2019.10.17  韓国で日本を想う―6日間のソウル観光レポート (下)
          韓国通信NO616

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

<平和の少女像>
 日本では「平和の少女像」<下写真>の人気はあまりかんばしくない。日本人の恥、不名誉な存在と受け止められているからだろう。
韓国で日本を想う―6日間のソウル観光レポート (下) 
 しかしこの像を目の敵にして邪魔もの扱いする日本政府やネトウヨの主張には納得できない。
 この数年、私は韓国へ行くたびに日本大使館前にでかけ、可愛らしい少女像と「デート」を重ねてきた。
 水曜デモで「安倍は謝罪しろ、謝罪しろ」というシュプレヒコールは当然だが、決して「反日」ではない。もしあなたが飛び入りで参加しても大歓迎されるはずだ。
 水曜デモは単に謝罪を求める抗議の集まりではない。戦争と女性について考え、平和の大切さを訴えるスピーチの合い間には、歌あり、楽器の演奏ありでとても賑やか、一種の文化祭の雰囲気さえある。「♯Ⅿe Too」運動が後押しして集まりの参加者は増える一方、目を引くのは中高生たちの参加者がとても多いこと。元慰安婦のハルモニたちは、子どもたちに未来を確信して目を細める。

<日本に少女像を>
 1年ぶりに大使館前の少女像と再会した。日韓関係がドロ沼化したと言われるなか、あらためて日本人が少女像とどう向き合うべきか考えた。それも10億円の金銭で日本政府が「解決ずみ」と考えている状況の中で…。
 ドイツのベルリンにあるユダヤ人虐殺の歴史を伝える「ホロコースト記念碑」。ホロコーストは人類全体が忘れてはならない事実として記憶が共有され、完成した広大な記念公園が今ではドイツ屈指の観光地となっている。あいちトリエンナーレ2019「表現の 不自由展」が一時、中止に追い込まれた日本とは好対照だ。
 都合の悪い歴史的事実を隠匿し、否定する傾向が戦後74年過ぎた日本では最近特に活発だ。堂々と憲法違反を続ける政府が憲法を変える執念を見せ、戦前への回帰を目指すことと無縁ではない。ある元慰安婦のハルモニがマイクを握り、「侵略と戦争の責任を認めない日本は再び戦争の道を進む」と語った言葉が今でも忘れられない。
 「平和の少女像」の眼差しは、厳しく日本の現状に向けられている。
 ドイツの「ホロコースト記念碑」のように、「平和の少女像」が本当に必要なのは日本ではないのか。少女像を日本が請うて引き受ける日、日本は生まれ変わり、再出発する日になるはずだ。

<ソウルを歩く>
 「秋夕(チュソク)」にかかった今回の旅行では、「動」と「静」が劇的に変化するソウルを体験した。ソウル滞在後半の12日と13日は交通機関、ホテル、コンビニ以外はほとんどが休業、食堂探しに困るほどだった。博物館や美術館はもちろん休館。人と車が少ない朝のソウルは、道路も樹々もビルもピカピカ、「朝(あさ)が鮮(あざ)やか」という「朝鮮」を連想させる美しい町だった。
 ソウルではどこもタバコが吸えないので苦労した。これからの韓国との付き合いを考えるとユーウツだが、これからはタバコが吸えそうな「地方(どさ)まわり」でもしようかなと考えている。

 久しぶりの「ソウル散歩」をスケッチした。
 ホテルに近いソウル市庁前の広場でテントが立ち並び、全国各地の物産品が売られ、里帰りのお土産を求めるソウルっ子で大賑わいだった。
 アメリカ大使館横にある歴史博物館に立ち寄る。8階建ての立派なビル、こんな場所にいつ博物館ができたのか。近代以降の貴重な歴史資料が写真、映像とともに展示されていた。入場料無料、年中無休。日韓の近代史に関心のある日本人には必見の博物館としておすすめしたい。鐘路駅から徒歩5分のところ。日本大使館からも近い。

 景福宮は一度行ったら二度と行くところではないと思っていた。
 初めて行った1987年当時は、光化門と宮殿の間に旧朝鮮総督府の建物が威容を誇っていた。それも金泳三大統領時代に撤去された。
 景福宮は光化門を含めてリニーアル、復元工事を重ねて大きく変貌した。街は閑散としていたが、ここだけは外国人観光客で大変な賑わい、さながら人種の国際見本市の観を呈していた。
光化門_2019
       <写真/光化門前の観光客>
 柳宗悦が集めた朝鮮の民芸品が収められたかつての「朝鮮民族美術館」は景福宮内にある国立民族博物館に引き継がれている。残念ながら休館。

