2019.08.08 中国の「奉陪到底」に米は戦線拡大で対抗
――習近平の中国(2)

田畑光永 (ジャーナリスト)

 米にトランプ政権が登場して、対中貿易赤字を問題にし始めた当初は、習近平はそれを、ここ数年、米国内で高まってきた安全保障面での対中脅威論、さらには習近平が唱える「中華の復興」は世界の覇権を狙うものだ、といった国際政治的圧力に比べれば、所詮はトランプらしい「カネの問題」といささか軽く考えていた節がある。
 昨18年の3月から4月、貿易問題での米の攻勢に対する中国側の合言葉は「奉陪到底」(ほうばいとうてい)の4文字であった。日本語に直せば「とことん付き合うぜ」とでもなろうか。たとえば4月5日の『人民日報』の外交問題コラム「望海楼」は(われわれは)「貿易戦争を恐れない。もしどうしても戦いたい。それも家の玄関口まで来て戦いたいなら『奉陪到底』だ」という具合である。
 トランプが振りかざす「一国優先主義」に対するに、こちらには「自由貿易で人類運命共同体を」という大義があるのだから、負けるはずがないと思っていたはずだ。
 当時の空気を物語るのが、前回でも触れた「中興通訊(ZTE)」の1件だ。4月、米商務省が米国企業に同社との取引を向こう7年間禁止したために、部品の供給を絶たれ、危機に瀕した同社のために、5月8日、習近平はトランプに電話で直接、救済を求め、トランプがそれに応じて、商務省に口をきいて、その後も曲折はあったが、結局、同社は生き延びることができた。
 この間、首脳間の電話が明らかになった後、14日、の中国外交部の記者会見で陸慷報道官は「米側の積極的な態度表明を称賛する」と述べ、同日の『環球時報』も「トランプ大統領の発言は歓迎に値するよい決定だ」と書いた。貿易赤字とほかの問題は別という対応で、このあたりでは中国側に余裕が感じられる。
 しかし、夏から秋にかけて、米の対中政策はきびしさを増す。貿易問題では、前回述べたように、7月第一弾、8月第二弾、9月第三弾と、追加関税の対象品目は合計2500憶ドルにまで膨れ上がり、第三弾の2000憶ドル分は9月からは10%、その後話し合いがつかなければ、第一、第二弾同様25%にまで引き上げるとされた。
 一方では、8月、国防予算の枠組みを決める「国防権限法」が成立した。これは米政府とその取引機関に「華為」や「中興」といった中国企業から製品を調達することを禁止するものであった。また「外国投資リスク審査近代化法」という新法も成立した。これは外国から米国内への投資案件の審査に国防総省や情報機関の発言権を高め、逆に米企業の中国企業への投資についても機密保持、情報漏洩防止などの審査を強めるものであった。いずれも中国との商取引や投資が中国政府の情報活動に利用されないようにという対中不信を正面に掲げた法律であった。
 国防権限法について、中国外交部の陸慷報道官は同14日、「強烈な不満」を表明し、「冷戦思考とゼロサムゲームの理念を捨て、正確かつ客観的に両国関係を扱うよう米国側に促す」とのべたが、もはや対立は貿易問題の枠をこえて広がっていた。
 10月4日にはペンス米副大統領が中国との全面対決を宣言したともとれる講演を行った。この講演の趣旨を要約することは難しいが、あえて言えば、次のようになる。
 「米はこれまで中国がやがては自由、民主を尊重する社会へ変化すると信じて、米国経済への自由なアクセスを認めてきた。しかし、その希望は達成されなかった。・・・今日の中国は他に類を見ない監視国家であり、時に米国の技術を借りてますます拡大し、侵略的になっている」
 現在、中国が進んでいる方向は、米とは相いれないというのである。米中貿易摩擦は「米中新冷戦」に進化?した。そのスタートとなったのが、経済交渉とはいえ、貿易のみならず、幅広く中国の経済の仕組みを含めて話し合いの対象とすることを決めた12月のブエノスアイレス首脳会談であった。
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 習近平にとっては、18年春の全人代(国会にあたる)で、国家主席の任期をそれまでの「2期10年まで」から「任期規定なし」に改正して、終身主席の可能性を確保した上で、いよいよ「中華復興の夢」の実現(先進国への仲間入り)を自らの主導で進めようとしたというのに、米に反中ムードが広まったことは目の前に突如、暗雲が迫ってきた思いであったろう。ペンス講演に習近平は大きな危機感を抱いたはずだ。
 ここで、現代中国の歴史において、国が危機に直面した場合、政権はどういう態度をとったかを振り返ってみたい。
まず思い浮かぶのは1960年代後半から70年代にかけて、である。国内は文化大革命で混乱し、対外的にはソ連(当時)と激しく対立した。特にソ連との対立はウスリー江の中州の島(ダマンスキー島、中国名「珍宝島」)や新疆ウイグル自治区で武力衝突が起こる(いずれも1969年)までに加熱した。
 この時、毛沢東、周恩来はどうしたか。それまで長年対立してきた「米帝国主義」とあえて誼を通ずる奇策でソ連の脅威をかわした。キッシンジャーの秘密訪中(1971年)、ニクソン訪中(1972年)が実現したことに世界は驚いた。
 次の危機は1989年の「6.4天安門事件」の後である。国の大方針は文化大革命時代とは逆に改革・解放路線であったが、天安門広場に陣取る学生たちの民主化要求運動を鄧小平は軍隊を動員して鎮圧した。正確な数字はいまだに不明だが、公式発表でも300人以上の死者が出た。
 西側の世論は反中国で沸騰した。経済的な制裁も受けた。そして、この時、鄧小平が打ち出したのが「韜光養晦(とうこうようかい)」政策であった。「韜光」とは刃物の光を袋に収める、「養晦」とは蟄居する、という意味で、目立たず、おとなしくすることであった。西側からの批判に「内政に干渉するな。反政府運動を取り締まってどこが悪い!」などと、むきにならず、頭を低くしてやり過ごせと、鄧小平は命じたのである。
 鄧小平自身はその後、老躯を駆って、南方の経済特区を2年がかりで回り、各地で改革・開放、とりわけ解放政策の重要性を説き、恐れずの外資を入れろと督励した。その後、中国は高度成長の軌道に乗る。
 1971年と1989年、この2回は中国の共産党政権が自我をひっこめて、状況に適応して延命を図った先例である。政権が選挙で選ばれるのなら、政策が変わることは珍しくないが、過去において共産党政権というのはとかく自己の正当性、無謬性、継続性を強調したものである。その意味では中国共産党は必要に応じて変身することにためらいはない政党と言えるかもしれない。正当性、無謬性に固執して、政権を危機に陥れるより、大義の旗は一時しまいこんで、状況に適応するのである。
 習近平は米の戦線拡大にどう立ち向かったか。            (以下次回)
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