2019.11.25 少数民族にとって中国革命とは何だったか(7)
――八ヶ岳山麓から(300)――

阿部治平 (もと高校教師)

ここでは皇帝に匹敵する権力と階級闘争の論理が少数民族の衰退を導いた経過を見る。

反右派闘争の始まり
1956年2月、ソ連共産党20回大会でのフルシチョフ首相のスターリン批判は世界に大きな衝撃を与えた。とりわけハンガリーやポーランドなど東欧諸国の衝撃は大きく、社会的動揺が生れた。
5月毛沢東はこれによって自信が揺らいだのか、ひろく中共の支配に対する批判を求めた。「百花斉放百家争鳴」運動である。知識人らは、はじめ報復を恐れて批判を口にしなかったが、何回も促されてようやく意見表明に踏み切った。批判の多くは誰が考えても当を得たものであった。
しかし毛沢東は、6月になると人民の敵=右派が一斉に立ち上がったものと受け止めて中共批判に激しく反論し、それまで中共に寄り添ってきた民主同盟や農工民主党を「反共反社会主義」と名指しで批判した。毛沢東による批判は皇帝の裁決と同じ意味を持つ。
毛沢東は、社会主義改造がおわった中国になおプロレタリアートとブルジョアジーの矛盾が存在し、社会主義と資本主義の生死を賭けた路線闘争が存在する。これに勝利しなければ体制の危機が生まれると考えていた。プロレタリア独裁下の継続革命と階級闘争の理論である。
このとき、反右派の熱狂が中国中を駆け巡った。知識人はブルジョアジーに区分され、攻撃の対象になった。中国の建設に必要な知識人55万余が社会的に葬られた。彼らの家族も運命を同じくした。これ以後毛沢東路線に反対する者はほとんどいなくなった。
だが、3年後の59年の廬山会議では、彭徳懐らは民衆の餓死・放浪・離散の惨状を背景に、あえて毛沢東の大躍進政策を批判した。毛沢東はこれもブルジョア階級の反撃として退けた。彭徳懐は文化大革命の初期、暴行虐待を受け獄死した。

青島民族会議と地方民族主義
チベット人地域反乱と同時に反右派闘争がつづくなか、1957年7月山東省青島に29の民族105人の代表を集めた民族工作座談会がひらかれた。総理周恩来は、はじめ遠慮のない発言を求め、発言に対して報復をすることはありえないといった。
新疆の独立運動すなわち「東トルキスタン共和国」運動を戦ったものからは、連邦国家と自治区の区域変更の要求が出された。青海省副省長だったタシ・ワンチュクは、チベット自治区をチベット人地域全体に拡大するよう要求した。さらに叛乱鎮圧の仕方が無慈悲で、罪のないものが大量に殺されていると抗議した。
会議の終わりに、総理周恩来は少数民族の要求を全面的に退ける挙に出た。少数民族は漢民族などと雑居しており、独立した経済単位となってはいない。したがって独立の主体とはなりえない、と民族自決と連邦国家構想を否定し、民族自治区域の変更も拒否した。
57年11月、北京での中央民族委員会座談会において、責任者の汪鋒は「自治区拡大や単一民族の自治区を求めるのは、中央の政策に逆らうものだ」「地方民族主義批判は、少数民族地区における社会主義と資本主義の二つの道の戦いだ」と発言した。
これ以後、民族問題についてなにか発言するものは、地方民族主義すなわち階級的敵のレッテルをはられた。
プンワンは、かつて毛沢東が大漢民族主義に反対せよと発言したことを指摘したにもかかわらず、「この階級闘争の結果、全国人口の8%しかない少数民族のうち、十数万の人々が地方民族主義の帽子をかぶせられ、迫害を受けた。これに引きかえ人口の92%を占める漢人にはだれひとり大漢民族主義分子がいないのである。この不公正な現象はどうしても理解できない」と慨嘆した(“A Brief Biography of Phuntsok Wanggyal Gorananpa” by Daweixirao )。

