2019.10.16  日本の財政は破綻しているのか、いないのか(下)

盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

国際比較の要件
 社会経済比較を行う場合、国の規模や経済発展水準が類似していることが比較の条件になる。また、北欧の福祉国家のような経済社会を目指す場合には、その諸制度と実態を詳しく分析することが必要である。たまたま都合の良い政策や制度があるからといって、比較規準に一致しない国の個別政策を取り上げ、それを日本に適用しようとしても成功しない。まして、旅行者の個別体験が社会経済比較の根拠になることなどあり得ない。
 アメリカは日本と同様に、個人消費をベースにしているが、税負担を小さくする代わりに、社会的サーヴィスの提供を最小限に抑えている。ドイツは日本と同程度の経済発展水準にあるが、税負担は高く、その分社会的サーヴィスのレベルも高い。日本はアメリカ型の経済社会を目指すのか、それともドイツのような西欧型の経済社会を目指すのか。それぞれの良いとこ取りはあり得ない。アメリカ型の消費生活と西欧型の社会サーヴィスを得ようというのは虫の良い話だ。それを追求するから、将来世代から借金しなければならない。
 ドイツの消費税は19%とEU内では低い方だが、社会保険負担や所得税負担を考慮すると、グロス給与の45%ほどを社会保険基金と国庫に収めなければならない。さらに、北欧の福祉国家の場合はグロス給与の50%程度を社会保険基金と国庫に納めなければならない。当然のこととして、北欧の個人消費生活は日本に比べてかなり質素である。アメリカは社会的サーヴィスを最小限にして個人の消費生活を謳歌しているのにたいし、西欧の福祉国家は個人消費を犠牲にして、現在の社会サーヴィスを享受している。
 社会主義国がまだ存在していた時代には、物価が安く生活しやすいとか、医療が無料で自己負担がないという宣伝が蔓延していた。私が最初にハンガリーに滞在した1970年の終わりには、同僚の経済学者がパンとワインで換算すれば、日本とハンガリーは同じ経済水準にあると言ったので驚いたことがある。キリストが生きている時代ならまだしも、現代の経済社会で我々はパンとワインだけで生活しているわけではない。無料のものが世の中にあるはずもない。誰かがその費用を負担している。問題はその質だ。社会主義国の商品やサーヴィスは「安かろう、悪かろう」というものだった。世界市場から隔離され、技術発展から取り残された旧社会主義圏の商品・サーヴィスは量質とも最悪だった。それは社会主義国に生きるほとんどの人々が実感していた。たまたまハンガリーを訪れた旅行者が、円に換算した買い物価額を、単純に日本の価額と比較して、ハンガリーは安いなどという感想を述べても、何の分析にもならない。
 体制転換から30年を経過した現在、旧社会主義国の医療制度は危機的な状況にある。今でも旅行者は救急医療を無料で受けられる。しかし、それはそれだけのことである。救急医療が無料だから、さぞかし素晴らし医療システムが機能しているのだろうと考えてはならない。経済発展水準が低いと、医療設備の更新に絶対的な限界がある。経済社会の技術水準や資金力が貧困なのに、医療設備や体制だけが充実しているということはない。
 旧社会主義国では医師や看護師の所得水準が依然として低いので、恒常的に医療従事者が西側へ流出している。とくにルーマニアやブルガリアでは2000年以降、医師の半数が国外へ流出したために、深刻な事態が生じている。チェコやハンガリーでも、近年、年間、千人単位の医師の流出を見た。所得水準や医療設備に格段の違いがあるから、自国に留まる意味を感じない医師や看護士が西側諸国に流出する。
 この結果、医療体制に生じているのは深刻な医師・看護士不足で、それが患者に大きな不便を与えている。簡単な白内障手術ですら数ヶ月の待機時間が必要で、膝プロテーゼや脊柱手術の場合は1年ほど待機しなければならない。もちろん、民間クリニックで即座に手術を受けることはできるが、健康保険は効かず自費診療になる。
 ハンガリーの健康保険をもっている外国人が事前の準備なしに公立病院へ行っても、まず診療は受けられない。患者を受け付けるシステムがないから、現地の人でも診療を受けるのにひと苦労する。医療システムが社会主義体制時のままの医師主体で構築されており、患者へのサーヴィスという視点がゼロだから、もたもたしていると何時間待っても診療を受けられず、家に戻ることもある。事務員や看護士が待合の患者の面倒を見ることはない。すぐに診察を受けたい場合には、救急車を呼ぶしかない。
