2019.10.11  原発事故から8年半の福島を見る
          復興は進むが、傷痕なお深く                  

岩垂 弘 (ジャーナリスト)
     
 東京電力福島第1原子力発電所が東日本大震災で事故を起こしてから8年半たったのを機会に10月3日、被災地の福島県を訪れた。私の被災地・福島の現地見学は2015年2月、同年10月、2016年10月、2017年10月に次いで今回が5回目。被災地のごく一部を垣間見たに過ぎないが、その印象を一言で言えば、「防潮堤、鉄道、道路、公営住宅などのインフラ整備は進んだが、被災住民が被った傷痕はまだ回復せず、むしろ一部は深化している」というものだった。

 私の最初の原発事故現地見学は、NPO法人が企画した「原発問題肉迫ツアー」に参加することで実現したが、2回目以降は、埼玉ぱるとも会(生活協同組合パルシステム埼玉役員OB会)が毎年実施している「福島ツアー」に途中から加わることで続いてきた。
 今回の福島ツアー「福島のいまを見て、感じよう・2019」の参加者はパルシステム埼玉の元役員、組合員ら総勢18人。バスでさいたま市――福島県いわき市――富岡町――いわき市――さいたま市というコースを回った。案内役は旅館館主で「NPOふよう土2100」の理事長として大震災復興支援事業に携わる里見喜生さんと、生活協同組合パルシステム福島顧問の和田佳代子さん。
 
「福島ツァー」のバスが向かうのはいつも主として富岡町である。なぜなら、富岡町は東日本大震災で甚大な被害を受けた自治体の一つだからだ。同町は事故を起こした東電第1原発から南へ約10キロのところに位置し、大震災では津波に襲われたうえ、原発爆発による放射性物質が降り注ぐというダブルパンチを被った。このため、「全町民避難」という事態に追い込まれ、町役場も郡山市へ退避せざるを得なかった。同町にあった双葉警察署も隣町の楢葉町へ。埼玉ぱるとも会としては、その富岡町に毎年通うということを通じて原子力災害の定点観測を続けてきたわけである。

 案内役の里見さんによると、2019年9月現在で、福島県における津波や福島第1原発の事故で県内、県外に避難を余儀なくされている人は約4万人。ピーク時は約16万だったというから、震災から8年余を経てもなおピーク時の避難者の4分の1が、いまだに我が家があったところに戻れないでいるということになる。

 では、富岡町の場合はどうか。里見さんによると、避難した全町民1万3010人のうち、これまでに町に戻ったのは1080人に過ぎない。全町民の8・3%だ。帰還する町民が少ない理由はいくつもある。一つは、町民の中に今なお残留放射能に対する不安が強いこと。他には、避難した人たちの間で「生活に必要な商店、医療機関、老人介護施設、学校などの整備が十分でない」「すでに避難先で再就職し、いまさら郷里に帰れない。帰ったって働き口がないから」「子どもにも新しい友だちができて、いまさら帰れない」といった思いが強いという。つまり、「帰りたくても、帰れない」というのだ。
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        新しい装いの常磐線富岡駅
 私たちが最初に立ち寄ったのは、津波で消滅したJR常磐線の富岡駅跡である。同駅は津波によって駅舎、プラットフォームが破壊されたり、消失したが、新しい駅舎、プラットフォームが完成し、営業を始めていた。2年前にはプラットフォームのわきに万里の長城のように高く積まれていたフレコンバッグ(放射能に汚染された草や土などを詰めた黒い袋)は姿を消し、駅前に無残な残骸をさらしていた、津波で半壊した商店街も跡形もなかった。駅前には、ビジネスホテルができていた。その近くには、震災で住むところを失った人たちが入居する公営住宅が軒を連ねる。
 まるで、津波などなかったような明るい光景だったが、常磐線下り列車の運行は富岡駅までで、同駅から4つ先の浪江駅まではまだ不通とのことだった。

 その後、双葉警察署わきにある、津波で殉職した同署員2人の慰霊碑を参拝。そこから、夜の森地区へ向かった。道路の両側に見事な桜並木が続き、それを挟んで5000軒ほどの住宅街が広がる。震災で全戸に避難指示が出てゴーストタウン(無人地帯)となったが、2017年4月に一部を残して避難指示が解除され、避難地からここへ帰還する人が出始めた。が、里見さんによると、「ポツンポツンと灯がともるようになったのは5000軒のうち1000軒ぐらい。それも、定住でなく、月か週に一度家に帰るといった人が多い」という。
 バスは住宅街のメインストリートを走ったが、人の気配があまり感じられず、むしろ、壁や屋根が朽ちつつある家々が目についた。家屋は、7~8年人が住まないと、中から腐ってくると言われる。現に、住宅街では取り壊しが始まっている、とのことだった。

