2019.07.10 1970年代に社会主義への道を批判した市井人(1)
            ――八ヶ岳山麓から(285)――

阿部治平 (もと高校教師)

畏友中村隆承(Lと略記)は、1983年に49歳の若さで世を去った。
Lは1956年東京大学経済学部卒業後、志を抱いて農協の全国機関に就職した。世間的にはエリートのはずであったが、さほど出世しなかった。マルクス主義者と見られていたからである。
しかし、彼がマルクスやエンゲルス、さらにはレーニンを肯定的に見ていたのは、1960年代なかばまでであった。私はLとマルクス主義に関する議論をする機会がときどきあったが、知識と考察のレベルは等しくはなく、彼から教えられることの方が多かった。
76年Lに癌がみつかり、2度の手術の後、余命いくばくもないと知ったとき、彼は気力を振り絞ってみずからの思想を書き残した。遺稿は『中村隆承遺稿集』として、1984年夫人の手により自費出版された。
内容は、東欧とソ連解体のはるか以前、ソルジェニーツィンやサハロフに対する弾圧が行われた1970年代の思考である。考察に必要な資料は少なく、しかもLは学者でなく市井の人であったから、その内容はときに断片的であり、また過度に断定的であり、今となっては常識となった部分もないわけではない。
今年は中国の天安門事件、東欧の民主主義革命から30年である。私はこれを機にLが生きた証を世に問いたいと願い、彼の遺稿からいくつかのテーマを選ぶことにした。数篇に分けて述べるつもりであるが、まず社会主義理論に関する部分を要約、紹介する。(( )内は簡単な注。――線以下は阿部のメモ)

Lは、マルクスとエンゲルスについてこういう。
彼らは「労働者階級による社会主義革命」という新しい理念を創出し、この革命を達成することを生涯の第一義的課題とした。これを実践、発展させたのがレーニンである。マルクスとエンゲルスの『資本論』をはじめとする膨大な著作は、この革命が労働者にとって必要であり、達成可能であることを説得するための手段であり、また偉大な努力の結晶であった。
マルクスとエンゲルスは人の主観的意志とは別に、客観的な社会発展法則が存在することを確信し、それをもって彼らの社会主義理論が科学的であり真理であることの根拠として、革命への説得力を比類なきものにしようとした。

だがLは、彼らの社会発展の理論=史的唯物論は、社会の内在的要因を過度に重視しており、「内部矛盾による自己発展」という観点に依存しすぎていると考えた。歴史は社会の変化・発展が、内的要因とともに外的要因によってももたらされることを証明していると。
――Lと私は、人類史の上で、戦争・侵略、自然災害などの外的要因がしばしば重要な役割を果たしたことや、明治維新だけでなく、第二次大戦後の日本の敗北とその戦後処理なども革命と考えて議論した。

Lの認識では、マルクスとエンゲルスの認識過程には、19世紀中葉という時代的制約から、非科学的見解や事実に合致しない判断が相当入り込んでいた。なかでもヘーゲルの「理性は自らを歴史の中に表現する」という絶対論的認識論の影響を強く受けていたことが、歴史の発展要因として、生産力視点の強い内的要因一元論を貫く結果を生んだ。
封建制→資本制などの歴史発展段階論はヨーロッパ社会の歴史を要約したものであるにもかかわらず、社会発展の論理を一元化しようとするあまり、これを世界史的発展の法則として取り扱うことになった。このため非西欧社会の社会発展、あるいは停滞を十分説明できなかった。
――だが、日本の「アジア的生産様式」論争のなかでは、論者の一部はLと共通の認識であったと思う。私のような教師は、原始共産制―奴隷制―封建制―資本制」という図式にこだわったとき、ずいぶん無理な説明をしなければならなかった。中国の封建制を周王朝から辛亥革命まで数千年続いたとしたり、モンゴルの社会主義革命を資本主義段階を飛越えたものとする説が現れたりしたからである。

マルクスはヘーゲル的弁証法にこだわって、「外化」「物神化」「疎外」「自己現出」「本質と現象形態」などの概念を多用し、不十分な素材や事実の下でも、すぐに総括的に事態を一刀両断にするようなことをしばしばした。この思い切りの良さはマルクスの強みであって、彼らの理論の啓示性をそこなうものではなく、かえってそれを強めたけれども、科学的論証としては問題があった。『資本論』では流通・サービス労働の無視など、価値論に大きな欠陥を残した。
Lは、総じていえば、唯物弁証法といい史的唯物論といい厳密な科学性を備えたものではなく、現実の社会の発展法則をわかりやすくするといったものではなかったと判断した。
さらに、弁証法のテーゼが自然科学の真理の認識過程を正しく総括したなどという(エンゲルスに対する)評価はこじつけである。マルクスやレーニン以後の飛躍的な自然科学の発展にもかかわらず、マルクス主義哲学者はそれに対応した弁証法のテーゼの充実といったものは試みていない、ともいっている。

