2019.09.03  私が会った忘れ得ぬ人々(12)
 松下幸之助さん――「一つことに執着することやな」
      
横田 喬 (作家)
             
 米中の通商対立が元で、日本経済の先行きに陰りが生じている。「経営の神様」こと故・松下幸之助氏だったら、どんな処方箋を用意するだろうか。遥か昔だが、私は氏と差しで対話している。その折の取材体験は際立ってユニークで、未だに忘れられない。当の取材は『朝日新聞』夕刊一面の目玉企画「新人国記’83・和歌山県」編の一齣。生い立ちから成長過程での色んな環境変化など人間形成の過程を丁寧に聞こうとすると、どうしても時間がかかる。私は先方にその旨を伝え、インタビューに一時間は見て下さい、とお願いしてきた。

 取材窓口の「松下電器」秘書課の返答は「一時間は無理。三十分にしてほしい」。そして、「相談役(当時の松下氏の肩書)は初めの十五分はだんまりを通す。それを承知でご対応願います」という内容。私はこの続き物の紙面構成から、彼なりに(一時間も必要ない。半分で十分)(担当記者の器量を見るべく、当初は無言でいこう)としたのだ、と思っている。

 いざ、当のインタビュー。暖簾に腕押しを十五分も強いられ、普段と勝手が違い正直言って気色が悪かった。が、私も準備万端ととのえ、事前に予定稿で書き上げられる位にデータは頭にある。それが先方にもちゃんと通じてか、口を開いてからはスムーズにやりとりが進み、無事に幕となった。当時の『朝日新聞』の関係紙面を引くと、

 ――「今太閤」と天下に知られる松下電器相談役松下幸之助(八八)が、和歌山県人であることは案外知られていない。名誉県民の称号をもらった本人自身も、「大阪住まいが長いし、県人意識はあまりないですな」と、持ち前の率直さではっきり口にする。

 松下が庶民に根強い人気を持つ所以の第一は、学歴も金もない裸一貫から身を起こした生い立ち。和歌山市の農家に生まれ、父が米相場で失敗したため、小学校も卒業せず、九歳で大阪に丁稚奉公へ。転々と職を移った後、二十二歳で独立して電気部品の事業を始める。五人で始めた町工場が六十六年後の今日、関連会社も含め七百九十五社、十五万人の世界的な巨大企業集団になった。「ようやったなあ、と自分で自分の頭を撫でてやりたい位ですわ」。

 「世界の松下」へ躍進する最大の秘密はカリスマ性を帯びたその卓抜な指導力。昭和七年、松下は全従業員を集め、こう説いた。「産業人の使命は貧乏の克服。生活に必要な物資を水道の水のように安く、無尽蔵に提供しよう。そして、四百四病の病より辛い貧乏を、この世から追放しよう」。その熱誠が従業員の心を打つ。(中略)

 「水道の哲学」に始まる松下の思想は、戦後、PHP運動や松下政経塾の設立へ発展する。「経済的繁栄によって社会に平和と幸福を」と謳うPHP運動では、月刊誌が今百五十万部。松下の教祖的人気の一面を示す。「一つことに執着することやな。政経塾でも、見込みがあるのは一途な人間。なまじ小利口なのは、あかん」。眼光に人を射る力があった。――

 彼がセミナー開催や出版活動を通じて推進したPHP運動は、Peace and Happiness through Prosperityの頭文字から発している。「繁栄によって平和と幸福を」の意で、物心共に豊かな真の繁栄を実現していくことにより、人々の身の上に真の平和と幸福をもたらしたい、との彼の願いを表している。運動を開始したのは敗戦翌年の四六(昭和二十一)年。敗戦直後の窮乏~荒廃した世相に強い衝撃を受け、この運動の推進を決意した、という。

 彼には三十冊近い著書があり、大半は「PHP研究所」の刊行で発行部数ン十万部を数えるベストセラーばかり。同研究所調べ(二〇一一年時点)のベストセラー上位三点は①『指導者の条件』九十九万六千部(七五年、PHP研究所刊)②『商売心得帖』九十万三千部(七三年、同)③『物の見方 考え方』(六三年、実業之日本社刊)八十六万部。

 私はこの三点を入手し、メモを取りながら精読した。心を惹かれる行を列記すると、
▽「明朗公正な競争を」:勝ちたい一心からの不公正なやり方はダメ。不当な値下げは取引を乱脈にする。弱体な乱売に明け暮れる不安定な業界は消費者や社会に損害を及ぼす。
▽「人を集める第一歩」:日本社会の一番の欠陥は人を粗末に使ってること、多くの人を無為に動かしてること。そこに気づき、ちゃんと是正すれば、人はいくらでも得られる。

▽「長所を見よ」:部下を見る時、長所を見るのに七の力を用い、欠点を見るのに三の力を用いるのが丁度いい。太閤秀吉は主・信長の長所を見るよう心掛けて成功し、明智光秀は短所が目について失敗した。
▽「一人の責任」:自分は小企業も中企業も大企業も全部経験したが、結局は主が一番問題。主が率先垂範していけば、一切は解決される。部の責任は部長に、課の責任は課長に係る。
部下に労りの心を起こさせる一生懸命な上司の姿があれば、その組織は上手くいく。

▽「六〇㌫の見通しで後は勇気」:百㌫確実な見通しは人間には無理。六〇㌫の見通しと確信ができたなら、後は果敢に取り組む勇気と実行力が百㌫の成果を生み出す。
▽「経営者の心根」:従業員が数人の小企業のうちは率先垂範で「ああせい、こうせい」で済む。が、百人~千人となると別で、心の底で「こうして下さい、ああして下さい」でないとダメ、万人単位ともなれば、「頼みます、願います」と手を合わす心根がないといけない。

 晩年に差し掛かった七九(昭和五十四)年、彼は私財七十億円を投じ、神奈川県茅ケ崎市に「松下政経塾」を設立する。政治を志す若者が少ないのを憂え、次世代の国家指導者育成
を期した。政界再編期の九三年総選挙で日本新党から塾生出身の七人が当選して脚光を浴び、一一年には一期生出身の野田佳彦が民主党代表に選出され、首相に就任。前原誠司・玄葉光一郎・樽床伸二らが入閣し、「松下政経塾内閣」とも呼ばれた。

目下は衆院に逢沢一郎・小野寺五典・高市早苗ら自民党十三人(うち女性二人)、国民民主党に前原・原口一博ら三人、無所属に野田・玄葉ら三人など都合二十五人が在籍。参院にも自民の六人など計十人が在籍(一九年六月現在)する。他にも村井嘉浩宮城県知事ら地方自治体の首長や議員をはじめ、経営者・大学教員・マスコミ関係者など各界で活動する人材を生んでいる。
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