 住宅街に隣接する広大な田んぼは、見渡す限りのソーラーパネルと化していた。和田さんによると、農民たちは稲作の続行を望んだが、原発事故により田んぼが雑草やセイタカアワダチソウの野原と化したため、それがかなわず、太陽光による発電作業を共同で始めたのだという。パネルは11万枚というからかなり大規模だ。
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富岡町夜の森地区では田んぼの除染作業が行われていた

 夜ノ森駅構内近くの帰還困難地域(立ち入り禁止区域)では、田んぼの除染作業が行われていた。生い茂った放射能に汚染された雑草を刈り取る。次いで、放射能に汚染された表土をはがし、刈り取った雑草とともにフレコンバッグに詰める。それから、新しい土を敷き詰める――という作業だ。パス内の線量計は毎時0・28マイクロシーベルトを示していた。環境相が定めた除染が必要な放射線量は毎時0・23マイクロシーベルトである。
 ツアー参加者の中には「福島では、もう除染作業は終わったのでは」と思っていた人もいて、「まだ除染作業やっているのか」という驚きの声が上がった。
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荒廃するケームセンター(富岡町の国道6号線沿線で)         壁が剥がれたパチンコ店(同)

 バスはそこから、国道6号線に出て、それを南下する。道路の両側は富岡町最大の商店街で、大型のガソリンスタンド、パチンコ店、ゲームセンター、寿司屋、レストランなどが並び立つ。が、その多くは壁が剥がれたり、窓枠が壊れたり、雑草に覆われるなどの荒廃が進んでいた。あまりの惨状に、参加者からは声もなく、皆、窓外を流れ去る廃墟のような光景を凝視し続けた。
「なぜ、朽ちつつある建物が放置されたままですか」との質問に、里見さんは言った。「このあたりは未だに放射線量が高く、立ち入り禁止区域になっているからです。皆さんも、ここで車を止めて外へ出ることはできません」

 ツアーが終わりに近づいた時、里見さんの口から出た言葉は「原子力災害はまだ終わっていません。いや、今なお進行しているんです」というものだった。そして、その証拠にと、地元紙・福島民報が毎日、紙面に『県内死者』を掲載していることを挙げた。
9月27日の『県内死者』欄には「直接死 1605人」「関連死 2278人」とあった。これは、26日午後5時現在の数字で、「直接死」は東日本大震災での津波による福島県内の死亡者数、「関連死」は避難の途中に亡くなったり、震災後に災害が原因の病気で亡くなったり、自殺した人の数で、その多くは原発事故にからむ死亡という。
「高市総務相はかつて、原発事故で亡くなった人は1人もいない、と言いましたが、原発事故にからむ死者が福島県では2200人を越し、なお増え続けているんです。しかも、今や、関連死の数が直接死の数を上回る。これは、もう殺人です」

 さらに、年が経るにつれて、被災住民に新たな悩みが生じている。例えば、避難地から元の居住地に戻った人には高齢者が多い。その人たちに介護を必要とする人が出始めている。が、介護施設がない。「どうしていいのか分からない」。そんな声が高まっているという。それから、農民たちの悩みも増している。農作物に対する東電の補償が終了したため、農民たちは自らの手で農作物を販売しなくてはならない。「外食チェーンなどに二束三文で買いたたかれて、という話をよく聞きます」と里見さん。漁民たちの間では「原発事故による汚染水が海に排出されるのでは」との不安が高まっているという。

 帰途のバス車内で、参加者全員が、見学を終えての感想を述べ合ったが、1人の女性の発言が心に残った。「復興とは、元に戻すということです。きょうの見聞から見ても、原発事故の被災地はまだ復興していません。インフラや人々の生活を1日も早く震災前の状態に戻さなければなりませんが、それだけでは復興したと言えない。真の復興とは、ひどい災害をもたらした原発を完全になくすことです」

 彼女の発言に共感したが、いま1つ、私の感想を付け加えたい。それはこういうことである。「原発を推進してきたのは、政治家、官僚、電力会社経営者、学者、マスメディア関係者らである。が、これだけの原子力災害を引き起こしながら、誰ひとり責任をとらない。こんなことが許されるだろうか」

 
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