2019.08.19 右であれ左であれ、ポピュリズムは社会の存立基盤を毀損する
日本でもヨーロッパでも、左派の退潮が著しい

盛田常夫 (経済学者、在ハンガリー)

 選挙で有権者の支持を得なければならない政党にとって、国民の短期的目線に訴え、国民の即時的要求に応えるポピュリズム政策は必要不可欠になっている。有権者のほとんどは日々の生活のことで精一杯だから、社会の中長期のことには関心があっても、それが投票行動を決める大きな要因にはならない。社会保障の財源が先細ることは頭で分かっていても、当座の所得が増える(減らない)ことが優先される。それは仕方のないことだが、政治家も一緒になって有権者の短期的目線で政策目標を立てていたのでは、将来の社会的基盤を毀損する。もっとも、政治家が考えるほど、国民も馬鹿ではない。増税は嫌だが、仕方が無いと思っている人は多い。だから、消費税反対だけでは大きな票を得られない。
 ふつうに考えて、個人消費を減らすことなく、社会的消費を増やすという魔法があるわけがない。アメリカ的な消費文化を保持したまま、西欧の福祉国家的な社会保障を得ようと考えるのは虫の良い話だ。社会消費を増やそうとすれば、個人消費を減らさなければならない。それが嫌なら、社会消費を増やすことを期待してはならない。政治家は問題の核心から話を逸らしてはならない。これだけ政府財政の累積赤字を抱えながら、「10年間は消費税の引上げはしません」などと嘘をつける政治家など、信用してはならない。
 政治家が有権者の反応を気にして嘘を付くのは分かるが、「学者」と称する者までが政治家の顔色を窺って、国民の即時的要求に迎合する論陣を張っている。とんでもない輩だ。「学者」か「評論家」か知らないが、アベノヨイショの御仁たちはとてもまともな「知識人」と思えない。消費増税反対の根拠になっているのは、「日本の財政は破綻しない」という主張である。そのヴァリエーションはいろいろある。

 1.政府の債務だけが大騒ぎされるが、政府資産で債務を相殺すれば純債務は小さい。だから、日本には財政問題など存在しない(高橋洋一、森永卓郎)
 資産処分の具体的な方策が示されない限り、たんなる帳簿上の観念論に留まる。どういう資産をどのように処分して債務を減らすことができるのかを示さない限り、意味のない議論である。借金清算のために家屋資産を失い、路頭に迷っては意味がない。実際、戦争終結時や体制崩壊時に、政府の累積債務が清算されることは間違いない。その時には、政府債務は帳消しになるだけでなく、個人資産も消滅する。
 1989年に始まった社会主義国の崩壊のなかで、すべての諸国でハイパーインフレが起きた。政府累積債務は消滅したが、個人の金融財産もまた消滅した。その歴史をきちんと学ぶべきだ。危機はすぐにやって来ない。既存の体制が崩壊したときに、すべてが明らかになるのだ。

 2.「政府と日銀を統合政府で考えれば、債務と債権は帳消しにされる」ので、財政問題は存在しない(スティグリッツの誤解を真に受けた高橋洋一)。
 これも国債発行を合理化する幼稚な観念論である。国民経済計算上の政府部門の債権債務帳簿処理の問題を、あたかも現実の債務問題の解決と思い込んでいる初歩的な誤解である。もしこんなことができるのであれば、どんどん国債発行して日銀に引き受けてもらえば、財政赤字問題など存在しない。年金危機も存在しない。議論するに値しない脳天気な主張である。スティグリッツの誤解をそのまま受け継いで、ノーベル賞経済学者のご宣託を有り難がっている「経済学者」の社会的常識はこの程度のものである。

