2008.09.04
現代語訳の「後ろめたさ」と「辛さ」
〔書評〕吉村昭著『吉村昭の平家物語』(講談社、¥781)
すでにたヽんとし給へば、袖にすが(ッ)て、「都には父もなし、母もなし。捨られまいらせて後、又誰にかはみゆべきに、いかならん人にも見えよな(ン)ど承はるこそうらめしけれ。前世の契ありければ、人こそ憐み給ふ共、又人ごとにしもや情をかくべき。いづくまでもともなひ奉り、同じ野原の露ともきえ、ひとつ底のみくづともならんとこそ契しに、さればさ夜のね覚のむつごとは、皆偽になりにけり。せめては身ひとつならばいかヾせん、すてられ奉る身のうさをおもひ知(ッ)てもとヾまりなん、おさなき者共をば、誰に見ゆづり、いかにせよとかおぼしめす。うらめしうもとヾめ給ふ物哉」と、且(かつ)はうらみ且はしたひ給ふ。
『平家物語』巻第七「維盛都落」の一節である。これを『吉村昭の平家物語』は、次のように訳している。
維盛が立ちあがろうとすると、妻は、かれの袖にとりすがった。
「あなたに置きざりにされたのち、だれとも再婚する気持ちなどありません。これと思う人と再婚せよなどとは、あまりにも冷たいおことば。いつもいっしょにいて、おなじ野原で命をすて、おなじ水底で溺れ死のうと約束しましたのに、それでは夜の寝覚めにかわしたことばは、みなうそになります。わたしひとりならば、見すてられた悲しみこらえて都にとどまることもできますが、幼い子どもたちをだれにまかせ、どうしろといわれるのです。ついてくるなとは、ほんとうにうらめしい。」
雨宮由希夫 (書評家)
すでにたヽんとし給へば、袖にすが(ッ)て、「都には父もなし、母もなし。捨られまいらせて後、又誰にかはみゆべきに、いかならん人にも見えよな(ン)ど承はるこそうらめしけれ。前世の契ありければ、人こそ憐み給ふ共、又人ごとにしもや情をかくべき。いづくまでもともなひ奉り、同じ野原の露ともきえ、ひとつ底のみくづともならんとこそ契しに、さればさ夜のね覚のむつごとは、皆偽になりにけり。せめては身ひとつならばいかヾせん、すてられ奉る身のうさをおもひ知(ッ)てもとヾまりなん、おさなき者共をば、誰に見ゆづり、いかにせよとかおぼしめす。うらめしうもとヾめ給ふ物哉」と、且(かつ)はうらみ且はしたひ給ふ。
『平家物語』巻第七「維盛都落」の一節である。これを『吉村昭の平家物語』は、次のように訳している。
維盛が立ちあがろうとすると、妻は、かれの袖にとりすがった。
「あなたに置きざりにされたのち、だれとも再婚する気持ちなどありません。これと思う人と再婚せよなどとは、あまりにも冷たいおことば。いつもいっしょにいて、おなじ野原で命をすて、おなじ水底で溺れ死のうと約束しましたのに、それでは夜の寝覚めにかわしたことばは、みなうそになります。わたしひとりならば、見すてられた悲しみこらえて都にとどまることもできますが、幼い子どもたちをだれにまかせ、どうしろといわれるのです。ついてくるなとは、ほんとうにうらめしい。」
本書『吉村昭の平家物語』は、1992年に講談社から書き下ろし刊行された『少年少女古典文学館 平家物語』を原本としている。
『少年少女古典文学館 平家物語(下巻)』に付された「あとがき」によると、『平家物語』を忠実に訳すと400字詰め原稿用紙で2、3千枚が必要であるという。編集部から吉村への注文は700枚以内ということであり、吉村はダイジェスト版になることを恐れた、という。
「あとがき」はさらに続く。
「『平家物語』らは、仏教を主とした宗教に関する記述が多く、ある部分では説教調になり、ある部分では長い説明となっている。これらの部分は煩雑なきらいがあり、しかも物語の本筋にさほど関係なく、むしろ物語の緊張をそいでいる傾きすらある」
「私が大胆にけずったのはそれらの部分で、初稿の筆をおいたとき、原稿用紙の枚数は八百枚強であった」。
