき」で節子は書いている。
吉村は仕事以外には殆ど旅をしなかった。観光などしても小説を書くためには何の足しにもならない,と言い,私が夫婦で旅行をしたければ,吉村の仕事の折について行くしかなかった。目的地に着けば吉村だけ取材先や講演に行き,私はその間観たいところを廻っていて,夜ホテルで落ち合い,食事に行く。
夫・吉村にとっての旅とは、あくまでも現地に1人で赴き,徹底的に独自な調査をする仕事以外の何物でもなかったが、妻・節子にとっての旅とは、夫とふたりで共に歩いた50年の歳月こそが旅そのものであった。
昭和28年、結婚後、夫とともに北海道・東北へ行商し、昭和29年の大晦日、上野駅の構内で年越しそばを食べた。
昭和30年の夏、「瀬戸内さん」(瀬戸内寂聴)が、とうもろこしの葉ずれのする六畳一間のアパートに訪ねてきた。あの頃は「ただ一つしかない食卓」を譲り合いながら夫婦がかわるがわる小説を書いていた。
夫婦がそれぞれ幾度も芥川賞や直木賞の候補に上りながら、受賞できなかった昭和30年代。幼子を抱えた家庭には殺伐とした空気が流れ、生活は窮乏していた。この時代こそがふたりにとって最も厳しい冬の時代であったといえるだろう。
春の来ない冬はない。昭和41年6月、夫・吉村が太宰治賞を受賞したのである。「かれはもはや、私のヒモどころではなくなっていた。自転車に乗って懸命のペダルを踏んでいる私の脇を、蒸気をあげて邁進する機関車のような勢いで走り抜けていくのを、私は呆然と見ていた」とのくだりを読み、評者(わたし)は目頭を押さえずにはいられない。
平成17年1月なかばごろ、吉村が舌の奥が痛いという。しかし、この時、節子は魔の影が近づいていたことを知らない。両親兄弟がみな癌で死亡しているので吉村は毎年精密な健康診断を欠かさず、「異常なし」と言われた夜飲む酒は、殊更うまい、と言っていたという家族のみが知る秘話も披露されている。
夫との五十年の歳月を“ふたり旅”と言うならば,思い出はみな遠く去ってしまい,胸にあるのはかれが病いに侵されてからのことのみであった。しかし,「ふたり旅」を書きながら,楽しいことも,嬉しいこともあったのだなあという感慨を抱いた。(本書「あとがき」より)
巻末には、「夫婦対談――津村節子・吉村昭」が付されている。「対談・心ひかれる北国の風景」と題され、『旅』の昭和45年7月号に掲載されたもので、夫婦のなまめかしいほどに息のあった応答がうらやましい。必見である。
また、評者(わたし)には、節子の父と母を記した箇所がとりわけ印象深かった。
父は福井で、戦前の日本工業の花形である繊維産業を生業とし、一家は裕福な生活を送ったが、節子は九歳で母を失い、16歳で父を亡くしている。なお吉村も同様、早くに両親と死別している。吉村夫妻はこういうところも良く似た夫婦であった。
「母が蚊帳の中に蛍を放す。電気を消すと、緑色の麻の蚊帳のあちこちで息づくように小さな灯が点滅するのを見ながら眠りに誘われた」といった一文を読むと、なつかしい昭和初期の日本の風景が蘇ってくる。
母を失った父は再婚せず、独り身を通したが、ある日、娘・節子は自分たちの知る父とはあまりにも違う一面を知り、父に女がいたことを直感するくだりが興味深い。父の晩年に女がいたことを娘は孤独な父のために良かったとむしろ安堵しているのである。
作家は17歳で敗戦を迎えたわけだが、「戦中」「戦後」といった、使い方次第ではある意味、陳腐な用語が、節子が「青春」を過ごした時代の背景を映し出す歴史用語として記されると赤裸々な言葉となって蘇るのは、さすがに文学者の表現である。
本書の表題『ふたり旅』は、吉村が最晩年となった平成18年に岩波の『図書』に連載した絶筆「一人旅」をまとめるに際し、節子がそのエッセイ集の表題を『ひとり旅』として刊行したことを踏まえてものである。本書の「あとがき」で節子は書いている。
吉村は仕事以外には殆ど旅をしなかった。観光などしても小説を書くためには何の足しにもならない,と言い,私が夫婦で旅行をしたければ,吉村の仕事の折について行くしかなかった。目的地に着けば吉村だけ取材先や講演に行き,私はその間観たいところを廻っていて,夜ホテルで落ち合い,食事に行く。
夫・吉村にとっての旅とは、あくまでも現地に1人で赴き,徹底的に独自な調査をする仕事以外の何物でもなかったが、妻・節子にとっての旅とは、夫とふたりで共に歩いた50年の歳月こそが旅そのものであった。
昭和28年、結婚後、夫とともに北海道・東北へ行商し、昭和29年の大晦日、上野駅の構内で年越しそばを食べた。
昭和30年の夏、「瀬戸内さん」(瀬戸内寂聴)が、とうもろこしの葉ずれのする六畳一間のアパートに訪ねてきた。あの頃は「ただ一つしかない食卓」を譲り合いながら夫婦がかわるがわる小説を書いていた。
夫婦がそれぞれ幾度も芥川賞や直木賞の候補に上りながら、受賞できなかった昭和30年代。幼子を抱えた家庭には殺伐とした空気が流れ、生活は窮乏していた。この時代こそがふたりにとって最も厳しい冬の時代であったといえるだろう。
春の来ない冬はない。昭和41年6月、夫・吉村が太宰治賞を受賞したのである。「かれはもはや、私のヒモどころではなくなっていた。自転車に乗って懸命のペダルを踏んでいる私の脇を、蒸気をあげて邁進する機関車のような勢いで走り抜けていくのを、私は呆然と見ていた」とのくだりを読み、評者(わたし)は目頭を押さえずにはいられない。
平成17年1月なかばごろ、吉村が舌の奥が痛いという。しかし、この時、節子は魔の影が近づいていたことを知らない。両親兄弟がみな癌で死亡しているので吉村は毎年精密な健康診断を欠かさず、「異常なし」と言われた夜飲む酒は、殊更うまい、と言っていたという家族のみが知る秘話も披露されている。
夫との五十年の歳月を“ふたり旅”と言うならば,思い出はみな遠く去ってしまい,胸にあるのはかれが病いに侵されてからのことのみであった。しかし,「ふたり旅」を書きながら,楽しいことも,嬉しいこともあったのだなあという感慨を抱いた。(本書「あとがき」より)
巻末には、「夫婦対談――津村節子・吉村昭」が付されている。「対談・心ひかれる北国の風景」と題され、『旅』の昭和45年7月号に掲載されたもので、夫婦のなまめかしいほどに息のあった応答がうらやましい。必見である。
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