Lによれば、マルクスとエンゲルスが(生産手段の社会化と)生産の計画化によって資本主義社会における生産と消費の不適合を除去できると考えたことは、理論的にも実際的にも誤りであった。社会的生産と消費の不適合は、人類社会が工業化すればするほど拡大する。これは社会の基本的矛盾であって、この矛盾を社会主義によって解決しようというのは空想的である。
完全な計画経済は理論的には不可能であり、やろうとすれば常に試行錯誤的にならざるを得ない。また徹底しようとすればより強い中央集権化と官僚化が必要となり、その割に効率は低い。
――Lは、マルクスやエンゲルスの理論の中にある非科学な事例として、エンゲルスの『家族、私有財産、および国家の起源』と、『自然弁証法』をあげた。前者はルイス・H・モーガンの主著『古代社会(Ancient Society)』(1877年)の誤解にもとづく学説を鵜呑みにしたものである。

Lは、人間の歴史は階級闘争の歴史であると同時に、戦争と覇権の歴史であるとみていた。ロシアの1917年10月革命を準備した2月革命も、レーニンの理論による自覚した組織労働者の武力闘争の結果として起こったのではなく、第一次世界大戦の結果としての、半ば自然発生的な、民衆と兵士による反乱の結果として起こったものであった。
——私たちは、議論の中で10月革命はボリシェヴィキによる軍事クーデターであって、労農大衆による革命というにはあまりにも無理があるという結論に達した。

ロシア10月革命を成功させたのは、まちがいなくレーニンであった。Lによると、レーニンは天啓を受けた宗教家のように強い信念にみちて、初期の困難の克服と路線の設定に没入した。彼は民主主義の重要性を認識してはいたが、天性の革命家であり、理念や理想が現実の必要と矛盾するときはためらいなく後者を選んだ。
彼は労農大衆が革命の遂行に必要な責任感と能力を十分に身に着けていないと判断して、党機関の拡大とあらゆる部門での党の指令による管理の確立をはかった。またコロンタイなどこの路線の反対者(労働者反対派)に対して、「分派活動の禁止」の党大会決議をおこなって、可能であったかもしれないもうひとつの道を自ら閉ざした。
レーニンが晩年に戦いの対象とした官僚主義は、彼の敷いた路線の必然的産物だったのである。

スターリンは「革命の防衛」というレーニンの執念を引き継ぎ、他の指導者が理論や理念に執着する間に、党組織の拡大と農村部をはじめとする指導機関の整備に努めた。その後、彼はレーニンの組織論と分派活動の禁止を武器として、トロツキー以下のすべての競争者を粛清した。
Lは、1936年以降の大粛清も、またそれを是正できなかったのも、その責任の一部はマルクスの理論にひそむ権威主義的な要素、すなわちヘーゲル的絶対論的認識論や、党員は上級に絶対的に従うべしとするレーニンの集権的要求と民主的党運営の軽視にある。さらにスターリンのようなカリスマ的指導者に対しては逆らえないという、人間の弱さもその原因に付加えなければならない。
そしてLは、スターリンは(蛮行を繰り返したが)強制力と大衆の熱狂の力(そして大量の囚人労働)で農業の集団化と重工業化を強行し、シベリア開発の成果を上げ、独ソ戦を戦う戦力を築いたと一定の評価をしている。(続く)

中村隆承 略歴
1934年東京杉並区に生まれる。幼児期から43年(小学校4年)まで主に満洲(中国東北)で過ごす。43年年から高校卒業まで鹿児島県で生活する。
1952年鹿児島県立甲南高校卒業。同年東京大学経済学部入学。在学中、赤門消費組合で活動し、56年同大学卒業。全国購買農業協同組合連合会(全購連、のちの全農)に就職。62年全国農協中央会に出向。64年全購連に戻る。同年結婚。
76年10月癌を病み、千葉大学付属病院で大腸手術。81年2回目の大腸手術。85年永眠。
全購連在職中、「乳価安定施策の矛盾をつく」「畜産物価格政策の改善をめぐる問題点、上・中・下」ほか農業・農協関連の論文を発表した。またこの間、『資本論』、計画経済の可能性、ソ連経済の実態、平和運動のありかたなどについて、未公表の膨大なノートを残した。二男一女の父。








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