2019.06.11  民主主義をめぐる日韓の差
          「6・15事件」を前に考える

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 今年も「6・15事件」が近づいた。 今から59 年前の1960年6月15日、日米安保条約の改定に反対する学生集団が国会構内に突入し、これを阻止しようとした警官隊と衝突、学生集団の中にいた東大生の樺美智子さんが死亡した事件だ。この事件は民主主義擁護の運動の中で起きた事件と位置づけられているが、国民の間では今やほとんど忘れ去られ、毎年、6月15日がめぐってきても事件を顧みる目立った行事はない。しかし、隣国の韓国では、毎年この時期に、この国の民主化運動の原点とされる「光州事件」に対し国家的な記念行事が行われる。この違いは何から来るのだろうか。

 この5月18日、一つの国際ニュースが私をとらえた。韓国の光州市の国立墓地で「光州事件」39周年記念式典が政府主催で行われたというニュースだった。

 光州事件とは、韓国で、1979年の朴正熙大統領暗殺事件直後にクーデターで権力を握った全斗煥・少将を中心とする若手将軍グループが80年5月に戒厳令を全国に拡大し、金大中ら与野党の政治家を逮捕するなど、民主化の動きを阻止しようとしたのに対し、光州市の学生・市民が5月18日から抗議行動を始めると、戒厳令部隊が武力で弾圧し、多数の死傷者が出た事件だ。死者・行方不明者は300人以上とされる。
 その後、事件が全国に知れ渡るにつれて、光州で蜂起した学生・市民の運動が80年代の民主化運動を牽引した原動力となり、ついに87年6月に韓国民主化が達成された、と言われるようになった。こうした評価に基づき、今では、この事件は「5・18民主化運動」と呼ばれる。
 
 5月18日に行われた39周年記念式典には4000人あまりの市民が参加したが、これに出席した文在寅大統領は「あの時、公権力が光州で行った野蛮的な暴力と虐殺に対し大統領として国民を代表しもう一度深く謝罪します」と述べ、続けてこう呼びかけた。

 「光州の5月は私たちに深い負債意識を残しました。5月の光州と共にできなかったこと、虐殺される光州を放置したという事実が同じ時代を生きた私たちに消せない痛みを残しました」
 「その負債意識と痛みが1980年代民主化運動の根となり、光州市民の叫びがついに1987年6月抗争につながりました。6月抗争は5.18の全国的な拡散でした。大韓民国の民主主義は光州にあまりにも大きな借りを作りました」
 「大韓民国の国民として同じ時代、同じ痛みを経験したのならば、そして民主化の熱望を共に抱いて生きてきたのならば誰一人としてその事実を否定することはできないでしょう。5.18の真実は保守・進歩で分けることはできません。光州が守ろうとした価値こそがまさに『自由』であり『民主主義』であったからです。私たちがすべきことは民主主義の発展に寄与した光州5.18を感謝しながら私たちの民主主義をより良い民主主義に発展させていくことです」
 
 私は、文大統領の演説を読んで、韓国における民衆による民主化運動深化の歩みを知り、感動した。とともに、私の脳裏に甦ってきたのは、日本における戦後民主主義運動の頂点とされる1960年の反安保闘争とその後の日本国民の動きだった。

 1960年の反安保闘争が戦後最大とされる大規模な大衆運動に盛り上がったきっかけは、岸信介自民党内閣が同年1月に米国政府と結んだ日米安保条約改定案(新安保条約案)の承認を同年2月、国会へ提出したからだった。同条約案はその第5条で「日本国の施政の下にある領域における、[日米]いずれか一方に対する武力攻撃」に対しては共同行動をとることを宣言して旧条約の片務性を解消し、第6条で、米軍が「日本国において施設及び区域を使用することを許される」のは、「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」であると規定していた。
 これに対し、野党の社会党、日本労働組合総評議会、平和団体などが「日本が戦争に巻き込まれる危険性が増す」と反発、安保改定阻止国民会議を結成して集会やデモが中心の反安保闘争を展開した。が、当時、労組幹部が「安保は重い」ともらしたように、運動はなかなか盛り上がらなかった。
 
