2019.09.19 「8月ジャーナリズム」にみる日本人の戦争観
  ますます「被害者意識一辺倒」に

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 「8月ジャーナリズム」という言葉がある。真夏の8月を迎えると、新聞に戦争に関する記事があふれるからだ。いわば、新聞社にとっては恒例の報道活動だが、今夏は、例年になく、そうした記事が多かったように感じられた。そこでは、満州事変から太平洋戦争に至る「15年戦争」における日本国民の戦争体験がさまざまな面から詳細に紹介されていたが、それは、自らの戦争被害に言及し「悲惨な被害をもたらす戦争はもうこりごり」と回顧するものが大半で、日本が起こした戦争で多大な被害を与えたアジアの人びとに目を向けたものは極めて少なかった。
 
 戦後、新聞が「8月ジャーナリズム」と呼ばれるようになったのには、それなりの理由がある。6日の「広島原爆の日」、9日の「長崎原爆の日」、15日の「終戦の日」と、戦争がらみの記念日が続くところから、新聞各社としては、この期間、競って戦争と平和に関する報道に紙面を割いてきたわけである。そこから、 「8月ジャーナリズム」という言葉が生まれたわけだが、そこには、新聞が戦争と平和の問題に熱心になるのは8月の一カ月だけで、それが過ぎると途端にそうした問題にそっぽを向いてしまうではないかという揶揄も含まれていたと見ていいだろう。

 では、今夏はどんな紙面だったろうか。
 国会図書館では、全国の日刊紙53紙を閲覧できる。で、その全紙の8月紙面をひもといてみた。その結果、今夏は、近年ではとりわけ戦争に関する記事が多かったとの印象を受けた。53紙の77%にあたる41紙が、8月15日前後を中心に、戦争に関する企画記事を掲載していた。それは、続き物、特集といった形をとったものが多かった。企画記事のなかった12紙でも、戦争がからむ単発記事を掲載したところがあった。

 なぜ、今夏はこんなにも戦争に関する記事が多かったのだろうか。
 一つには、敗戦からすでに74年。戦争体験を語れる人が極めて少なくなってきたので、今こそ、数少ない戦争体験者にその体験を語ってもらわねばとの思いが新聞社側に強かったからではないかと思われる。
 それに、今年から「令和」になったことも影響していたと見ていいようだ。新聞としても「昭和時代の日本人の体験を新時代の令和に引き継がねば」というわけである。
 加えて、このところ、世界情勢が緊迫し、また戦争が起きるのではないか、日本もそれに巻き込まれるのでは、との不安が新聞関係者の間で高まり、「戦争だけは避けねば」との危機感が一部の新聞関係者をとらえていたようだ。

 さて、各新聞に載った戦争に関する続き物、特集、単発記事のすべてに目を通してみたら、戦争体験者にその体験を語らせたものが圧倒的に多かった。
 それらのタイトルの一部を紹介すると――北海道新聞「伝える 考える 戦後74年」、東奥日報「戦後74年 忘れない」、山形新聞「声 次代へ 戦後74年、昭和から令和」、河北新報「伝える戦禍 令和の夏に」、福島民報「74年目の記憶 令和 受け継ぐふくしまの戦争」、茨城新聞「語り継ぐ―あの夏 戦後74年」、千葉日報「令和につなぐ―戦争の記憶―」、新潟日報「にいがた 戦時の記憶」「薄れぬ思い 令和の世に」、信濃毎日新聞「戦後74年 今、語らねば」、読売新聞「戦後74年 令和に語り継ぐ」、北国新聞「令和に語り継ぐ戦争体験 石川の地から」、日本海新聞「伝える戦後74年目の証言」、佐賀新聞「失われゆく さが戦禍の証」宮崎日日新聞「戦争の影なお みやざき戦後74年」……といった具合である。

 次いで多かったのが、戦争遺跡・遺構の現状を紹介したもので、中日新聞、奈良新聞、西日本新聞、熊本日日新聞、大分合同新聞の5社がこれに挑戦していた。

 これらのテーマと違うテーマで「戦後74年」に迫った社もあった。神奈川新聞は「沖縄戦の記憶」と題する続き物を7回にわたって連載し、本土決戦のために多くの犠牲を強いられた沖縄県民の悲惨な体験を、沖縄戦の生き残りの証言をもとに報じた。
 静岡新聞は「悲しみのオリンピアン 戦場に散った県勢」と題する続き物で、ベルリン・オリンピックでメダリストになった競泳選手と、やはりベルリン・オリンピックで活躍したサッカー選手が、ともに太平洋戦争で戦死した事実を伝えた。来年の東京オリンピックにこと寄せたタイムリーな企画と言える。
 産経新聞は「眠れぬ墓標 令和の課題」と題する7回の続き物で、今なお海外に放置されている戦没者112万人の戦没者の遺骨収 集を訴えた。
 長崎新聞は「中国残留日本人は今」と題する続き物で、82歳の女性を取り上げた。

