2019.10.31  少数民族にとって中国革命とは何だったか(3)
          ――八ヶ岳山麓から(295)――

阿部治平(もと高校教師)

すべては毛沢東から始まった
1949年の中華人民共和国成立後から1953年までに、中国内地(漢人地域)では農地改革が完了した。このとき、すでに農業生産合作社(のちの生産隊)が試行されていたが、それは期待通りに経営されていなかった。したがって55年第1回全国人民代表大会(全人代)では、集団化は「穏歩漸進(ゆっくり確実に)」という決定がなされた。
ところが、毛沢東は全人代の翌日に地方党書記を集めた会議を招集し、慎重な農業政策をひっくりかえして「集団化を急げ」と号令し、農業部門の責任者鄧子恢らを「ブルジョア・富農の思想」「纏足女のよちよち歩き」とこき下ろした。
毛沢東はすでに皇帝であった。彼の頭のなかにあったのはマルクス主義というよりは、古代周の井田制とか農民反乱の首領のスローガンにしばしば出てくる大同思想だったかもしれない。
毛沢東の号令は内地の農業集団化への狂奔を生んだ。56年末には全農家の88%が高級合作社(のちの生産大隊・完全な集団経営)に組織された。

チベット人地域の占領政策
以下は、チベット政府領域外の、雲南・四川・甘粛・青海などのチベット人地域の話である。
チベット人地域に入った中共軍は、初めのころは、重税をなくし、「不分不闘、不劃階級(階級区分をせず、階級闘争は行わない)」と宣伝し、ときには貧困牧民には救済金として一定の金額と家畜を与え、羊や衣類などの売買を援助し、ところによっては無料の医療などを提供して、農牧民から中共への恐怖心をのぞこうとした。これは軍閥・国民党軍によって、中共は頭に角が生えている化物だとか、人殺しが平気な連中だといった宣伝が行き届いていたからである。
中共の初期行政のたてまえは、①寺院や有力者からの借金の高利の軽減、②上層支配者の特権と、役人出張時の経費負担をする「ウーラ」制度の廃止、③寺院や有力者が所有した家内奴隷の解放などの初歩的な三項目にとどめ、農牧地改革はやらないということになっていた。
だが、この「緩やかな社会改革」の時期は短かった。

急進政策の登場
毛沢東の号令がかかると、軍幹部と漢人官僚は、一斉に「政教一致の残酷な封建的農奴社会」の「民主改革」工作にのり出した。「民主改革」とは、旧社会の支配者をその地位から引きずりおろし、農地や家畜を貧農に分け与えることである。彼らにとっては、成績を上げて毛沢東への忠誠を示し出世する絶好の機会が来たのである。
社会上層のものの搾取・圧迫を下層民が糾弾し、苦しみを訴える集会を「訴苦集会」というが、「民主改革」は、これを各地域で何十回となく開くことによって農牧民の「階級的自覚を促す」という方法で行われた。
工作員は地主・富農・中農・貧農・農村プロレタリアなどとチベット人地域社会を内地同様に区分し、地主・富農を集会でつるし上げる対象にした。つるし上げる側の「積極分子」も、「貧しいものほど革命的だ」という論理で下層民の中から選んだ。
さらに彼らは旧社会の支配者・指導者を打倒したのち、「貧農」を担ぎ出して集落に新政権をつくった。この中には集落の不良分子が混じることもあった。
寺院や土司(歴代王朝から地方統治者に任じられた者)・首長・富農らの屋敷は占拠されて工作員らの住宅となり、そのほかの家屋や耕地、家畜、農具などは農牧民に分けあたえられた。だが、農牧民の中には、夜になると分配された土地証文や家畜を寺院や地主に返すものがあった。またもらった土地に作付けせず、従来通り首長のための労役に従うものもあった。
農牧民にしてみれば、「民主改革」は自ら望んだことではなかった。これに対して中共工作員は、再三「訴苦集会」を開いて階級闘争の復習をしなければならなかった