冒頭に引用した「維盛都落」に立ちかえる。原文と吉村訳を読み比べれば、吉村が訳さなかったのは2箇所であることがわかる。〔1〕「都には父もなし、母もなし。」と〔2〕「前世の契ありければ、人こそ憐み給ふ共、又人ごとにしもや情をかくべき。」である。〔2〕の部分は吉村が大胆に削ったという「宗教に関する記述」にあたるが、〔1〕の「都には父もなし、母もなし。」をなぜ吉村は訳さなかったのだろう。「都には父もなし、母もなし。」には『平家物語』の全世界に関わる「あること」が秘められている。
維盛は重盛の嫡男で、平家の嫡流として生まれている。
栄華を極めた平家の滅びの前兆と言うべきは治承元年(1177)5月鹿谷(ししのたに)事件である。後白河法皇側近の藤原成親(なりちか)らが法皇臨席の宴会の下、公然と平家打倒を口走ったこの事件の深刻さは、事件の首謀者である成親が清盛の嫡男重盛の家(小松家)と深い姻戚関係にあったことであった。重盛の妻は成親の妹であり、維盛の妻は成親の娘であった。維盛夫妻は従兄妹同士で結婚したのである。
維盛の岳父・成親は重盛のとりなしで死罪を免じられるが流罪となったが、流刑地近くで斬殺されている。成親の妻の死は不明である。「都には父もなし、母もなし」の文脈から察するに、恐らく、鹿谷事件の後、成親の妻は夫の死を嘆き悲しんで、死去したのではなかろうか。
父・重盛の早世により、平家の家督は叔父宗盛へとうつるが、治承4年(1180)10月の富士川の合戦で、維盛はなお総大将として遇される。しかし、戦わずして大敗北を喫したとして、祖父清盛の怒りをかい、一門から嘲りを受け、浮いた存在となる。
寿永2年(1183)7月の平家都落ちに際し、維盛は相思相愛の妻および愛する2人の子供を都にとどめる。鹿谷事件の主犯藤原成親の娘を連れて、都落ちに同行することは一門内で孤立した維盛には決断できなかったのだろう。維盛の妻の「都には父もなし、母もなし」との悲痛な叫びにはじまる、夫婦と家族の絆を描いて人生の断面を垣間見せる鮮烈な情景はこうした歴史情況の中で映し出されたものである。
平家一門の栄華は、清盛の祖父・平正盛が白河院に密着して着実に勢力を伸ばし、藤原顕季(あきすえ)らと結んで、院近習の地位を築いたことにはじまる。忠盛は父の正盛に倣い、顕季の孫で鳥羽院第一の寵臣家成との結びつきを強めつつ、受領(ずりょう)の雄となる。家成の子が成親で、清盛は成親と姻戚関係を持つことにより祖父以来の提携を一層強固なものとした。こうしてみると、成親の家は清盛の平家に対して主人格の家柄であることがわかる。成親は、かつては自分の父・家成に仕えた平家の勢力が成親の家を上回り、主客転倒したことに我慢ができなくなり、鹿谷事件を引き起こしたのである。
維盛の嫡男は平家最期の嫡流として数奇な一生を送った六代(ろくだい)である。六代は成親の孫でもある。平家の興隆から滅亡まで、平家は成親の藤原家と密接な関係にあったといえる。『平家物語』の全世界に関わる「あること」とはこのことである。
本書は『平家物語』の現代語訳であり、吉村昭自身の創作ではない。初版の「あとがき」で、吉村は、「国文学者ではない、創作を常としてきた私固有の感情で、私には現代語訳は不向きであり、今回かぎりで二度と現代語訳をすることはしないつもりである」と述べている。しかし、読者としては、吉村の現代語訳と「古典平家」の原文を照らし合わせつつ、吉村の「後ろめたさ」と「辛さ」を感じながら読みすすめるという至福のひと時を過ごした。
『少年少女古典文学館 平家物語(下巻)』に付された「あとがき」によると、『平家物語』を忠実に訳すと400字詰め原稿用紙で2、3千枚が必要であるという。編集部から吉村への注文は700枚以内ということであり、吉村はダイジェスト版になることを恐れた、という。
「あとがき」はさらに続く。
