2019.04.05 私が会った忘れ得ぬ人々(七)
大岡信さん――出合い頭にヤッと切りつける呼吸

横田 喬 (作家)

 この四月五日は、詩人・評論家として数々の業績を残したこの人の三回忌に当たる。私は大岡さんから諸々の著作を通じ、「言葉とは何か」「人間とは何か」という根本的に大事な問いに対する貴重なヒントを一杯頂戴した。今から四半世紀余り前、『朝日新聞』記者だった私は「日本ペンクラブ」会長の彼にインタビューを試み、やりとりを交わしている。当時の記事から、その発言の骨子を紹介すると、

 「この十四、五年大病しなかったのは『折々のうた』(当時の『朝日新聞』朝刊に長期連載された人気コラム)を抱えていたから。根を詰めて二年もやるとガクンときて、少し休む。気が抜けるせいか、体がどこかギクシャクしてくる。その繰り返し。今はファクスがあるからいいけど、初めのころは外国に行く時なんか困った。書きだめしようとすると、どうしてもたるむ。百八十字のところを二百五十字も書いたり。短く歯切れよくやるには、出合い頭にヤッと切りつける呼吸。死ぬ気でやる位の覚悟でないと」

 「無謀なことを平気でやる性格なんです。三十二歳の時、何の見通しもないのに、自分の詩文の方が大事だからと、まる十年勤めた新聞社を突然辞めてしまった。幼子を二人抱えながら、家計への認識ゼロ。女房は『一緒になった時、無一文だったのだから、またそうなったと思えばいい』と、すごいことを言ってくれた。女房の着物を質に入れた金で地方から来た友人と飲んじゃったり、頭が上がりません」

 大岡さんは静岡県三島市に生まれ育った。富士山の湧き水が川になって市内を貫流し、その清冽な原風景に詩人の感性を触発される。「水が豊富できれいだったことは、僕にとって決定的でした」と言う。亡父は歌人で短歌雑誌を主宰しており、幼いころから文学的雰囲気に包まれて育ったことも幸いした。旧制沼津中~一高~東大国文科卒。読売新聞外報部記者を経て、明大教授~東京芸大教授を務める。『折々のうた』で菊池寛賞のほか、評論『蕩児の家系』が歴程賞、『紀貫之』で読売文学賞、詩集『故郷の水へのメッセージ』は花椿賞。‘九七年に文化功労者推戴、’〇三年に文化勲章受章。

 彼の手になる金字塔「折々のうた」は連載開始が一九七九(昭和五四)年一月で、打ち止めは二〇〇七年(平成十九)三月。休載期間を挟んで足掛け二十九年にわたり、掲載はなんと全六千七百六十二回を数える。私は社説は読まない日はあっても、一面下の「天声人語」と「折々のうた」は必ず目を通した。日々を生きていく上で、「うた」は何がしかの慰藉と時には有難い示唆をもたらすからだ。彼自身は、社告の「筆者のことば」でこう述べている。

 ――私たちは生活の中で、『これは!』と驚いたり心動かされるものに出会う。ささやかな『これは!』が人を生かす力にもなる。私はそれを古今の詩の中に求めてみたい。
 一九九〇年代に朝日新聞社を表敬訪問したニューヨーク・タイムズのトップは「恋の歌が新聞の一面に載るのは、世界でも朝日新聞だけ」と称賛している。

 大岡さん自身の詩人としての軌跡をざっと辿ると、東大国文科当時の作品「海と果実」は、
 ――砂浜にまどろむ春を掘りおこし/おまえはそれで髪を飾る おまえは笑う/波紋のように空に散る笑いの泡立ち/海は静かに草色の陽を温めている(第一連)――
 大胆で率直。それでいて、瑞々しく温和な響きが感じ取れる。

 ‘六八年刊行の『大岡信詩集』(思潮社)所収の詩「地名論」は、こうだ。
 ――水道管はうたえよ/御茶の水は流れて/鵠沼に溜り/荻窪に落ち/奥入瀬で輝け/サッポロ/バルパライソ/(中略)奇体にも懐かしい名前を持った/すべての土地の精霊よ/時間の列柱となって/おれを包んでくれ/(中略)名前は土地に/波動をあたえる/土地の名前はたぶん/光でできている/(中略)瀬田の唐橋/雪駄のからかさ/東京は/いつも曇り――
 機知に富む音とリズムが快く、微笑ませ、哄笑さえ誘う。が、思索的というのか、どこか考え込ませずにはおかない響きがある。

