2019.11.27 ライク外務大臣粛清の全容(2)
 フィールド一家の悲劇

盛田常夫(在ブダペスト、経済学者)

 ライク逮捕・起訴において、ノエル・H・フィールドの存在と「自供」(氏名リスト)は決定的な証拠とされた。フィールド逮捕は極秘事項であり、フィールドは自らの拉致を外に知らせる手段をもっていなかった。
チェコスロヴァキアの諜報部に出向いたはずの夫から、長い間にわたって連絡が無いのを不審に思った妻のヘルタは、プラハの諜報部に出向き、夫の消息を尋ねた(1949年8月26日)。チェコスロヴァキア諜報部は夫のノエルはハンガリー国境近くの町の病院に入院しているとヘルタをブラチスラヴァへ案内し、そこからさらにハンガリー国境へ移動しハンガリー諜報部隊に引き渡した(8月28日)。夫に続いて、妻も拉致されたのである。もっとも、この拉致によってフィールド夫妻は合流することになったが。夫人逮捕の理由は、アメリカのスパイである夫との共謀罪であった。
 フィールド尋問内容はチェコスロヴァキア諜報部やポーランド諜報部にとってもきわめて重要な情報であり、フィールド逮捕後に、両国の諜報部員が頻繁にブダペストを訪れ、直接にフィールドを取り調べている。

事実は小説より奇なり
 ヘルタが消える前、ノエル・フィールドの弟であるヘルマン・フィールドはヘルタの知らせにチェコスロヴァキアに渡り、そこからワルシャワに飛んで友人たちと会い、その後音信不通になった。プラハに戻る帰路、ワルシャワ空港でポーランド諜報部に逮捕され(1949年8月22日)、ワルシャワのミエンジェシンにあるポーランド諜報部の監獄に拘束されたのである。
 ヘルマン・フィールド夫妻は建築家で、欧州の戦後復興計画を調べるために、度々欧州に出向いていた。ポーランドで調査したこともあり、ワルシャワには建築家の友人たちがいた。その手助けでビザを取得してワルシャワに入り、帰路プラハへ戻る時に拘束された。逮捕を実行したのはポーランド保安警察第10課(国内共産党内部のスパイ摘発)次長のユゼフ・スフィアトゥヴォ(Jozef Swiatlo)だが、逮捕指示は当時の共産党書記長で大統領を兼ねていたビエルトから出ていた。ライク事件の出発点になったフィールド逮捕と取調べは、ハンガリーのみならず、チェコスロヴァキアとポーランドの諜報部にとっても、きわめて重要な案件であった。
 後にヘルマン・フィールド夫妻が記した手記(Herman Field, Trapped in the Cold War: The Ordeal of an American Family, Stanford University Press, 2000.pp. 5-15, pp.365-367)に、ワルシャワ空港での逮捕状況が記されている。当時、アメリカ国務省は1949年9月13日付けで、ポーランド外務大臣宛にヘルマン・フィールドの消息を尋ねる外交文書を送付した。これにたいして、ポーランド外務大臣は9月28日に、アメリカ大使に口頭で、「彼の動向は不明(really mystified)」と回答した(Hermann Field, 上掲書429頁)。
 こうして、ハンガリーに拉致されたノエルだけでなく、ヘルマン・フィールドもポーランドに拉致・収監されたのである。