青海の方法
毛沢東は、少数民族問題もプロレタリア独裁下の階級闘争の論理で裁いたのである。
58年3月毛沢東は、中共四川省委員会の『甘孜蔵族自治州民主改革問題に関する中央への報告』に同意し、「(チベット政府管轄地域は延期したが)金沙江の東(すなわち甘孜州)は断固としてやる」「民衆に依拠してやる。基本的な環節は、農牧民が主人公になる気持があるかどうかだ」といった。ところが農牧民には、集落首長や寺院を乗り越えて主人公になる気はすこしもなかった。
毛沢東はこの実態を見ようとしなかった。だから叛乱鎮圧については、「戦争はどうやるか?準備しなくてはならなない。準備して大いにやれ。やればやるほどよい。これはいい加減にはできない。ぐずぐずしていれば余計悪くなる」と指示したのである。
中共青海省委員会は58年1月2日から3月8日まで、拡大全体会議を開き、党書記孫作賓ら省政府幹部数名を、少数民族政策と宗教政策において中共中央の路線に反した反党集団として除名した。このとき、党省副書記タシ・ワンチュクも副省長の職務が剥奪された。実権を握った急進派は、叛乱の徹底鎮圧を中央に申請した。58年6月24日毛沢東は、これに同意の回答をした。
「青海の反動派の叛乱は極めて結構だ。労働人民解放のチャンスがやって来た。青海省委の(断固鎮圧するという)方針は全く正確だ」
「チベット人地域の問題は戦略問題であり、革命の問題である。革命の問題は革命の方法を採用しなければならず、任務は素早く徹底的にやれ。青海は初めのころ平和的にやった。だがいま革命的方法をとっているのは正しい」
青海の急進派は本当にこの通りにやった。たとえば海南州マンラ(貴南)県では集落首長や僧侶41人を「学習」名目で招集して大部屋に監禁し、窓から銃を撃ち込んで皆殺しにした。これを私が知ったのは、当時の公安警察幹部だった人物が55年後に事件を明らかにしたからである(尹曙生論文「炎黄春秋」2012・3)。
「青海の方法」はすべての叛乱地域に適用された。中共軍は遠慮することなく、チベット高原の仏教寺院を反革命拠点としてほとんど打ち壊し、虐殺と略奪から逃亡しようとしただけの「労働人民」を大量に殺戮したのである。

毛沢東は今も生きている
王希哲は1980年に香港で発表した論文「毛沢東と文化大革命」の中でこう指摘した。
「……毛沢東が成功裏に指導したこの革命は、農民革命にすぎなかった、ということだ。それは共産党の指導下に行われたが、その内容について言えば、農民革命の範疇を出るものではなかった。
……もしわれわれが毛沢東を一人の農民首領として考察するのであれば、別に何も彼を
糾弾せねばならぬところはない。毛沢東は中国の歴史上もっとも偉大な、空前絶後の農民首領である。彼が後に中国の帝王になったのは、まったく農民首領の階級的必然性がしからしめたのであって、すこしもおどろくにはあたらない」(高島俊男『中国の大盗賊』講談社現代新書)。この論文によって王希哲は懲役15年の刑を受けた。

中共は抗日戦争を8年、国共内戦を4年戦った。中共の勝利は党内で最高の地位にあったものの勝利であった。中国は農民がほとんどを占めていた。農民は貧困と圧政からの脱出と平等を渇望し、その実現をいつも英雄に託してきた。歴史上勝利した英雄はたちまち誰からも干渉を受けない地位に昇った。
レーニンの時代から各国共産党には、下級は上級に従う、少数は多数に従うという組織原則があった。これがスターリンなど指導者個人に権力が集中し、個人崇拝を生んだ原因のひとつとなった。ところがこの原則は中国伝統の皇帝支配の論理に非常にうまく調和した。
毛沢東は「私は秦始皇にマルクスを加えたものである」と公言してはばからなかった。彼は自分が大衆の崇拝を受け大衆に君臨している事実を十分に自覚していた。
私が中国生活の中で日常的に感じていたのは、伝統的思考と習慣の強さである。毛沢東崇拝を自然発生的とすれば、その後継者の権威はかなり人為的なものである。だが、人々は後継者が至高の権力を持つことにも、行政の各レベル・各地方に「土皇帝」・小毛沢東があることにも何の抵抗も感じていなかった。皇帝崇拝に慣らされた者が皇帝を批判することはありえない。権力者に対する追従と贈賄はあたりまえのように行われていた。

中国は、古代秦帝国以来、周辺異民族を征服し漢民族に同化させてきた専制国家である。
漢民族とは異なる少数民族の歴史、文化、宗教を守ろうとするものは異端とされてきた。異端は排撃される。
いま新疆(東トルキスタン)でもチベット高原でも、少数民族のこれという人物は社会から葬り去られ、学校教育から少数民族語が消えている。モンゴルに至っては、ほとんど民族語を失い漢民族の大海の中に埋没しつつある。民族自決あるいは高度の自治、あるいは民主と自由を中共に期待した者たちの希望は、皇帝支配と階級闘争の論理によって異端とされ、無残に踏みにじられた。
荒野を血で染めた農民革命は、20世紀半ばに新たな専制国家を生み出し、それが過酷な運命を少数民族にもたらしたのである。(おわり)
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