 ‘七〇年、俳人・詩人の安東次男や作家の丸谷才一らと「連句の会」を始める。連歌・連句の伝統に倣い、一つの詩を例えば五人の詩人が三~五行ずつ書き継ぎ、大きな一つの作品に仕上げていく試みだ。後には海外の作家や詩人らとも長期にわたって共同創作を試み、大岡は「共同でものを作れば作るほど、一人一人の個性が洗い出されてくる」と言っている。

 中年以降は散文詩も試みている。‘〇一年刊『世紀の変り目にしやがみこんで』(思潮社)所収の「雪童子」は四百字詰めで二十枚近い長行だ。調布にある自宅の仕事部屋の窓の向こうに植木林が広がる。植え替え時に空き地同然となった冬のある一日、「私はそこに面白いものを見てしまつた」。一面の白銀世界の中、五つ、六つ位の男の子が「プールのへりに立つた姿勢で、(中略)ザブーン、飛び込みをやつてのけたのである。/私は思はず声をあげて笑つてしまつた。」。男児はやがて雪原の上に寝そべり、空き地の一方の端から他方の端まで二、三十㍍の間をごろごろ、無我の境地で、余念なく転がり始める。「ああ、面白い見ものだつた。」/「『あんなふうにやれなきあ駄目だなあ』といふ思ひが油然と湧いた。」うんぬん。
 おしまいの締めが断然いい。平凡な大人はとかく「無我の境地」に縁遠いから。

 特筆しておきたいのは、文化面での彼の国際貢献の素晴らしさだ。年譜を見ると、三十代から六十代にかけて欧米やアジアなどの十数か国を足繁く訪問。講演を行なったり、当地の作家や文学者らと活発に交遊。返礼のようにフランスの高名なシャンソン歌手ジュリエット・グレコが来日し、大岡と共訳した「炎のうた」を歌ったり、公開対談に応じている。彼の諸作品は英・仏・独・中など七か国語に翻訳ずみだ。‘九〇年代半ばにはパリにある国立の高等教育機関コレ―ジュ・ド・フランスで二年にわたり集中講義を行ない、フランス政府から度々芸術文化勲章を贈られている。

 評論では、『詩人・菅原道真 うつしの美学』(’八九年、岩波書店)が感銘深い。道真は中年期に讃岐守(現在の香川県知事)となり、在任中に「寒早十首」という漢詩を詠む。当時の庶民の貧窮のさまを職業や境遇に即し、十首の詩として具体的に詠じたものだ。主題の中心は国家と個人の接触~衝突する最大の一点、租税(及び役務)の問題。彼は平安朝最高の漢詩文の使い手だが、範と仰ぐ中国の詩では同様の主題が詩の正統的主題の一つだった。 

 この「寒早十首」のお手本は白居易の「和春深」二十首で、道真は大和伝統の「うつし」から入り、「乗り移る」状態にまで行き得た。道真は貧富の問題を真剣に憂える、今で言う革新思想の持ち主だったようだ。そう考えると、異数の栄達を遂げた彼の既得権益層・藤原一門との衝突~大宰府配流~悶死という悲劇的宿命の謎が一挙に解け、一層哀れさを増す。

 ‘九五年の名著『日本の詩歌』(講談社)の「あとがき」で、彼は要旨こう述べる。
 ――和歌は日本の文学・芸術・芸道から風俗・習慣に至るまで根本のところを律してきた。漢詩の偉大な代表詩人菅原道真は、悲劇的な生涯そのものにおいて、日本の文明、文化全般に対する恐るべきアンチ・テーゼとなった。日本の詩歌に自己主張の要素が極めて乏しい理由について、思いを巡らさせられる。
 日本人一般に大勢順応型が多く自己主張が乏しいのは、「出る杭は打たれる」とこの菅公の悲劇が深層心理に響いているせいでは、と私は疑っている。

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