2019.06.19  文化大革命―最終勝利者は官僚だった
     ――八ヶ岳山麓から(284)――

阿部治平(もと高校教師)
 
中国文化大革命とはいったい何だったか。これについて比較的最近になって中国人ジャーナリストによる90万字という大著の、抄訳編集本があらわれた。

――それは、毛沢東、造反派、官僚集団が織りなしたトライアングルのゲームであった。このゲームの最終勝利者は官僚集団であり、敗者は毛沢東であり、敗者のつけを支払わされたのは一般民衆であった――
こういったのは、元新華社高級記者の楊継縄という人物である。楊は湖北省農家の出身で、1966年清華大学在学中文革に参加し、68年新華社に入った。89年6月の天安門事件までは党に従順だったが、事件が彼の思想と行動を決定的に変えてしまった。
『文化大革命五十年』(岩波書店 2019)は、楊の原著『天地翻復――中国文化大革命史』(香港天地図書 2016)から、元毎日新聞記者辻康吾が抜粋編集したものである。辻によると、第一部は楊の書き下し論文「1時間でわかる文革の全貌」、第二部は原著の28,29,32章の抜粋修正稿、第三部は原著の「導論」である。したがって原著とはかなり異なる書になったが、楊の「文革論」には違いない。
楊はさきに、『墓碑』(香港天地図書 上下2巻 2008)を著し、毛沢東の「大躍進」による餓死者が3600万人に上った地獄絵図を克明にえがいた。この縮小版日本語訳が『毛沢東大躍進秘録』(文藝春秋社 2012)である。
以下に楊継縄「文革論」の私なりの概略をしるす。

楊は「文革の起源はそれ以前の17年の制度のなかにあった」という。17年とは、1949年の革命から文革の始まる66年までの中国共産党の支配である。中共と解放軍は、1949年革命に勝利すると統治組織に変貌し、抗日戦・国共内戦時代からの党軍幹部は官僚となった。官僚は地位の上下によって違いはあるものの、革命の果実を私物化した。一般大衆は、革命の熱狂から覚めると、官僚のやり方に不満を持ち、官民の対立がうまれた。

毛沢東は官僚集団の頂点にあり、さながら皇帝としてふるまいながら、これに敏感に反応した。彼の思想は、マルクス主義のほか、ポピュリズムや無政府主義といったものだった。それゆえか、官僚のふるまいを修正主義、あるいは反革命とみなした。
毛は一度ならず官僚集団の暗黒面を摘発する運動をやらせたが、毎回中途半端に終わり、官僚の特権はびくともしなかった。彼が最終的に見出した方法は、議会制民主主義でも三権分立でもなく、彼自身が最下層の大衆の代表となって直接大衆を立上らせて腐った国家機構を壊すようしむけ、官僚を「火炙り」にし、「天下大乱」を通じて「天下大治に至る」というものだった。つまり「プロレタリア文化大革命」である。

1966年5月、毛は自分への大衆の崇拝を利用して直接若者に呼びかけ、造反派・紅衛兵を組織した。攻撃対象は、劉少奇や鄧小平に代表される党・軍統治集団である。
一般大衆は、各地の指導者に扇動されて派閥ごとに互いに激しく殺しあった。「革命」「反革命」が声高に叫ばれたが、違いはあまりなかった。だが大衆組織間の集団虐殺=集団処刑は膨大なものであった。『文化大革命五十年』には集団虐殺は、北京・湖南・広西とその他数例があるだけである。少数民族地域のすさまじい拷問・肉刑・殺人の記録はない。
楊によれば、劉・鄧集団は、はじめ文革に強く抵抗した。官許の文革史が劉少奇を犠牲の羊のように描いたのは、官僚集団に文革の責任を負わせないためであり、党・軍官僚たちの大衆に対する残虐行為を隠すためである。
混乱が続くのをみて、毛は方針を転換した。造反派の一部を切りすて、大衆組織を解散させ、従わないものは軍によって鎮圧した。1967年1月から68年9月までに全国に「革命大衆・解放軍・革命幹部」の三結合による革命委員会が成立した。68年夏以後、文革は労働者宣伝隊と軍人が主導した。軍は武装せる統治組織である。これからは革命委員会という形で文革以前の統治機構が復興した。