フィールド夫妻養女の拉致
 フィールド夫妻が育ての親であるエリカ・ヴァラックはドイツの共産主義者の仲介を得てベルリンに向かい、両親の消息を探ろうとしたが、ソ連占領地に入ったまま消息不明になった。ソ連軍に逮捕された(1950年8月)。かくして、フィールド一家はそれぞれがハンガリー、ポーランド、ソ連の保安警察部隊に拘束され、消えてしまった。
 エリカ・ヴァラックは社会主義の理想を信じて、共産党員になった。フィールド夫妻の消息を探るために、ドイツ共産党員レオ・バウアー(Leo Bauer)に助けを求めたところ、東ベルリンで会うことになった。西ベルリンのテンペルホフ空港に午後1時に到着し、午後3時に東ベルリンに入って1時間もしないうちに、スパイ容疑でドイツ保安警察に逮捕され、ソ連側に引き渡された。
 逮捕後、1年半の間、ベルリンの刑務所に拘束され、ソ連の軍事法廷で死刑を宣告された。その後、ポーランドのブレスト(Brest)に移送され、そこからさらにモスクワに移送されて処刑を待つ身となった。モスクワに到着して半年ほど経過して、死刑から15年の強制労働へ減刑という通知を受け、ヴォルクタ(Vorkuta)の労働キャンプへ移送された(1953年8月)。1954年12月までヴォルクタで強制労働に従事し、そこからすべての外国人はアベズ(Abez)の一般刑務所に移送された。そこに1955年9月まで拘束され、その後にモスクワの拘置所に移された。モスクワ移送は「再調査の結果、無罪と認定されたから」というものだった。1954年秋に釈放されたフィールド夫妻とヘルマン・フィールドは、ポーランドとハンガリーの当局にエリカ・ヴァラックの消息を求める要請を行い、フルシチョフにも手紙を送った。アメリカ国務省もソ連側に釈放を求めた。最終的に1955年10月に釈放され、10月27日に空路で東ベルリンへ向かい、そこからタクシーで西ベルリンへ戻った。
 以上の足跡は、1955年12月9日付のU.S. News and World Reportに掲載されたエリカ・ヴァラックのインタヴュー記事を要約したものである。
 当時、東欧各国の保安警察ではスパイ容疑で逮捕した者をソ連保安警察に引き渡すことが慣例になっていた。というより、「ソ連に引き渡す」という殺し文句が自供を引き出す取調べ手段になっていたのである。ライク夫人も、ハンガリー保安警察の取調べにおいて、取調官からソ連への引渡しの脅しをかけられていた。何ともやるせない。
 数奇な運命を辿ったヴァラックは自らの体験を綴った書籍を出版した(Erica Glaser Wallach, Light at Midnight, Doubleday; 1st edition 1967)。このタイトルは、ハンガリー人作家アーサー・ケストラー(Arthur Koestler)のノンフィクション的小説Darkness at the Noon(Macmillan, 1940. 邦訳『真昼の暗黒』(岩波文庫、2009年)から着想された。ケストラーの小説の主人公はエヴァ・ストライカー(Eva Striker Zeisel, 1906-2011年)で、マイケル・ポラーニィの妹ローラとシャンドール・ストライカーの間に生まれた子供である。エヴァはオーストリアの物理学者と結婚してソ連に移住したが、そこで遭遇した苦難を描いたものである。

フィールド拉致事件の暴露
 フィールド拉致はライク裁判においても極秘事項だった。そして、もしその後に起きた亡命事件が発生しなければ、フィールド一家の拉致事件は永遠に知られることなく、闇に包まれたまま歴史から消えるはずであった。
 ところが、フィールド一家拉致が公になる事件が発生した。
 フィールド逮捕からすでに5年半が過ぎた1954年10月、ラーコシは湯治目的でモスクワに滞在していた。そこへポーランド統一労働者党第一書記長ビエルトが突然やってきた。緊急の用件でモスクワに出向いてきたのだ。ポーランド諜報部幹部でヘルマン・フィールド逮捕を実行したユゼフ・スフィアトゥヴォが、前年暮れの東ベルリン出張時に亡命し(1953年12月5日)、ヘルマン・フィールド拉致を明らかにしたために、アメリカ国務省から外交ルートを通して、引渡し要求が来ているというのだ。それで、慌ててモスクワに飛んで来た。ヘルマン・フィールドを釈放するだけでなく、ハンガリーに拘束されているノエル・H・フィールドも釈放しないとまずいという。ラーコシは暫く時間が欲しいと答えたが、その日のうちにノエル・H・フィールドの釈放指示を出した。
 亡命したスフィアトゥヴォはフランクフルトのCIA離反者受付センター(CIA Defector Reception Center)で取調べを受け、1954年4月にアメリカ本国に移送され、さらに取調べを受けた。スフィアトゥヴォが公の場に姿を現したのは、1954年9月28日のラジオ・フリー・ヨーロッパの放送である。これでヘルマン・フィールド拉致事件の全貌が公になり、アメリカ国務省が正式な引渡し要求を行い、4週間後にヘルマン・フィールドの釈放が実現した。1949年にスフィアトゥヴォは何度もブダペストに出向き、ノエル・H・フィールドの尋問を行っているから、フィールド夫妻がハンガリーに拘束されていることも知っていた。ノエル・H・フィールド夫妻が釈放されるのは、その3週間後である。

 なお、ハンガリーで釈放されたノエル・H・フィールド夫妻にアメリカへ戻る意思はなく、ハンガリーに「亡命」することになった。ハンガリー(カーダール)政府は賠償金を支払い、住居と職を与え、ラーコシ時代の暴挙を謝罪した。ノエルは1970年に、妻のヘルタは1980年にブダペストで他界した。
 ノエル・H・フィールドのドキュメンタリー映画が制作されたように、西側ではフィールド一家の悲劇の調査や研究が多数発刊されているが、ハンガリーでは専門家以外にフィールド事件を知る人はほとんどいない。

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