 最近、ハンガリーのTVで国立がん治療センターの化学(抗がん剤)治療を受けるために、患者が午前5時から40-50名が行列しているというニュースが流された。地方から治療を受けにブダペストへ来る患者は、その日のうちに治療を受けられるように、早めに病院へ到着して、早い番号札を得る必要がある。午後2時に治療は終了するので、それに間に合わない番号札を取れば、翌日再びブダペストへ出て来る必要があるからだ。一事が万事、ふつうに診療を受けようと思えば、こんな具合になる。しかも、このシステムは旧社会主義時代とほとんど変わっていない。
 筆者も2月に総胆管結石の手術を受けた。緊急度が高かったので、内科医長と直接にコンタクトを取り、翌日に超音波検査からすぐに内視鏡よる結石除去を受けることができた。ドイツとの歴史的交流が深いハンガリー医学の水準は高い。しかし、医療設備や治療インフラは体制転換以後も大きなリノヴェーションなしに放置されている。私が入院したのは130年の歴史を持つ総合大病院だが、病室やトイレなどの設備は荒れ放題で、いろいろな箇所が壊れたままだった。部分的に修理してなんとかなる状態を過ぎている。トイレにはペーパーは置いてないし、鍵もかからない。シャワー室は不潔でとても使える状態にはなかった。食事は朝食と夕食にパン切れ3枚にマーガリン、紅茶、ふつうの店では売っていない質の悪いハム2枚だけ。ゴミ箱に捨てるのは申し訳ないから、家に持ち帰って猫に与えたが、匂いを嗅いだだけで食べようともしなかった。1食30円程度食事である。健康保険財政が豊かでないので、病院食も貧弱でインフラは荒れ放題である。膵臓癌の疑いでCT検査も受けたが、20数棟のレンガ造りの病棟から成るこの病院には古いCTが1台しかない。以前、大阪府立大学獣医学部の新校舎を見学したが、そこには最新のCTとMRIが納入されていて驚いた。ハンガリーの大病院は日本の動物病院以下である。経済力が違うと、このような状態になる。
 もちろん、最新の設備を備えたモデル病院は存在するし、旧体制時代に党幹部が利用していた病院にはトイレを備えた個室の部屋が多くある。それだけを見学すると、素晴らしい医療態勢だと思い込むが、最新設備を備えた病院は政治家用で、党幹部が利用していた病院は民間保険を使う上客を優先している。一般の患者が公的保険で使う病院の設備は上に記したような悲惨なものだ。だから、当地に進出している日本企業の多くは、病院と個別の契約を結び、日本の民間保険で個別診療が受けられるようにしている。もちろん、現地の公的保険の加入は義務だから、二重に保険をかけていることになるが。
 こういう状況は実際に生活しないと分からない。だから、単純な旅行者の体験で、すべてが分かるかのように勘違いしてはならない。ロシアに行く場合にも鉄則がある。病気になったら、可及的速やかにロシアから離れて、欧州の国に移動することである。民間疾病保険を提示する外人は「かもねぎ」である。無用に長期入院を強いられるだけでなく、場合によっては移送の際に医師や看護師が、ビジネスクラスの航空券で付き添ってくるからである。保険がしゃぶり取られるから、気を付けなければならない。
 それでもチェコやハンガリーの所得水準や工業水準はアジアの中進国よりはるかに高い文明国家である。ここから東へ進むごとに、社会状況は貧困さが増す。ちなみに、ハンガリーの標準付加価値税率は27%、チェコのそれは21%である。スェーデンは25%、フィンランドは24%、ノルウェイは25%である。たとえば、乗用車の購入に際しては、車両取得税で上乗せされた価額にこれだけの付加価値税がかかるから、日本で購入する価格の少なくとも倍になる。北欧の福祉国家はこうやって個人消費を抑制し、社会消費を賄っている。
 
 日本の財政再建には恒久的な税収が必要である。一時的に法人税を徴収するだけでは焼け石に水である。法人税を厳しく取り立てても、毎年、何十兆円もの税収が得られるわけではない。現在の日本に、大企業だけでなく、中小企業からも厳しく法人税を取り立てる状況があるだろうか。この点は欧州も日本も同じである。だから、欧州では付加価値税(消費税)が主要な税収になっている。

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