2019.09.02 世界を敵にした自滅への道
―芦田均『第二次世界大戦外交史』を読む―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 1945年9月2日は、敗戦日本の降伏文書調印の日であった。東京湾頭、米戦艦ミズーリの艦上で調印式は行われた。74年前に起きて今に続く恥辱である。

《権力政治を生きた外交官・政治家の遺言》
 私(半澤)は、この8月に芦田均が書いた『第二次世界大戦外交史』を読んだ。岩波文庫上下2冊で1000頁を超える長編である。一読では纏まった感想は書けない。しかし折角読んだのだから一部を書き抜いた。その中からさらに一部を書き抜いて紹介したい。抜き書きといえども、事実の重みは行間に現れると思うからである。

私の抜き書き箇所を、三点ほどに纏めれば次のようになる。
一つ 軍部独裁への道、軍事の思想、偏狭な軍事教育、軍内部の派閥争い、議会の「抵抗」
二つ 芦田はあの戦争の総括をどのようにしたのか
三つ 日本敗戦時におけるポツダム宣言発信国指導者の発言

外交官を経て政治家に転身した芦田均は、合理的な外交論を自らの信条としていたようである。今風にいえば、外交政策における可能な限りの説明責任の実践を重視したのであった。もちろん外交の本質が権力政治であるのは自明の前提である。そして大日本帝国を亡国に導いた原因を、未熟な政党政治、「軍閥暴走」、拙劣な外交に求めた。早速、芦田の言葉を聞こう。中略は「/」で示す。

《軍閥の台頭・非合理主義の勝利》
■満州事変を一つの契機として、日本の国家意思は統一を失い、軍が一つの武装した政治団体として出現し、いわゆる統帥権独立の名のもとに、軍の行動はすべて他の関与を許さないものとなった。/政府が軍部をコントロールしえなかった最大の原因はなんであったろうか。その根源を成すものは明治憲法の性格と、その運用に伴って形成された慣行であったといわざるをえない。/まだ、救済の道はあった。例えば、日清、日露の両戦役においては、統帥と政治との関係が一体不可分の立場で活躍することができた如きはその例である。/大正、昭和に入って、軍閥の力が急激に拡大され、政府はしばしば軍部に圧倒される情勢を馴致したのであるが、一九三六(昭和十一年)五月、陸海軍大臣が現役の将官から選ばれることを必要とする規定が制定され軍部の地位は確固不動のものとなった。(上巻、84~87頁、「日本ファッシズムと軍部」)

■日露戦争時のような厳正な軍紀―あるいは武士気質―が全く地に墜ちたことは、もっぱら軍の教育の変質的な傾向から生じたものである。太平洋戦争において香港、マニラ、シンガポール等の戦闘に際し日本軍の残虐な行為が指摘されたことは、日本二千年の歴史を通じてほとんど例のない事件であって、これもまた軍の教育方針の誤りを端的に示すものである。第一次世界大戦以後において我国の幼年学校、士官学校の教育、それに伴う軍隊の訓練等、すべてが偏狭に流れ、ヒューマニズムを軽視したことは争うべからざる事実である。軍は日本の青年に常識をさずけることを忘れて、軍人としての職責を重視するあまり、目的のために手段をえらばない風習を養った。従って政治経済学に関する常識に乏しく、部内の指導者としても。占領政策等の担任者として不適格な人間にしてしまった。/陸軍においては皇道派、統制派の派閥争いを生じ/軍の統一に少なからざる支障を与えていた。/軍紀の弛緩として指摘されたことは、軍閥の横行時代における下克上の弊風である。いわゆる青年将校が徒党を組んで上長の指揮命令に服せず、遂に自己の意思を強要して軍政軍令を左右した。(上巻、88~89頁、「日本軍閥の特異性」)

《芦田均と斉藤隆夫・議会における果敢な抵抗》
■国際連盟総会が満州事変をとりあげて日本の行動が侵略であるかどうかについてジュネーヴで論議を戦わしていた一九三三年一月のことである。/芦田均は政友会の代表として外交に関する質問を行うよう幹事長から求められた。/芦田の質問はまず満州に対する政策、次いで対支政策、対米、対ソ政策にわたって政府の意図するところをただした。

/山海閣には今なお銃声が轟いているし、諸外国は日本軍が遠からず北平に進出するであろうと見ている。我国民はこの紛争がどこまで拡がるのかということに多大の不安を抱いているのである。政府が現在の如くにただ手を拱いて見ているということであれば、中国の政治家をしてますます日本の真実を誤解させ、遂には絶望の極、何物を犠牲にしても日本に反抗する政策に転換させるおそれがある、中国の政治家を絶望の淵に追い込むことは彼を共産党の懐に追い込むことを意味する。/(対ソ、対米政策を問うたのち)この際、政府は速やかに我国大陸政策の限界を明らかにして、この基盤の上に東洋の平和を確立する具体案を示すべきである。さらにまた国内の政局を安定して憲法政治を確立し国民をして言論の自由に不安を感ぜしめる如き政治を改めなければ、日本の立つ国際情勢は容易に楽観を許さないものと覚悟しなければならぬ。

/芦田の演説はその頃の対満、対支政策を議会で批判した唯一のものであった。軍部は直ちに芦田を望ましからざる自由主義者のリストに加えたけれども、この演説が軍の大陸政策に毫末の変化を与えなかったことは勿論、政党の動向においても五・一五事件に発足した親軍的傾向は日とともに軌道に乗って進行を始めた。(上巻、150~154頁、「帝国議会のささやかなる抵抗」)

■第七十五議会開会の直後、一九四〇年二月三日の衆議院本会議において、民政党の斉藤隆夫は、国務大臣に対する質問に名をかりて、軍部の独走を痛撃した。この攻撃は米内内閣に向けられたものではなく、第一次近衛内閣、阿部内閣を通じて鬱積していた軍部独裁への反感が爆発したものであった。

/昨年十二月になってようやく近衛声明が出たということは、それまで日本は侵略主義であったがこの声明によって初めて侵略主義を放棄したということになる。これまで我国の政治家は国民に対しては日支事変は、中国より欧米列強の勢力を駆逐し、植民地搾取から中国を解放して、これを中国人の手に戻すのであると叫んで来たが、これは近衛声明と全然矛盾する一場の空言であったことになる。

《「八紘一宇」「東洋平和」「聖戦」は偽善に》
/われわれはすでに数年間戦って来た。一度戦争となれば、問題はもはや正邪曲直、是非善悪の争いでなく、徹頭徹尾の争い、優勝劣敗、弱者に対する征服なのであって、したがって「八紘一宇」だとか、「東洋永遠の平和」だとか、「聖戦」だとかいってみても、ことごとく空虚な偽善である。

この演説は国内の自由主義者がいわんとするところを大胆に述べたものとして、ひそかに痛快を叫んだものもあったが、陸軍は支那事変処理に関する悪質の批判だとして憤り、斉藤を除名すべしといきまき、米内内閣がその処置を政党に要求しなければ、陸軍大臣を引き下げると脅かした。/本会議における(斉藤)懲罰の決議に際し、これに反対した議員はわずかに七名(芦田を含む)であったが、自由主義の闘いとして除名問題は世間の注目を惹いた。(上巻、143~146頁、「帝国議会のささやかなる抵抗」)(2019/08/28)
(つづく)
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