 が、状況は一夜で一変する。国会での新安保条約承認を急ぐ自民党が5月19日夜、国会内に警官隊を導入して社会党議員を排除した上、衆院安保特別委員会で新安保条約の採決を強行、さらに会期を延長して衆院本会議で同条約を自民単独で採決したからである。これを機に、全国各地からおびただしい人たちが国会議事堂につめかけ、抗議の声をあげるに至った。その数は、5月19日3万人、20日10万人、21日5万人、26日17万人、6月11日23万人にのぼった。6月4日には全国で労組によるストが行われ、560万人が集会・デモに加わった(人数は日本ジャーナリスト会議編『主権者の怒り 安保斗争の記録』による)。
 それまで、集会やデモで掲げられていたプラカードの文言は「安保反対」「戦争は嫌だ」といったものが大半だった。が、「5月19日」を境に「民主主義を守れ」「岸(首相)を倒せ」に代わった。自民党の“暴挙”を機に反安保闘争は議会制民主主義擁護運動といった性格を帯びるものとなった。

 「6・15事件」はそうした中で起きた。国会構内に突入した全学連主流派の隊列に加わっていた樺さんの死は多くの人たちに衝撃を与え、6月18日に国会周辺につめかけた人たちは33万人に達した。が、抗議の声がとどろく中、新安保条約は19日午前0時過ぎ、参院の議決を経ないまま自然承認となった。岸内閣は退陣を余儀なくされ、6月23日に辞職した。

 「5月19日」以降の反安保闘争の中で生まれた市民グループの一つに「声なき声の会」があった。それまでの集会・デモの中心は労組員と学生で、市民の姿はまれ。そんな中、千葉県柏市の画家・小林トミさん(当時、30歳)が知人の映画助監督とともに「総選挙をやれ!! 誰モデ入れる声なき声の会  皆さんおはいりください」と書いた横断幕を掲げて東京・虎ノ門から国会まで行進。そこに加わってきた一般市民でつくられたグループだった。

 小林さんは6・15事件から1年後の61年6月15日、樺さんが亡くなった国会南通用門を訪れた。事件直後、そこは彼女の死を悼むあふれんばかりの人びとと花で埋まっていたのに、1年後はわずか20人ばかりが来ているだけだった。ショックだった。「日本人はなんと熱しやすく冷めやすいことか」。小林さんは、決意する。「日米安保条約に反対する運動をこれからも続けてゆこう。そして、運動の中で1人の女性の生命が失われたことを忘れまい」。以来、小林さんと「声なき声の会」の人たちは毎年6月15日に「樺美智子さん追悼 6・15集会」を開き、集会後、花束をもって国会南通用門を訪れるようになった。

 小林さんは2003年に病没するが、彼女の遺志を継いだ「声なき声の会」の人たちによって6・15集会はその後も続けられている。参加者は2010年代までは約40人を数えたが、それ以降は約30人といったところ。今年の集会は59回目で、6月15日(土)午後2時から、東京都新宿区早稲田2丁目の早稲田奉仕園会館地下 YOU-Ⅰホールで開かれる。
 6・15事件以来、この事件を忘れまいと毎年、記念の催しを続けてきたのは、私の知る限り、「声なき声の会」だけだ。「民主主義」に対する韓国と日本の市民の対応の違いに驚かされるのは私だけだろうか。

 それにしても、この違いはどこから来るのか。日本人についてはよく、「熱しやすく冷めやすい」「喉元過ぎれば熱さを忘れる」「過去のことは水に流す」といった性格、あるいは価値観があると言われるが、そのことと関係があるのだろうか。それとも、「民主主主義の成熟度」という点で韓国の方が一歩先んじているということだろうか。
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