監禁と殺人
中共は、「民主改革」をやるまえに、土司身分の者や集落首長、寺院高僧など社会上層部を一ケ所にあつめ予防拘禁した。伝統的支配層を「民主改革」に抵抗する勢力と考えたからである。
たとえばカムの西康省のことを書いた『甘孜蔵族自治州民主改革史』によると、56年初めある地域の首長らと寺院高僧を多数集めて、70日という長い間、「説得と闘争」をおこなった。最終的に彼らは農地改革と寺院の特権の剥奪に同意したという。ここに「寺院の特権」というのは、大寺院は領主・地主であると同時に、警察権や裁判権さらには監獄をもっていたからである。
前記『改革史』は、「多くの者は自覚的に誠実に賛成したが、ある部分の人は本当のことを言わなかった」と記している。首長らは、70日間という長い監禁生活を強いられ、音を上げたのである。
甘孜州での完全な形の「民主改革」は、抵抗勢力である寺院が少ないダンバで行われた。ダンバ24村の「守備」の地位にあった雍載陽(チベット人)は、「民主改革」実施の際のことを「私のようなものは、漢人地域ではとっくに銃殺されていた。ダンバの改革では依然として私に仕事をさせてくれている」と語っている。同じダンバの土司の一人王寿昌(チベット人)も「『民主改革』のときは、怖いというものがいた。私も怖かった」という(『甘孜蔵族自治州民主改革史』)。
「訴苦集会」では前述のように、地主・富農階級の者がつるし上げを受け、面罵され殴打され投獄され、あるものは銃殺された。ダンバでも社会上層の者はこのような目にあわされたのであろう。彼ら二人は幸いにも大目に見てもらえたのである。私(阿部)はチベット人中共幹部から、もっと残酷な訴苦集会の話を聞いたことがある。
カムやアムドの旧支配層は、中共軍が進駐したときは、肩書だけで権力を伴わなかったとはいえ、高い地位を保証されていた(「有職無権」)。それが突然「民主改革」に巻きこまれたのだから、恐怖、混乱、絶望が非常なものであったことは想像できる。
仏教寺院に対する「民主改革」も同じで、これを「宗教改革」ともいった。高級僧侶を階級的敵として逮捕し訴苦集会で吊し上げ、投獄し、時には銃殺した。一般僧侶に対しては還俗を強要した。

集団化
先に紹介した、カムで新政権の役人に任命されたニャロンのアテンによると、地主の土地を分けてもらい自営農となったものが受けた集団化に関する説明は、第一段階は各人の土地や家畜、農具を人民公社に出資し、年末には全体の収穫物から税金・種子・その他を除いた後、残った部分の50%は出資に応じた分配をうけ、残りは人民公社の成員全体に均等に分配されるというものだった(ここに人民公社というのは、初級合作社・のちの生産隊と思われる)。
第二段階では、土地も家畜もすべて人民公社(高級合作社・のちの生産大隊と思われる)のものとなる。公社の農牧民は労働に応じて紙幣の形で給与が支払われるというのである。労働は点数制で評価され、もっとも働きのよいもので1ヶ月最高10キロの食糧が分配されるというものであった(『中国と戦ったチベット人』)。
食料のほかに賃金があるとは考えられるものの、10キロは少なすぎる。日本では第二次大戦前「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」たとき、月に18キロは必要であった。

集団化も農牧民の望みではなかった。だが、もっともチベット人を絶望的にさせたのは、寺院の破壊と高僧への迫害であった。これは敬虔な仏教徒にとっては、天地がひっくり返るほど恐ろしいものであった。
かくして、チベット人地域には叛乱がいつ起きてもおかしくない状況が生まれた。内地でも中国史上まれな大量の餓死者を出した人民公社・大躍進まであと一歩である。(つづく)

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