 ところで、圧倒的な分量の戦争体験者の証言に目を通していて、心にひっかかることがあった。それは、その大半が、専ら戦争被害者の立場からの証言であったことだ。
 続き物、特集に登場する戦争体験者は各紙ともほぼ共通していた。中国や東南アジア、太平洋で戦った陸海軍兵士、インパール作戦に動員された兵士、特攻隊員や飛行少年兵の生き残り、満州(中国東北部)からソ連に連行・抑留され兵士、満州から引き揚げてきた満蒙開拓団員とその家族、広島・長崎の原爆被爆者、米軍機の空襲に遭った民間人、米艦の艦砲射撃で被害を受けた民間人、戦争で父や兄弟を亡くした人たち……
 この人たちが語る戦争体験はまことに悲惨にして過酷で、戦争がもたらす苦しみ、悲しみが切々と伝わってきた。この人たちは口々に訴えていた。「戦争は嫌だ」「戦争は説対ダメ」と。

 だが、戦争で悲惨にして残酷な被害を被ったのは日本人ばかりではなかった。戦場となったアジア、太平洋地域の人たちもまた被害を受けた。なのに、今夏の紙面で見る限り、日本国民の多くは戦争を「被害者」の立場からのみとらえているように思えた。

少数だが「加害」にも目を向けた紙面も

 そうした傾向の中にあって、ごく少数だが、日本国民の「加害」にも触れた紙面があった。これは、戦争を「被害」と「加害」の両面から見ようという編集方針の表れだったのだろうか。いずれにせよ、それが一番目立ったのは東京新聞である。
 同紙は、この期間中、「つなぐ 戦後74年」というワッペンをつけて、多面的に戦争に関する記事を展開した。8月2日付紙面では、歴史教育者協議会委員長の山田朗・明治大教授に歴史認識のあり方について語らせている。「歴史認識とは国際理解でもある。同じ事象でも、立場によって伝えられ方は異なる。戦争で言えば、加害者側と被害側。八月十五日は日本人にとっては終戦の日だが、韓国人から見れば植民地支配からの解放の日という位置付けになる。どちらが正しいかでなく、他者の歴史認識を知ろうとしなければ、相互理解か進まず、対立が深まるだけだ」と、同教授。
 10日付紙面では、戦時中、瀬戸内海の大久野島にあった旧日本軍の毒ガス製造工場で働いていた男性(93歳)を登場させた。ここで造られたガスは日中戦争で多くの中国人を殺傷した。「私は被害者である前に加害者であり、犯罪者だった」と男性。11日付紙面では、中国戦線で、将校候補の見習士官が、捕虜の中国人を軍刀で処刑したのを目撃したとの元陸軍兵士(100歳)の証言を載せていた。

 朝日新聞は16日付紙面で、長野県在住の元満蒙開拓団員(84歳)の証言を掲載した。元団員は、戦後になってから、満州で自分たちが与えられた土地は、国が半ば強制的に中国人から買い上げたものだったと知った。「結果として中国の人々の土地を奪っていた。知らないうちに侵略に加担していたことがずっと苦しかった」

 埼玉新聞は、「語り継ぐ 戦争74年」と題する企画を6回にわたって連載したが、その中に、元特攻隊員(92歳)の証言があった。そこで、元特攻隊員は「中国やアジアの国々が日本に攻め込んだのではなく、日本の侵略戦争だった。大勢の命を日本軍が奪った」と話していた。日本の「加害」に言及した元特攻隊員の証言はこれだけで、強く印象に残った。

 私のこれまでの取材経験によると、日本における最大の社会運動である原水爆禁止運動は、当初は「被害者意識一辺倒」の運動だった。が、1990年代に入ると、原爆による被害は「被害」と「加害」の両面からとらえなくてはならないという見方が芽生え、それが次第に定着しつつある。
 しかし、今夏の「8月ジャーナリズム」で見る限り、戦争体験一般に関しては、大半の日本国民の視点は今なお「被害者意識一辺倒」だ。いや、私には、2013年ごろから、その傾向はかえって増しているように思えてならない。この年は、日本の首相が、終戦の日の全国戦没者追悼式で、アジア諸国への加害と反省に言及しなくなった年である。そんなことも戦争に関する国民意識に影響しているのだろうか。
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