文革は、一般的に毛沢東の失地回復のための権力闘争とみられている。なかには毛は気持がムシャクシャしていたからだという人もいる。
だが、1981年6月中共中央委員会の「建国以来の党の若干の歴史的問題についての決議」は「(文革は)指導者が間違って引き起こし、反革命集団に利用されて、党と国家と各民族人民に大きな災害をもたらした内乱である」とした。
楊は、この決議は改革開放への合意を達成するための、妥協の政治決議であって、歴史の総括ではないという。「反革命集団に利用された」としたのは、毛に責任を負わせないためである。だが事実は、「歴史決議」で反革命とされた林彪集団も江青「四人組」も、毛を支持して文革を推進したのである。彼らは毛に利用されたのであって、毛を利用したのではない。しかも「反革命行為」とされるものの大部分は、毛指導下で行われたのである。
「林彪集団」は、林彪を毛の後継者とした69年4月以降にできたもので、71年9月の「林彪事件」で消えてなくなった。また江青ら「四人組」は、周恩来批判が始まった73年8月にようやく形成されたものである。
「歴史決議」は文革を否定したが、文革を生み出した毛沢東の理論、路線、制度は否定しなかった。文革の責任を林彪と「四人組」に押し付けるのは、中共の支配を保全し、中共をイデオロギー上の危機から救い出すためだった。

毛の死後、造反派指導者の逮捕をもって文革はほぼ終った。官僚によって冤罪・捏造・誤審事件の名誉回復と造反派の摘発が行われた。報復は文革期と同じ残酷なやり方がとられた。詳細な記述は13省市から軍と公安におよんでいる。この行き過ぎを制止したのは、その死が天安門事件を引き起こすことになる胡耀邦である。
しかし、摘発・審査のとき、対象が官僚だった場合、処分は寛大で逃げ道が用意された。たとえば、文革の初期1966年8月に大量殺傷事件を起こした主要人物は保護され、改革開放後も一定の指導的地位に昇った。それは高級官僚の子供だったからである。
以上で要約を終わる。

改革開放後、「階級闘争をカナメとする」というスローガンは「経済建設を中心とする」に変わり、刑法・民法、同訴訟法が制定され、中国は近代国家の外衣をまとった。だが、改革は経済改革にとどまり、政治改革に至らなかった。復活した官僚集団は、文革と毛沢東を否定しながらも、毛の遺産に頼って北朝鮮・ベトナム・キューバなどと本質は同じ権力構造を維持し、開発独裁型の経済運営を行なった。
1978年鄧小平の「先富論」は、権力者による財富の独占を容認するものとなった。社会的不公平はここから一層激しくなる。改革開放の40年間に、勝利者が得た富は文革以前よりはるかに大きく、享受する特権は以前をしのぐものとなった。
この社会的不公平に対して、一般大衆は年間10万件余の暴動という形でしか憤懣を表すことができない。行政に対する不満が広がっているから、小さな事件でもたちまち周囲の同情があつまるのである。
一方毛沢東主義者は、中国を「官僚独占資本主義社会」とみて、人民公社・文革の世に戻して不公平をただせという。楊など立憲民主主義者は、行政権力を抑制する政治制度を要求する。現政権は、前者には比較的寛大だが、後者に対しては支配体制を揺るがす危険思想として厳しい弾圧を加えている。
経済成長の鈍化とともに現政権は守りの姿勢に入った。治安対策費は軍事費より多くなり、一般大衆に対しても監視を強めている。それに反応して日本では、中国通と称する人々の中国危機論が盛んである。だが、経済不況が直ちに政治危機を生むことはない。中国には大企業から農村牧野まで、隙間なく党の網が張り巡らされている。現在これがどこかでほころんでいるとは思えない。
だが、これこそが文革発生の原因ともなり、失敗の原因ともなった統治機構である。この先どうなるかはわからない。

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