「『平家物語』らは、仏教を主とした宗教に関する記述が多く、ある部分では説教調になり、ある部分では長い説明となっている。これらの部分は煩雑なきらいがあり、しかも物語の本筋にさほど関係なく、むしろ物語の緊張をそいでいる傾きすらある」
「私が大胆にけずったのはそれらの部分で、初稿の筆をおいたとき、原稿用紙の枚数は八百枚強であった」。
冒頭に引用した「維盛都落」に立ちかえる。原文と吉村訳を読み比べれば、吉村が訳さなかったのは2箇所であることがわかる。〔1〕「都には父もなし、母もなし。」と〔2〕「前世の契ありければ、人こそ憐み給ふ共、又人ごとにしもや情をかくべき。」である。〔2〕の部分は吉村が大胆に削ったという「宗教に関する記述」にあたるが、〔1〕の「都には父もなし、母もなし。」をなぜ吉村は訳さなかったのだろう。「都には父もなし、母もなし。」には『平家物語』の全世界に関わる「あること」が秘められている。
維盛は重盛の嫡男で、平家の嫡流として生まれている。
栄華を極めた平家の滅びの前兆と言うべきは治承元年(1177)5月鹿谷(ししのたに)事件である。後白河法皇側近の藤原成親(なりちか)らが法皇臨席の宴会の下、公然と平家打倒を口走ったこの事件の深刻さは、事件の首謀者である成親が清盛の嫡男重盛の家(小松家)と深い姻戚関係にあったことであった。重盛の妻は成親の妹であり、維盛の妻は成親の娘であった。維盛夫妻は従兄妹同士で結婚したのである。
維盛の岳父・成親は重盛のとりなしで死罪を免じられるが流罪となったが、流刑地近くで斬殺されている。成親の妻の死は不明である。「都には父もなし、母もなし」の文脈から察するに、恐らく、鹿谷事件の後、成親の妻は夫の死を嘆き悲しんで、死去したのではなかろうか。
父・重盛の早世により、平家の家督は叔父宗盛へとうつるが、治承4年(1180)10月の富士川の合戦で、維盛はなお総大将として遇される。しかし、戦わずして大敗北を喫したとして、祖父清盛の怒りをかい、一門から嘲りを受け、浮いた存在となる。
寿永2年(1183)7月の平家都落ちに際し、維盛は相思相愛の妻および愛する2人の子供を都にとどめる。鹿谷事件の主犯藤原成親の娘を連れて、都落ちに同行することは一門内で孤立した維盛には決断できなかったのだろう。維盛の妻の「都には父もなし、母もなし」との悲痛な叫びにはじまる、夫婦と家族の絆を描いて人生の断面を垣間見せる鮮烈な情景はこうした歴史情況の中で映し出されたものである。
平家一門の栄華は、清盛の祖父・平正盛が白河院に密着して着実に勢力を伸ばし、藤原顕季(あきすえ)らと結んで、院近習の地位を築いたことにはじまる。忠盛は父の正盛に倣い、顕季の孫で鳥羽院第一の寵臣家成との結びつきを強めつつ、受領(ずりょう)の雄となる。家成の子が成親で、清盛は成親と姻戚関係を持つことにより祖父以来の提携を一層強固なものとした。こうしてみると、成親の家は清盛の平家に対して主人格の家柄であることがわかる。成親は、かつては自分の父・家成に仕えた平家の勢力が成親の家を上回り、主客転倒したことに我慢ができなくなり、鹿谷事件を引き起こしたのである。
維盛の嫡男は平家最期の嫡流として数奇な一生を送った六代(ろくだい)である。六代は成親の孫でもある。平家の興隆から滅亡まで、平家は成親の藤原家と密接な関係にあったといえる。『平家物語』の全世界に関わる「あること」とはこのことである。
本書は『平家物語』の現代語訳であり、吉村昭自身の創作ではない。初版の「あとがき」で、吉村は、「国文学者ではない、創作を常としてきた私固有の感情で、私には現代語訳は不向きであり、今回かぎりで二度と現代語訳をすることはしないつもりである」と述べている。しかし、読者としては、吉村の現代語訳と「古典平家」の原文を照らし合わせつつ、吉村の「後ろめたさ」と「辛さ」を感じながら読みすすめるという至福のひと時を過ごした。
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