 ソウル大学へ。懐かしい正門を抜けると、かつての空き地に新校舎、研究所棟が続々と立ちならび、大学は一変していた。カササギと遊んだ芝生が雨に煙っていた。教室には学生の姿はなく、受付のオジサンがこちらを睨んでいるだけ。喫茶室の注文の仕方がわからない「浦島太郎」は、窓側のテーブルに腰かけてやっと手に入れたアイスコーヒーにありついた。留学からもう20年の年月が流れていた。私の青春の地である。
 大学に来るバスでハプニングがあった。降りようと人をかきわけているうちにバスが発車しそうになり、とっさに大声で「オリマース」と叫んだ。車内が一瞬静まりかえったようだった。「オリマース」という日本語に、私も周囲の人も驚いた。とっさに韓国語が出なかったことに私の心は痛く傷ついた。
 地下鉄車内でのこと。向い側に坐っていたお年寄りが、竹で作った日本でよく見かける「孫の手」を持っていた。「韓国語で何というのか」と聞いてみた。「효자의 손(親孝行の手)」だという。日本では「孫の手」。少し違うが似たような表現に二人で笑った。隣で聞いていたお年寄りもうなずいた。
 植民地歴史博物館が昨年開館したことを知り出かけた。地番と淑明女子大学が手掛かり。地下鉄の駅からしばらく歩いたが、道をたずねると逆方向を歩いていた。該当する番地に建物が見つからない。玄関前にしゃがりこんでいた若者に聞いたが「わからない」。路地に入ると番地が突然変わった。通りすがりの女性にきいた。名前は知っているけれど「○◇×?」という店を曲がったところだという。それでも見つからない。女子大の近くで女性がスマホで調べてくれた。「この坂を上って右へ」。駅から10分のところを1時間以上も歩いたことになる。
 実は、今回の韓国旅行に備えてスマホに切り替えた。「グーグルマップ」なら、世界のどこでも使えると思っていたが使えなかった。たどり着いた博物館は「休館」だった。
 「くたびれもうけ」だったが、充実した一日だった。多くの人と話ができたうえに、帰途はソウル駅で降り、南大門市場、韓国銀行からホテルまで4時間も散歩を楽しんだ。

 徳壽宮の美術館では「近代美術家の再発見」シリーズとして、「絶筆時代の画家たち」の作品展が行われていた。ナグネ※は、そこでたっぷり満たされた時間を過ごした。運転免許証を見せたら無料扱いになったのもうれしい。
 ※「ナグネ」は旅人という韓国語の固有語。私の名刺の肩書は「ナクネ・ライター」(旅するライター)である。
 館内には伝統画、油彩、抽象画など6人の作家の作品が略歴とともに陳列されていた。特に興味を引いたのはキム・イェジンとペク・ユンムンの韓画の作品群だった。実は、墓参りをしたハングルの「先生」が韓画の作品を多く残していたこと、また私自身が最近水墨画を始めたこともあり、二人の作家に特別に親しみを感じたのかも知れない。
 「絶筆」した6人の画家たちは、日本の植民地時代に日本の画壇と深いつながりを持ちながら、日本の敗戦、さらに南北分断という歴史に翻弄され、「絶筆」せざるを得ない経験を持つ人たちだ。「親日」あるいは「親北」というレッテルを貼られ、まともな評価を受けることなく生涯を閉じた画家たち。彼らを再評価しようという試みが今回の企画展だった。
 民族の受難のなかで懊悩した芸術家たちを再評価する動きに、悲劇を乗り越えようとする日本にはないエネルギーに感動を覚えながら美術館で3時間ほどを過ごした。

 韓国は今、南北統一という民族の悲願を達成するために、また分断から生まれた非民主的な社会の枠組みを克服するための努力が続けられている。あの「ローソク」のエネルギーが、その原動力だが、将来を見据えた過去の克服の努力がさまざまなところに見えてくる。
 韓国の民主化運動を勉強しているという私に、ユースホステルの職員が、発行されたばかりの「ソウル民主化運動歴史地図」をプレゼントしてくれた。忘れてはならない民主化の歴史遺産が細かく記された地図。それを見ると、韓国の人たちが歴史を知らなければ将来はないと真剣に考えているのが伝わってくる。
 「ブラブラ歩きの6日間」で韓国の「光」を見たような気がした。

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