3.GDPの過半以上を占める消費を抑制すれば、景気が後退することは目に見えている。だから、消費増税をやってはいけない(藤井聡ほか多数)。
 GDPとは事業所の年間付加価値を集計したものである。消費財と生産財の付加価値生産の総計である。これが生産面からみたGDP。生産された者は消費(販売)されるはずだから、支出面からGDPを測定することもできると推定して作成したものが、GDPの定義式である。
     GDP(生産面)=消費+政府消費+投資+純輸出(支出面)
実際の統計処理において、生産面から捉えたGDPと支出面から捉えたGDPが一致することはない。統計数値の取得の難しさによって、この二つの数値にはかなり大きな乖離が存在する。GDP統計を作成する人々は、いろいろな要因を付加したり削減したりしてこの乖離を埋めていくが、どうしても埋まらない乖離は誤差として扱われる。その意味で、GDP数値は自然科学で扱われるような精度で議論できる数値ではない。
 さて、藤井聡氏の主張は、GDPの定義式から消費を抑制すれば、経済成長が止まると言っているだけのこと。定義式をオウム返しした同義反復の議論で、現実問題から出発するのではなく、定義式から結論を出すという典型的な観念論である。
 今問題になっているのは、個人消費と政府消費(社会消費)の相互関係である。個人消費を減らさずに社会消費を維持する、あるいは増やそうとすれば、政府の借金で埋めるしか方法がない。しかし、政府の借金は将来世代の税収の前借りである。すべての付けを将来世代に回すことを意味する。この意味を考えずに、消費を削減せずに、政府消費を維持するというのは、「今だけ良ければ良い」という無責任なポピュリズムである。
 日本経済で消費支出(市場)が拡大を続ける時代はとうの昔に終わっている。労働力が増え続ければ、消費財市場も拡大し続ける。しかし、労働力の増加が止まれば、消費財市場の量的な拡大は見込めない。質的な拡大で消費を増やすことはできるが、それも簡単ではない。それでも、消費支出を増やすべきだと言っている人は、「皆さん、今のテレビを4Kや8Kテレビに買い換えれば、日本経済は復活します。乗用車を1家にもう1台買いましょう」と言っているようなものだ。しかも、新規の買い物を毎年続けなければならない。それがどれほど現実性のないことかは一目瞭然だろう。
要するに、日本社会で個人消費を増やす時代は終わっている。個人消費から社会的消費・サーヴィスへの転換を図ることが日本社会の課題である。個人消費を切り詰め、社会的サーヴィスに回すのが、日本が取るべき道である。個人消費も社会消費も増やしたいという調子の良い議論は成り立たない。税負担を嫌うのであれば、社会的サーヴィスの低下を甘んじて受けなければならない。

4.国債が国内で消化されている限り、財政危機は起きない(炎上商法で講演料を稼いでいる三橋某)。
高々、海外投資家の投機的行動で国内経済が揺さぶられることはないということに過ぎない。国が債務を返済できない事態が到来すれば、国内国外は関係ない。国外の投資家も国内の投資家(国民)も、同じように資産を失う。

 5.国債は国民の債権だから、「国民の借金」という主張は嘘である(ほぼすべての素人論議)。
 将来の税収を担保にしているのだから、その分だけ将来の国民は債権を有しているというだけのこと。しかし、今の世代が債務を支払うことができなければ、債務はそのまま将来世代に先送りされるだけだ。どこかの時点で債務不履行になれば、国債価値はゼロになる。その時になって初めて、国民債権ではなく、国民債務だったことが分かる。将来世代に借金を先送りする政策は、今だけ良ければ良いという無責任な政策である。

 日本でもヨーロッパでも、左派の退潮が著しい。それは左派が時代の変化に追いつけないこと示している。国民は短期的目線ではあるが、明確な根拠が示されない政策を無条件に支持するほど無知ではない。国民は政治家が持っている以上の情報に接することができる。別の解決策があるなら、それを具体的に示すことが必要だ。その努力なしに、ただ国民が喜ぶだろうというような政策を掲げるだけでは、国民の支持を得ることはできない。
 ヨーロッパの左派は旧来の人道主義を掲げるだけで、大量に流れ込む移民問題にたいして有効な政策を打ち出すことができなかった。無条件無制限に受け入れるべきだというような無責任で空想的人道主義政策を支持する人はごく少数派に過ぎない(移民労働力が必要な国は別として)。左派がそれに拘っている限り、国民の支持は減り続けるのは当然である。
 日本でも同じことだ。実際のところ、消費税2%の引上げは与党にとってほとんど影響がなかった。増税は嫌だが仕方が無いことも、国民は良く分かっている。にもかかわらず、増税反対で大きな支持を得られると考えるのは浅はかである。実際、それだけで支持した人の数は知れている。国民はそれほど単純ではない。単純なのは政党の方である。
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